民数記 26章

「しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」(64,65節)

約束の地を目の前にして、神は再度、イスラエルの民の人口調査を命じられました。一章で行われた第一回目の調査の時に数えられた者は、ヨシュアとカレブ以外はいませんでした。その理由は、ヨシュアとカレブ以外は神に従うよりも、自分たちの感情を優先してしまった結果でした。(14章参照)信仰生活は選択の連続でもあります。神を信頼する方を選ぶか、自分の感情を優先させるか、私たちは選択しなければなりません。

「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ10:11)

民数記 25章

「娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。」(2節)

賀川豊彦という人はこう勧めたと言います。

「誘惑と戦うことなど考えず、誘惑から逃げなさい。」

イスラエルの人々は、誘惑に対してあまりにも無防備であったために落ちてしまいました。榎本保郎師はこう言っています。

「わたしたちはみんな弱い存在である。弱い者は逃げる以上の策を持っていない。(中略)それを卑怯だなどと思ってはならない。むしろそれこそ勇気を必要とすることであり、そんなところにクリスチャンの強さを示すべきである。(中略)善をしようとする意志があることと、それを行う力があることと同一ではない。」

私たちは自分の弱さを自覚し、誘惑に対して「自分は大丈夫」などと過信せずに、気をつけることが大切です。

民数記 24章

「『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』今、私は私の民のところに帰ります。」(13, 14節)

新約聖書の中にバラムに関してこんな記事があります。

「バラムと似て、金のためなら、どんなことでも平気でするからです。」(ユダ11節LB)

神様はバラクに、バラムのところに行ってはならないと言われたのに、結局は富に誘惑されて行きます。彼のロバが話すという驚くような奇跡によって彼は警告を受け、神が告げることだけを告げることはします。今日の箇所は、彼が富に左右されないと言っているように感じますが、実は彼の富の誘惑は終わっていませんでした。次の章の事件はバラムの策略であったと一般的に考えられています。

今日は棕櫚の主日。ロバの子に乗ってエルサレム入城をされたイエス様を覚えつつ、イエス様の真実に感謝しましょう。

民数記 23章

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(19節)

神と人間には大きな違いがあります。創造主と被造物と言う違い以外にも、今日の箇所では3つの違いが出てきています。

まず、第一番目に人は偽ることがあっても神は偽ることはありません。

第二番目に人は罪を犯すので、悔いる必要がありますが、神は罪を犯すことはありませんので悔いることはありません。

第三番目に人は言ったことさえ実行できないところがありますが、神は約束されたことは必ず成し遂げられるお方です。バラクは言いました。

「その神様が、『祝福しなさい』とお命じになったのです。神様の祝福を変えることはできません。」(20節LB)

詩篇133篇では、私たちが礼拝をするために共に集まるそのところにとこしえのいのち祝福が命じられると言っています。

民数記 22章

「バラムは主の使いに申し上げた。『私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。』」(34節)

イスラエルの民がモアブの地に来たとき、モアブの王バラクはイスラエルの人々のうわさを聞いて恐れました。それで預言者バラムを招いてイスラエルをのろってもらおうとしました。最初、神はバラムに行ってはいけないと命じますが、再三の求めに対して、行くことを許可されます。ある牧師は神のみこころには二種類あると言います。「完全な、直接的なみこころ」と、「許可されたみこころ」です。神は私たちにご自身の明確なみこころを語られますが、私たちが反論するときに、私たちの自由意志を尊重して許可をされます。許可されていても、神の道とは反対を向いていることもあります。自分を主張するのでなく、神の明確なみこころを求めましょう。

民数記 21章

「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」」(5節)

荒野を旅する彼らに、毎朝天からマナが降ってきました。しかし、彼らは驚くような奇跡のマナを、「みじめな食物」と呼びました。榎本師はこう言います。

「いつとはなしに神の言葉を求めなくなった。あたかも生の秘密のすべてが聖書の中に隠されてあるかのごとくに思って、尋ね求めた時代、そうした初心がいつの間にか忘れられ、現実の生活の方が大きくなり、この現実を生きていくのにみ言葉がとるに足りない軽いものに思われるようになったとき、私たちは求めることを怠るようになる。そして求めることを怠るとき、私たちは何ものも受けることが出来なくなり、この世の真中で飢えて死にそうになる。(中略)神に帰る以外に私たちの真の解決はない。」

民数記 20章

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」(8節)

荒野を旅するイスラエルの民が水を求めたのは、今回で二度目でした。一度目は岩を打って水を出すように命じられ、モーセは従いました。しかし、今回は命じるだけでいいと言われたのに、モーセは従わずに、前回と同じように打ってしまいました。モーセはこの失敗で、約束の地に入ることが許されませんでした。指導者たちは格別厳しいさばきを受けることを心に留めるべきだと思います。(ヤコブ3:1)しかし、ここにはさらに大きな問題がありました。Ⅰコリント10章に、

「その岩とはキリストです。」

と解説されています。キリストは生ける水を私たちに与えるため、一度、十字架で打たれました。今は打たなくても口で告白すれば(ローマ10:10)生ける水は与えられます。モーセはそのことを象徴することに失敗しました。

民数記 19章

「しかしその祭司は夕方まで汚れる。」(7節)

きよめる儀式にたずさわる祭司もまた汚れると聖書は言います。きよめるために、自分が汚れると言うのです。イエス・キリストは、神の御子なのに、私たちをきよめるためにあの十字架ですべての汚れを受けられました。聖書は言います。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)

榎本保郎師(ちいろば先生)はこう言っています。

「私たちの貧しさ、けがれ、罪のいっさいを引き受け、私たちを富ませ、きよめ、あがなうためにこそ、主は飼い葉おけにまで来たりたもうたのである。」

民数記 18章

「そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。」(1節)

大祭司は、聖所に関わるすべての責任を負わなければなりませんでした。私たちの大祭司はイエス・キリストだと聖書は言います。

「大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(ヘブル3:1)

イエス・キリストは私たちの責任を負ってあの十字架の上で死んでくださいました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53:4)

イエス様はまた、教会の責任をも負っておられます。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1:22)

イエス・キリストが教会に関わるすべての責任を負っておられることを覚えることは、私たちの力になります。

民数記 17章

「その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。」(8節)

16章でモーセとアロンのリーダーシップがチャレンジされます。

「でしゃばるのはいいかげんにしてほしい。お二人の説教はもうたくさんだ。たいした人物でもないくせに。おれたちだって、神様に選ばれた者じゃないか。神様はおれたちみんなの神様だ。お二人だけが特別に偉いのだろうか。そんなに威張りくさる権利がどこにあるんだっ。」(16:3LB)

今日の箇所で、神は、アロンが神から立てられた器である事の証明として、アロンの杖から、芽が出、つぼみをだし、花をつけ、アーモンドの実を結ばせました。神の民を導くために神が指導者を立てられます。誰が指導者になるべきか自分が一番よく知っていると傲慢にならずに、謙遜に歩むことができますように。今日は主の日。主を第一にしましょう。