亀ゼリーの衝撃

今年7月半ばに香港から宣教チームがきて数日間一緒にこの地域での伝道活動を助けてくれることになりました。

コロナ禍でなかなかオープンな活動ができませんでしたがいよいよ具体的に動き出すことができることを嬉しく思います。

一つのアイデアとして香港デイを設けて「香港スイーツカフェ」をしてみたらどうかな、と。

エッグタルトや豆腐花など有名なスイーツもたくさんあるので初めての人でも興味を持って教会に足を踏み入れるきっかけになるのではと思います。

せっかくの伝道の機会ですので、みなさんのご協力とお祈りをぜひよろしくお願いします!

ところで香港スイーツの中に「亀ゼリー」というものがあることを今回初めて知りました。

亀を形どったゼリーなのかな、と思って調べてみたらガチで亀の甲羅を粉砕した物を使用していることを知り若干引きました、、、。

まさかゼニガメの甲羅を使っているのかとさらに調べたら最近はツチガメの甲羅を使用しているとわかり少し安心しました。

ジェニーにはいつもの場所で日向ぼっこをしながら、近所の方々への伝道に一役かってもらいたいと思います。

(小山晶子牧師人)

2サムエル 12:16-31

「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女は男の子を産み、彼はその名をソロモンと名づけた。」(12:24)

ダビデは罪を犯しました。

しかし、神はダビデを見捨てることはありませんでした。

ダビデは悔い改め、懲らしめを受けました。

神はダビデを赦し、驚くことにバテ・シェバとの関係を祝福し、二人からソロモンが誕生しました。

ソロモンという名前はシャロームに由来し、「平和」という意味があります。

ダビデは神からの祝福を回復したのです。

主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。」(詩篇103:9)

とあるように、神は誰が死ぬのも喜びません。

立ち返って、生きよ」(エゼキエル18:32)

と命じられる神です。

罪を告白し、主に立ち返るならば、神は暗い夜を輝く朝に変えられます。

主に立ち返るなら希望はあります。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル 12:1-15

「ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、」(12:13,14)

罪は人間の当事者だけでなく、究極的に神に対して犯すものです。

ダビデは「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。」(詩篇51:4)と告白しています。

驚くべき真理は、ダビデのように、罪を認めて告白し、悔い改める者には赦しが与えられるということです。(1ヨハネ1:9参照)

もちろん、それは、キリストの十字架の御業のゆえです。

ただ、「しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので」とあるように、罪に伴うその結果は残ります。

私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。」(2コリント13:7)

2サムエル 11:14-27

「しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。」(11:27)

ダビデ王は、誰にも知られずに自分の罪をやり過ごすことができたと思ったと思います。

しかし、聖書ははっきりと言います。

しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。」(LB)

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)

その罪は必ず身に及ぶことを知らなければならない。」(民数記32:23口語訳)

罪を覆い隠すことはできません。

神は罪をよしとされる方ではありません。

イエス様の十字架の御業は、罪を軽視してはいけないことも教えています。

ただ、悔い改めて神に立ち返る道は開かれています。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

2サムエル 11:1-13

「しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた。」(11:1)

聖書は、すべての問題の発端は自分がいるべき場所にいなかったことにあると言います。

ダビデ王は先頭に立って行くように王として召されていました。

しかし、彼は神の召しを軽視し、神の働きに参加せずに、いるべき場所にいませんでした。

その結果、彼は誘惑に負けて、大失敗を犯します。

ウリヤの言葉は、ダビデにどのように響いたのでしょうか。

神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。」(11節)

私たちはいるべき場所にいるでしょうか。

主よ、もし、私たちがあなたの召しを軽視し、あなたの働きに参加することなく、いるべき場所にいないのであれば、どうか示してください。

2サムエル10:1-19

「ハダドエゼルに仕えていた王たちはみな、彼らがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、イスラエルに仕えるようになった。アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしなかった。」(10:19)

ダビデ王はアラム人(シリア)に対して大勝利を収めました。

彼の王国は広げられ、揺らぐことはないように見えました。

民は一致し、諸国はイスラエルを恐れて、和を講じるようになりました。

しかし、ダビデ王はこの直後に、大失態を犯します。

大成功した時ほど、危険な時はありません。

人々が称賛する時ほど、注意が必要な時はありません。

聖書は言います。

神は私たちに、すべての悪い欲望に立ち向かうための強い力を与えてくださいます。神は高慢な者を退け、謙遜な者に力をお与えになります。ですから、神の前に謙遜になりなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。悪魔はしっぽを巻いて逃げ出すでしょう。」(ヤコブ4:6,7LB)

2サムエル 9:1-13

「ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」」(9:1)

ダビデ王がヨナタンの息子、メフィボシェテを見つけ出し、恵みを施し、財産を返還して回復を与え、王の食卓で食事をするようにしたことは、私たちに対する神の愛を象徴しています。

アダムが神に背いて罪を犯して以来、人は失われていました。

しかし、神は失われた私たちを見つけ出し、救ってくださいました。

神は私たちに回復を与え、神の御国の食卓(礼拝)に招いてくださっています。

すべては、神の御子イエス・キリストが人となって、私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださったからです。

神はイエス・キリストのゆえに真実を尽くされるのです。

2サムエル 8:1-18

「ダビデ王は、それらもまた、主のために聖別した。彼が征服したすべての国々から取って聖別した銀や金、すなわち、アラム、モアブ、アンモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王、レホブの子ハダドエゼルからの分捕り物と同様にした。」(8:11,12)

ダビデ王は多くの銀や金を集めました。

それは私服を肥やすためではなく、神殿建築のためだったと言います。

ダビデ王は神殿を建てることは許可されませんでしたが、神殿を建てるための必要を集め続けました。

ダビデ王は「自分が建てることができないなら、自分は何もしない」とひねくれることはありませんでした。

思い通りに神が自分を用いてくれないからと怒りませんでした。

また、誰かがしてくれるだろうと無関心になることもありませんでした。

神の御国の働きに直接的に携わらなくても、その働きのための必要を集めることによってその働きを支えることも大切な働きです。

ちから誌5月号

ちから誌5月号で少し文章を書かせていただきました。

学生時代のなつかしい友人に向けて手紙を書くというコンセプトで、わたしは高校3年の時のクラスメイトに向けて書いてみました。

「みなさん、お元気ですか?、、、」から始まって何度も書くのですが全くペンが進まない。

よく考えたらわたしは関西人で、高校生の頃はもちろんバリバリの関西弁で喋っていたことに気が付きました。

言語というものは普段当たり前のように使っていますが、語彙もニュアンスも時代と共に変化していくことが往々にして起こり得ます。

人によって頻繁に使う言葉が違うことも面白いですね。

先日ビブリオンの時間にマルコの福音書には「すぐに」と訳される言葉が一章の中に10回も使われていて驚きました。

展開が早いというか、せっかちというか。

こんなふうにいつもとは違う視点でデボーションをしてみるのも面白いと思います。

全文章関西弁の今回の文章、皆さんには読みにくいかもしれませんが心を込めて書いたのでお読みいただければ嬉しいです。

主が用いてくださることを期待しつつ。

(小山晶子牧師人)

2サムエル 7:18-29

「ダビデ王は主の前に出て、座して言った。」(7:18)

ダビデ王は自分の王座から降りて、主の前に座すことによって、まことの王としての主導権を主に委ねました。

神をまことの王として歓迎したのです。

ユージーン・ピーターソンは

このように神の御前に座して、最終的に何もしないということはありえない

と言います。

ダビデ王は座す前にもいろいろやりましたが、座した後も多くのことをなしました。

神は命じられ、私たちは従います。

神は遣わされ、私たちは出て行きます。

信仰生活は、聖霊様がキリストの働きを私たちを用いて、私たちを通して能動的に行われるものです。

神の前に座して、そこから立ち上がれなくなるということはありません。

ダビデ王が座した時、その時、歴史が動きました。

ダビデ王が神の家を建てるのではなく、神がダビデ王の家を建てられました。

神に従い、すべての結果を神に委ねること

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!