Ⅱ列王記 8章

「彼が王に、死人を生き返らせたあのことを話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。そこで、ゲハジは言った。『王さま。これがその女です。これが、エリシャが生き返らせたその子どもです。』」(5節)

 エリシャは、前に子どもを生き返らせてやったことのある婦人に、イスラエルにききんを見舞わせるので家族を連れて疎開するように言いました。飢饉が終わり、イスラエルに戻り、王に自分の家と畑を返してくれるように願い出ると、「たまたま王は、エリシャのしもべゲハジと話している最中でした。」(4節LB)ゲハジは、エリシャが子ども生き返らせた時のことを話していた時に、この婦人が王に願いに来たのです。その結果、全部返していただくことができました。神様の導きに従って行くならば、「たまたま」、「ちょうどそこに」という神の摂理を体験することができます。

Ⅱ列王記 7章

「さて、町の門の入口に四人のらい病人がいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」(3、4節)

 スポルジョンの古典、「朝ごとに」に、こう記されています。「愛する友よ。この書は主として信者への教訓として書かれたものだが、もしあなたが救われていないならば、私は心からあなたに同情し、あなたの祝福になることを語りたいと思う。聖書を開いて、らい病人の物語(Ⅱ列王記7章)を読んでいただきたい。なんと彼らの状態はあなたのそれと似ていることか。もしあなたが現在の所にとどまっているならば、あなたは滅びなければならない。…不機嫌に失望の色を浮かべじっと座っていても、破滅が来た時、だれもあなたを顧みるわけではない。…しかし、主の側に立って、主を求めるならば、あなたは主を必ず見いだすということを私は保証したい。イエスはご自分のもとに来た者を捨てられたことがない。」

イエス・キリストの中に希望があります。

Ⅱ列王記 6章

「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(17節)

 アラムの軍勢がエリシャの町を包囲しているのを見て、彼のしもべは恐れに縛られていました。それで、エリシャが彼の目が開かれるように祈ると、アラムの軍勢を天の軍勢が取り囲んでいるのが見えました。日常生活の中であまり意識しないかもしれませんが、霊の次元というものがあります。私たちは物質的な次元しか見ていないので、すぐ落胆し、行き詰まりを感じてしまいます。物質的な次元では、私たちの敵はあまりにも強大に見えてしまいます。しかし、エリシャは言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(16節)

「主よ、私の目を開いて、霊的な次元を見えるようにして下さい。」

Ⅱ列王記 5章

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七た
び身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようにな
り、きよくなった。」(14節)

 ナアマン将軍は、ツァラアトに冒されていました。(「ツァラアト」は、二版
では「らい病」と訳していましたが、「ハンセン氏病」など、特定の病名と結び
付けられないことから三版でヘブル語表記となりました。)彼は自分の病気をい
やしてもらうためにわざわざエリシャのもとに来たのに、エリシャが出て来てあ
いさつもせず、ただヨルダン川に七たび身を浸すように言ったことに腹を立てま
した。しかし、部下の進言に耳を傾け、エリシャが言ったとおりに実行しまし
た。その時、いやしを体験しました。どんなに納得できなくても、「神の人の
言ったとおりに」という姿勢が、人生に奇跡をもたらします。
「主よ、どんなに理解できなくても、聖書の言ったとおりに生きれますように。」

Ⅱ列王記 4章

「器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。」(6節)

エリシャが言うように、からの器を集めて、その器に油をつぐと、油は尽きることなく次々にその器をいっぱいにしました。しかし、器がなくなると、油は止まりました。アルゼンチンのリバイバリスト、アナコンディア師は、「空の器を捜して歩き、愛の油を注ぎ続けよう」と言います。「愛の油を注ぎ続ける限り、油注ぎは止まることはありません」と。私たちは愛の油を求めます。しかし、現実は、「これっぽち」と思っても、空っぽの人々に注ぎ続けることによって、愛の油が止まらないことを体験します。私たちが注ぐ愛は、自分の愛ではなく、神の愛だからです。ですから、愛の油が止まったと感じるのは、注ぐ器を見失っているからかもしれません。

「主よ、空の器を捜し、あなたの愛を注ぐことができますように。」

Ⅱ列王記 3章

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、」(15節)

エリシャはイスラエル、ユダ、エドムの求めに応じて神様からの預言をするために、立琴をひく者を呼んで、立て琴をひき鳴らす中で主の手がエリシャの上に下り、語りはじめました。聖書を見ますと音楽と神の油注ぎが切り離すことができない関係にあることを見ます。ですから教会において、礼拝音楽はとても重要な位置にあります。賛美の中で私たちの心は神のことばを聞く心に整えられ、私たちの人生の中における聖霊様の働きに心の扉を開くことができるからです。聖書にこう書いてあります。「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:18,19)賛美の歌に満ちあふれることは聖霊に満たされているしるしでもあります。今日は主の日、主への賛美に満たされましょう!

Ⅱ列王記 2章

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(9節)

預言者エリヤがエリシャに、何でも「求めなさい」と言いました。もし、自分がエリシャの立場だったら、何を求めるでしょうか?この世の一時的な楽しみを求めるでしょうか?エリシャが求めたのは「エリヤのいのちが、自分の人生に繰り返されること」(メッセージ訳)でした。エリシャは、エリヤのような人生を歩みたかったのです。それはエリヤがそうであったように、自分も聖霊の力で満たされて生きたいという祈りだったと思います。旧約聖書の時代、聖霊は限定的な人にしか注がれませんでした。しかし、ペンテコステの日以来、聖霊はキリストを信じるすべての人に注がれます。「主よ、エリシャのように、聖霊の力を求めて祈ります。聖霊様、臨んでください。」

※ 明日のSSCの第一、第二は塚田献師がメッセージ。第三は英語礼拝。JohnT先
生がメッセージしてくださいます!

Ⅱ列王記 1章

「そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」(3節)

 「バアル・ゼブブ」は「ハエの主」という意味で、ハエによって疫病が運ばれるので、災いをもたらす悪神として恐れられていたと言われます。新約では「ベルゼブル」「ベルゼブブ」と呼ばれ、悪魔的要素を持つものとして提示されています。イスラエルの王は、まことの神を拒絶した結果、そのような悪魔的要素をもつペリシテ人の悪神に助けを求めたと言うのです。イエス様は言われました。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)悪魔に助けを求めても騙され滅ぼされるだけです。命を与える主、イエス・キリストに助けを求めましょう!

Ⅰ列王記 22章

「すると、ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬をなぐりつけて言った。『どのようにして、主の霊が私を離れて行き、おまえに語ったというのか。』」(24節)

 預言者を自負していたゼデキヤが、ミカヤの頬をなぐりつけたというところに、主の霊がすでに彼を離れていたことが分かります。なぜなら聖霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)だからです。しかも新約聖書にはこんな箇所もあります。「しかし天からの知恵は、第一に純粋であり、おだやかなやさしさとに満ちています。そして、平和を愛し、だれにも礼儀正しくふるまいます。独善的でなく、人のことばに喜んで耳を傾けます。また、思いやりと善意にあふれた態度をとります。」(ヤコブ3:17LB)「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(Ⅰコリント13:2新共同訳)神のしもべは争いません。(Ⅱテモテ2:24)

Ⅰ列王記 21章

「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。」(4節)

アハブ王は自分の思い通りに欲しいものが手に入らなかったため、子どものように不機嫌になりました。貪りは人を、満足ができない惨めな存在にし、とんでもない悪に導きます。サタンの嘘は、「もし、これがあれば、あなたは幸せになれる」というものです。しかし神との関係以外に私たちを満足させるものはありません。使徒パウロは言いました。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4:11)学びましたということは、あのパウロでさえも、以前にそれを知らなかったということでもあります。スポルジョンはこう言います。「兄弟よ。あなたがつぶやくのは無理もないが、つぶやきをやめて満ち足りることを学ぶ大学の勤勉な学生であれ。」