マタイ 5章

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(5:9)

「平和」とは何もしなくても存在するものではないようです。

イエス様は「平和をつくる者」と、平和をつくり出していく必要があることを伝えています。

残念ながら、サタンは人々に憎しみと怒りを植えてこの世を地獄にしようとしています。

イエス様は十字架によって愛と赦しを植えて、この世を天国にしようとしています。

イエス様の十字架こそ、憎しみの鎖を打ち砕く、神の勝利、平和をつくる希望です。

使徒パウロもこのように言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)

私たちは憎しみの連鎖に火をくべるのではなく、愛と赦しと和解のメッセージをこの地にもたらしていかなければなりません。

イエス様の十字架の御業を理解することなく、平和をつくる者となることはできません。

マタイ 4章

「そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」」(4:10)

イエス様は公生涯と呼ばれる働きをされる前に、悪魔の試みを受けられました。

悪魔の誘惑は、イエス様が何でもできる神の御子であるということを前提に読まなければそもそもどうして試みなのかが理解できないと思います。

イエス様は石をパンに変えることはできたはずです。

五つのパンと二匹の魚で五千人を養うことができたのですから。

奇跡的な守りを受けることもできたはずです。

嵐を静めることもできたのですから。

また、悪魔にひれ伏して、この世のすべての王国を手っ取り早く手にすることもできたはずです。

しかし、それでは、神の御国がこの地に現されることはありませんでした。

神のみこころが天で行われているように、この地に行なわれること、それ以上に重要なことはないことをイエス様は示されました。

マタイ 3章

「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」」(3:16,17)

聖書の神は「三位一体」(Trinity)なる神です。

唯一の神ですが、父、子、聖霊の三つの位格があります。

「三位一体」という単語は聖書に出てきませんが、神が「三位一体」であるということが聖書を読むと分かります。

イエス様の水のバプテスマの場面に私たちは「三位一体」なる神を見ます。

子なる神、イエス様が水から上がられた時、聖霊なる神が鳩のようにイエス様の上に降って来られました。

そして、父なる神が天から声をかけられました。

ここに三位格があります。

永遠の神は、三位一体として存在されています。

マタイ 2章

「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」(2:23)

イエス様は、6節にあるように、ミカ書5:2で預言されていたようにベツレヘムで生まれる必要がありました。

その後、15節にあるように、ホセア書11:1で預言されているようにエジプトで過ごす必要がありました。

当時、エジプトのアレキサンドリアには大勢のユダヤ人が住んでいたことが知られています。

そしてそれから、23節にあるように、ナザレという町に住む必要がありました。

「ナザレ人」がどの箇所からの預言かは議論があります。

民数記6章、士師記13:5,7の「ナジル人」からという説もあれば、イザヤ11:1のメシア預言に出てくる「若枝」(ネツェル)からという説もあります。

大事な点は、すべては神の御手の中にあり、やがてパズルのピースがはまり、神のご計画の素晴らしさを賛美するようになるということです。

マタイ 1章

「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(1:21)

「イエス」という名はモーセの後継者「ヨシュア」のギリシア語表記で、当時の一般的な名でした。

ですから、ヨシュアがイスラエルの民を約束の地に導いたように、民をその罪からお救いになるという意味がありました。

イエス様の系図にはアブラハム、ダビデだけでなく、「バビロン捕囚」(17節)のことが言及されます。

「バビロン捕囚」はイスラエルの民の罪の結果であったということが旧約聖書が伝えているところです。

イエス様の時代のユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありました。

そういう意味で、捕囚状態は継続していました。

すなわちイスラエルの民が必要としていたのは罪からの救いだったのです。

福音書はイエスが罪から救うという知らせです。

使徒 28章

「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(28:31)

使徒パウロは囚人としてローマに行きますが、そこで自費で借りた家に住むこととなります。

囚人という身分でしたが、訪ねて来る人たちを歓迎し、神の御国を宣べ伝え、イエス・キリストについて説明しました。

メッセージ訳ではこのように閉じられます。

彼の扉はいつも開いていた。

「彼の扉」の「彼」は主なる神のことと考えられます。

オンヌリ教会のハ先生はこのように言います。

「『使徒の働き』の最後はピリオドではない。『使徒の働き』の最後は終わりがない。(中略)神のことばを学んだ人々が出て行き、教会を建て、教え、そして教会は生まれて行った。教会が教会を生むことは二千年の間、引き継がれたことである。これが『使徒の働き二九章』である。」

「使徒の働き二九章」を書く教会、新しい教会を生む教会となりますように。

使徒 27章

「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。」(27:1)

パウロは警告していました。

皆さん。私の見るところでは、この航海は積荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」(10節)。

ところが、

百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。」(11節)

と言います。

さらに

この港は冬を過ごすのに適していなかったので、多数の者たちの意見により、ここから船出し、できれば、南西と北西に面しているクレタの港フェニクスに行き、そこで冬を過ごそうということになった。」(12節)

と、状況と多数決で判断が下されました。

百人隊長の判断は世俗社会の現実です。

たとえ聞いてもらえなくても、教会はパウロのように声を上げ、祈り続け、この世に希望を与え続ける使命があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

主は気にかけておられる

本日の栄シャローム福音教会のメッセージは東海林真先生です。

東海林先生は、新實伝道師が卒業した拡大宣教学院卒で、永井信義先生が牧会する東北中央教会の教会主事です。

また、今回の記念CDのデザインを担当してくださいました。

私(小山)は山梨県にあるTPKF甲府カルバリ純福音教会で説教の奉仕をします。

甲府カルバリは長年、与久田先生ご夫妻が牧会されてきました。

私も大変お世話になった先生ご夫妻ですが、体調の問題のため牧会を続けることができなくなり、昨年引退されました。

新しい牧師が見つかるまで、TPKFイーストの教職者が支援することになりました。

昨年の三月、突然モラー先生から甲府の教会のことを聞かれました。

それで今、甲府の教会が無牧で、栄シャロームの礼拝DVDを送っていること、今度説教に行くことを伝えました。

すると、モラー先生から、実は今、甲府の教会を開拓したエバート、マリア・アンダーソン宣教師の母教会に通っているとの話でした。

神様の不思議な導きを感じています。

先週は、金沢フィラデルフィア教会の宮崎健男先生、大和あがないの丘の荒井恒男先生のお別れ会(葬儀)がありました。

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

という御言葉が心に響いています。

使徒 26章

「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」(26:18)

ダマスコ途上でパウロに現れたイエス様はパウロの使命をこうまとめました。

人々の目を開き、自分のほんとうの姿に気づかせ、罪を悔い改め、悪魔の暗闇から出て、神の光の中に生きるようにするために。わたしを信じる信仰によって、彼らは罪の赦しを受け、きよくされたすべての人たちと共に、神の相続財産を受けるようになる。」(LB)

パウロはこれを「天からの幻」(ヘブンリービジョン)(19節)と呼びました。

もっとも、この「ヘブンリービジョン」は、パウロだけでなく、キリスト教会に与えられていると言っても過言ではないと思います。

人は目が開かれ、イエス・キリストを信じ、サタンの支配から、神の御国に生きるものとされる必要があります。

使徒 25章

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(25:19)

総督フェストゥスが理解したパウロがユダヤ人たちに訴えられている理由、それは、イエスが生きていると主張していることでした。

そして、これこそキリスト教会が主張する本質です。

イエスが生きている。

イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られましたが、復活されました。

復活は福音の中心です。

キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」(1コリント15:14)

よみがえられたキリストは今生きて働いておられます。

天においても、地においても、すべての権威がキリストにあり、キリストの統治は始まっています。

もうすぐキリストは再びこの地に来られ、全てを正されます。

イエス・キリストこそ、生ける神です。