詩篇 8篇

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(5節)

浅野順一という牧師は、「劣るもの」と訳されているヘブル語は、「後に立つ」と解釈することができ、神は先に立ち、人間はそのうしろに立つ、神は導き、人はそれに従うという意味となると言います。確かに、これが本来の人間の姿でもあります。神を神として認め、神の導きに従う・・・ここに、人間としての栄光、誉れがあります。8篇の最初の行と最後の行は、同じ文章です。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

「私たちの主、主よ」というのは面白い表現です。実は後半の「主」は、神の名、「ヤハウェ」が使われています。「私たちの主、ヤハウェ」となります。「私たちの主」は肩書きで、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。エルサレム途上で用いられた「ちいろば」のように、王なるイエス・キリストに従う人生こそ、栄光ある生き方です。

詩篇 7篇

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。」(1節)

 ダビデは自分の中傷者を「獅子」(2節)のようだと言います。興味深いことに、使徒ペテロもこう言います。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)

どうやって悪魔は私たちを食い尽くそうとするのでしょうか?私たちを責める事によって食い尽くそうとします。私たちの耳にささやくのです。「あなたは失敗者だ。」「それでもクリスチャン?」「あなたは間違っている」これらは悪魔の言葉です。私たちは、悪魔の火矢のように、日々の生活の中で非難の矢、中傷の矢を受けることがあります。だから、悪魔の言葉にだまされないように、日々、聖書のみことばに触れる必要があります。神様のことばに耳を傾ける必要があります。

詩篇 5篇

「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(2節)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3節)

とありますので、この詩を「朝の祈り」と一般的に考えられています。一日のはじめを、祈りをもってはじめるということは素晴らしいことです。律法的になる必要はありませんが、朝毎の習慣は、聖書的でもあります。出エジプト16:21にこういう箇所があります。

「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

これは、天から与えられたマナのことではありますが、朝ごとに祈り、聖書のみことばをいただく、というのは、聖書的な習慣だと思います。2節をLBはこう訳しています。

「私は神様以外のだれにも、決して祈ったりしません。」

聖書は「神様だけに頼る」ということを、私たちが学ぶ必要があることとして語っています。

詩篇 4篇

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(7節)

 6節にこう記されています。(メッセージ訳)

「どうして、みんな『もっと』ということに飢えているのか?『もっと、もっと』と彼らは言う。」

人間の物欲というものは果てしなく、永遠に満足することはありません。あれさえあれば、これさえあればと思っても、結局は、それを手にしても、また、別のものが欲しくなります。詩人は言います。

「わたしには『十分よりもっと』の神がおられる。」

人の本当の満足は、神との関係の中にあります。間違った場所に喜びを求めているということはないでしょうか?神の臨在の中の喜びは、物質的な繁栄よりも大きな喜びをもたらします。ですからイエス様は言われました。

「財産は天にたくわえなさい。そこでは価値を失うこともないし、盗まれる心配もありません、あなたの財産が天にあるなら、あなたの心もまた天にあるのです。」(マタイ6:20,21LB)

詩篇 3篇

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

 詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「天国のことで心が満たされていなさい。地上のことをあれこれ気に病んではいけません。」(コロサイ3:2LB)

「天国のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。

詩篇 2篇

「天の御座に着いておられる方は笑う。」(4節)

神様にとってみれば、人間が限られた能力でやっていることは、おかしなことだと思います。ある人が、壁にこう書きました。

「神は死んだ。ニーチェ」

次の日、別の人が、壁にこう書き加えていました。

「ニーチェは死んだ。神」

ボルテールという哲学者は、20世紀になる前に、聖書は「こんな本もあった」という博物館入りすると言いました。私たちは今、21世紀に生きていますが、聖書は、博物館入りするどころか、今も、世界のベストセラーであり、逆に、ボルテールという人は、ほとんどの人はもう知りません。さらに、彼の家は今、聖書協会の事務所になっているそうです。私たちの人生も、これと似ているところがあると思います。いろいろ、自分のない知恵を尽くしてがんばるのですが…。一番、いい方法は、神様に委ねて、膝をかがめて祈ること。天に座すお方を認めるということが大事なことです。

詩篇 1篇

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(3節)

1節を浅野順一師はこのように訳しています。

「幸いなるかな、悪人の計りごとに歩まず、罪びとの道に立ちどまらず、また嘲る者の座に坐らぬ者。」

ちょうど山上の説教で、イエス様が八つの「幸いなるかな」から始められたように、この詩は始まります。悪人、罪人についての説明はありませんが、「嘲る者」は神のことばを嘲るということだと思われます。なぜなら、正しい者は、神のことばを喜びとしているからです。正しい者は、「水路のそばに植わった木」にたとえられていますが、周囲は枯れ果てた荒野が想定されているのだと思われます。川が流れているために、その木は夏も冬も枯れることなく、いつも青々と茂っていると。浅野師はこう言います。

「義人の願うところは皆成就し、そのなすところは成功するというのである。」

ピリピ 4章

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(19節)

「神の富」は、「栄光の中」にあり、「キリスト・イエスの中」にあると言います。人は、イエス・キリストとの関係の中で、栄光に輝く神の富と結び付けられます。イエス・キリストの中ではじまり、イエス・キリストの中でまとめられます。パウロは、ピリピのクリスチャンたちが、貧しさの中にあったことを認識しています。(Ⅱコリント8章参照)しかし、彼らはどんなに貧しくても、神の働きのために自発的に援助していました。パウロはピリピの教会の経済を心配するどころか、確信していました。神が必ずピリピの教会の必要を満たしてくださると。神の富は「栄光の中」にあり、「キリスト・イエスの中」にあると。歴史を通じて、キリストの中にある聖徒たちは、そのことを体験して来ました。私たちの必要をすべて満たす主は生きておられます。

ピリピ 3章

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(10,11節)

パウロはまず、キリストの復活の力を知りたいと言いました。それは、死の力を打ち破り復活したキリストが、キリストを信じる者の内に働き、新しくする力です。しかし、それだけではなく、キリストの苦しみの交わり(コイノニア)も知りたいと言いました。それは、キリストのように苦しむことと言うよりも、聖霊が内住するがゆえに体験するこの世との葛藤という苦しみです。聖霊に導かれて生きていく人生は、肉の欲望とは正反対のものです。ガラテヤ書ではこのように言っています。

「私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行ないたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。」(17節LB)

ピリピ 2章

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(16節)

今日の箇所を直訳しますとこうなります。

「いのちのことばをしっかりともちなさい。キリストの日に私の誇りの根拠のため、私が走ったことが無駄でなく、労苦したことが無駄でなかった証明されるためである。」

パウロの言う「私の誇りの根拠」とは、成果主義の発想ではなく、神の国における使命を果たすということです。「キリストの日」とは、その使命を与えたキリストの御前に立つ日です。バークレーはこのように言います。

「パウロにとって人生の最もすぐれた賞は、自分を通して他の人々がイエス・キリストを知り、愛し、仕えるようになったと知ることであった」。

これは、自己満足の世界ではなく、神の国における自分の役割を果たすという意識です。