詩篇 91篇

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(1節)

私たちの人生に大きな影響を与えるもの、それは「恐れ」ではないでしょうか。「恐れるものは何もない」と言っても、問題に翻弄されているならば、ただの強がりでしかありません。この詩は、恐れへの勝利が記されています。

「ですから、もう暗闇を恐れることはありません。真昼の襲撃にもおののくことはありません。暗闇に乗じてはびこる疫病も、明け方に襲いかかる災害も、恐れるに足りません。」(5,6節LB)

どうやって、そのように恐れに打ち勝つことが出来るのでしょうか?1節に、こう書いてあります。

「全能のお方のふところに住んでいます。」(LB)

全能なる神は、私たちの隠れ場、私たちの苦難の日の砦です。日々神様の御翼の陰に身を置くならば、私たちは何も恐れる必要はありません。

詩篇 90篇

「あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください」(15節)

私たちはまず、私たちの神は楽しませてくださる神であることを知る必要があると思います。聖書は言います。

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

私たちの神はまた、回復の神でもあります。

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(ヨエル2:25)

「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」(イザヤ61:7)

マイナスは必ずプラスになります。

詩篇 89篇

「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。」(52節)

この詩は、イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時に書かれました。イスラエルの人々の悩みの一つは、ダビデの王座は永遠だと神様が約束してくださったはずなのに、ダビデの子孫が今、王座にいないということでした。詩人は、やがてダビデの子孫としてイエス・キリストが永遠の王座につかれるということを理解することはできませんでした。しかし、詩人は理解できないことのゆえに、知っていることを犠牲にすることはしませんでした。詩人は歌います。

「しかしなお、主は永遠にほめたたえられるべき方です。」(52節LB)

この詩の最初と最後は信仰からにじみ出る賛美で始まり、賛美で閉じられています。私たちもまた、理解できないことのゆえに、知っていることを捨ててはいけません。「しかしなお、主は永遠にほめたたえられるべき方です。」と歌いつつ歩みましょう!

詩篇 88篇

「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。」(1,2節)

メッセージ訳では、

「あなたは私のラストチャンス」

と訳しています。神様が最後のチャンスだと。そして詩人は、ただ主を祈り求めます。神様は時として、私たちがそのような状況に追い込まれることを許されます。使徒パウロも同じ体験をしました。

「打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。」(2コリント一・八LB)

彼は、自分の無力さを痛いほど思い知らされたと言います。しかし、それで終わりません。パウロは続けて言います。

「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。」(九節LB)

神様は私たちが神様だけを頼るようにされます。今日は主の日。主に叫び、主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 87篇

「踊りながら歌うものは、『私の泉はことごとく、あなたにある。』といおう。」(7節)

メッセージ訳では『私の泉のすべてはあなたの内にある。』(All my springs are in you!”)と訳しています。イスラエルの気候において、水や泉は特にいのちとのかかわりがとても深いものです。旧約時代のイスラエルの民が偶像バアル信仰に走ったのは、バアルが天候(嵐)をつかさどる神だと言われていたからです。この土地は雨期と乾季しかありません。ですから雨期に入っても雨が降らないことは死を意味するほど恐ろしいことでした。もちろん、それは現代も同じです。この詩人の『私の泉はあなたにある』ということの意味は、いのちを保つことのできる方はあなただけです、との信仰の宣言の言葉と受けとることができると思います。わたしたちも、主よ、私の命はあなたのものですと宣言して今日一日を歩んでいこうではないでしょうか。

詩篇 86篇

「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」(5節)

今日の箇所を英語の聖書(NLT)では、こう訳しています。

「主よ、あなたは善い(Good)お方、赦す準備ができているお方、あなたを呼び求めるすべての人々にあわれみ(Mercy)に満ち溢れているお方。」
私たちは、まず、神様を呼び求めること、祈ることが大切です。この箇所では、「呼び求めるすべての人」に、神様は天の窓を開く用意が出来ていると言います。この真理に私たちはどう応答しているでしょうか?呼び求めているでしょうか?神様は善いお方です。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:17)

主よ、あなたを呼び求めます!

詩篇 85篇

「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」(10節)

恵み(Mercy)とまこと(Truth)は、どこで出会うのでしょうか?ヨハネの福音書1章には、こう記されています。

「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節)

「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17節)

恵みとまことは、イエス・キリストというお方にあって出会います。特に、イエス様の十字架の御業は、私たちに対する神の恵みを現し、神の真実を現します。
義と平和も、イエス・キリストのうちにあります。イエス・キリストは、義なる神、平和の君だからです。ですから今日も、イエス・キリストの御名を呼び求めましょう。私たちの本当の必要に答えることができるのは、イエス・キリストだけだからです。

詩篇 84篇

「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」(10節)

主の大庭にいる一日は、この世の千日にまさると詩人は言います。主の大庭とは、主のおられるところ、主の臨在、主のリビングルームのことです。メッセージ訳では、

「主を礼拝するところ」

と訳しています。それは、

「ギリシャの島々のビーチで過ごす千日にまさる」(MSG)

と。私たちはどうでしょうか。毎週日曜日、主を礼拝している時に、リゾート地で過ごすときよりもはるかにすばらしい時を過ごしているという自覚をもっているでしょうか。もしもっているならば、5,6節の約束を体験することでしょう。

「主の力を頂き、あなたに従って歩むことをほかの何より願う人は幸いです。そのような人にとっては、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう。」(LB)

詩篇 83篇

「彼らの顔を恥で満たしてください。主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。」(16節)

原文のヘブル語という言語が、大げさな感情表現を特徴にしていますので、驚くような表現が出てきています。しかし興味深いのは、これは別に自分に敵対する人々にのろいをかけているわけではないということです。16節をLBではこう訳しています。

「ああ主よ、彼らがあなたの力と御名を認めるようになるまで、徹底的に恥をかかせてください。」

つまり、主なる神を知らせてくださいという祈りでもあります。単なる知識としてではなく、現実として、主が偉大なる神であることを体験させて欲しいと。神を知らないから、その無知のゆえに起こる問題がなんと多いことでしょうか。私たちの祈りもまた、詩人に学ぶことができると思います。

詩篇 82篇

「弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。」(3,4節)

裁判所や行政と呼ばれるものは、そもそも社会的弱者を助けるために存在しています。自分で自分の身を守ることができない人々を救助するために、いろいろな社会的な地位が与えられています。ただ、政治の世界が腐敗するのは紀元前の世界でも同じでした。しかし、聖書は言います。「神は見てる」と。すべての国々は、結局は神の手の中にあると。神を恐れる政治家、神を恐れる裁判官がこの地には必要です。不正を見過ごさない神の存在を意識するならば、私たちの社会はよりよい社会へと変えられていくことだと思います。ただ私たちが忘れてはいけないことは、最終的に、神がすべてを裁かれるということです。
バングラデシュのホーム・オブ・ピース(孤児、貧しい子供たちの全寮制教育施設)のため、お祈りください。