Ⅰ歴代誌 13章

「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(3節)

 「神の箱」、それは神の臨在の象徴でもありました。しかしサウルの時代、それはほったらかしにされていました。神はサウルを王として選び、サウル王はイスラエルの国を建国し、権威者となりました。しかし、彼にとって「神の箱」などどうでもよかったのです。彼にとっての神は、その程度の存在だったからです。「あってもなくてもいい」、その程度の信仰だったのです。

私たちはどうでしょうか。私たちにとって神に礼拝を捧げることは、どの程度の意味があるでしょうか。礼拝は捧げても、捧げなくてもいいものでしょうか?今まで、神に礼拝を捧げることを顧みずにきてしまったならば、今日、ダビデたちのように心を一新(考え方を新たに)しようではありませんか。まず、神の国と神の義を求めようではありませんか。

Ⅰ歴代誌 12章

「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。」(22節)

ダビデは人を集めたわけではありませんが、彼のもとに人が集まってきました。初代教会も同じ現象が起きました。「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47新共同訳)ダビデは詩篇の作者としても有名ですが、彼は神を賛美する人でした。神を賛美する人の周りには、自然と人が集まってくるということだと思います。日々の生活の中で、不平不満ばかりが口から出てきても何もいいことはありません。私たちも不平不満ばかり口から出る人の周りにいたいとは思わないと思います。どんな状況でも神を賛美することは選べると思います。

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(詩篇34:1)

Ⅰ歴代誌 11章

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(10節)

 イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権であり、預言者サムエルが油を注がれた時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、自分自身がイエス・キリストを王としていく必要があります。口先だけではなく、生活において、日々、イエス・キリストを王として生きていくことが求められています。

Ⅰ歴代誌 10章

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(13,14節)

 サウル王の一番の問題、それは、主に尋ねなかったことだと聖書は言います。祈りはキリスト教の核心です。なぜならば、一番大切なことは神との関係を育むことだからです。日々の生活の中で、「主よ、導いてください」と祈りによって尋ね求めることは本質的に大切なことです。そして、聖書のみことばに耳を傾け、その箇所を黙想します。「主よ、この箇所から、あなたは私に今、何を語ろうとしているのでしょうか?」と思い巡らします。主は、言われます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

「主よ、お語りください。導いてください。私は聴きます。」

Ⅰ歴代誌 9章

「この人々は歌うたいであって、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、自由にされていた。昼となく夜となく彼らはその仕事に携わったからである。」(33節)

神様に賛美を捧げる人々は、昼となく夜となく神様に賛美を捧げるように他の仕事から自由にされていました。LBではこう訳しています。「歌手たちは、みな優秀なレビ人で、エルサレムの宮に住み、四六時中、その仕事につきました。彼らは特に選ばれた者たちで、ほかの責任はいっさい免除されていました。」つまり、それほど神様に賛美の歌を捧げることが重要視されていたことが分かります。彼らはもちろん目に見える聴衆がいなくても、ただ神様に賛美の歌を歌うことを大切にしていました。目に見える聴衆がいなくても、ただ神様に最高の賛美を昼となく夜となく捧げたというのです。私たちも、誰も私たちの賛美を聴く人がいなくても、ただ神様に、一生懸命賛美を捧げることに意味があります。

Ⅰ歴代誌 8章

「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。」(34節)

8章はベニヤミン族の家系、サウル王の家系が記されています。サウル王は戦死
し、彼の家系で唯一残るのがメリブ・バアル、すなわち、メフィボシェテです。
ダビデとヨナタンの友情のすばらしさは、ヨナタンの死後、メフィボシェテに注
がれました。そして、彼の子孫は祝福され、発展していきます。ここに神様の恵
みを見ます。メフィボシェテの祝福は、ただ、その父ヨナタンのゆえでした。同
じように、私たち人類の祝福はみな、イエス・キリストにかかっています。イエ
ス・キリストのゆえに、私たちの人生は祝福へと変わるのです。ですから、イエ
ス・キリストを信じて、神の子となることがとても重要なのです。「もしあなた
がたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束に
よる相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)

Ⅰ歴代誌 7章

「彼女はみごもって男の子を産んだ。彼はその子をベリアと名づけた。その家がわざわいのさなかにあったからである。」(23節)

  ベリアとは、災いという意味です。ベリアの父、エフライムの二人の子は、律法を犯して殺されてしまいます。その反省も兼ねて、生まれた子に「災い」とつけたのです。興味深いことは、この子孫から、モーセの後継者、ヌンの子ヨシュアが生まれるのです。神は大きな罪を犯した者の子孫を用いて、重大な任務につかせたのです。私たちは弱く、失敗を犯しやすい者です。しかし、キリストは、私たちが悔い改めるならば、私たちを赦し、もう一度チャンスを与えてくださいます。キリストは、ご自身のもとに来られる者たちに言います。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」(マタイ9:2口語訳)失敗は終わりではありません。神はセカンドチャンスの神です。キリストの中でマイナスはプラスになります。

Ⅰ歴代誌 6章

「箱が安置所に納められて後、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らはソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。」(31,32節)

 ダビデは主の宮で一日中賛美の歌を歌うように音楽家たちに命じました。「彼らは会見の天幕の臨在の場所の前で音楽をもって仕えていた」(英訳)。主の臨在の場所はいつも、神様への賛美に満ちていました。ですから、教会の中にいつも賛美と礼拝の歌の音楽が流れていることは大切なことです。神への賛美の音楽が満ちているならば、神の臨在を想起させる場所となるからです。逆に、どんなに立派な建物があっても、神様への賛美の音楽が聞こえないならば、教会としての体をなしていないと言えます。

今日は主の日。心からの賛美の歌で主の宮である教会を満たしていこうではないでしょうか。

Ⅰ歴代誌 5章

「ハガル人およびこれとともにいた者はみな彼らの手に渡された。それは、彼らがその戦いのときに、神に呼ばわったからである。彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。」(20節)

イスラエルのルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ハガル人とその連合軍との戦いの時、ひたすら神に信頼し祈ったがゆえに、祈りが聞かれたと聖書は解説します。祈りは、「おまけ」ではなく、本質的に重要であると。ジョン・コーソン師はこう言います。「このことは私を励まします。なぜなら、祈るのに遅すぎることはないということだからです。」たとえ祈らずにはじめてしまって、戦いの中にいる自分に気づいてしまったとしても、遅すぎることはありません。今、私たちはイエス様の御名を呼び求めることができます。神は私たちの祈りに答えられます。祈るなら希望があります。「ひたすら神様に信頼していたので、祈りが聞かれ、ハガル人とその連合軍をみごとに打ち破ることができました。」(LB)

Ⅰ歴代誌 4章

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(10節)

 系図がただ続く中で、まるで通読する人のオアシスのように、このコメントが目にとまります。ヤベツという人に関しては、ほとんど分かっていませんが、彼の祈りが彼の人生を変えたことを聖書はどうしても私たちに伝えたかったことは事実です。大和の大川先生は日々の生活の中で、次の祈りをすることを提唱しています。「愛する天のお父様。どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手が私と共にありますように。災いから私を守り、私が苦しむことのないようにしてください。イエス・キリストさまのお名前によって祈ります。アーメン」

ヤベツの人生を変えた神様は今も生きておられます。今も同じように、私たちの祈りに答えてくださいます。