創世記 21章

「サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」」(6節)

イサクの意味は「笑い」です。神はアブラハムとサラに子供を約束しました。しかし、なかなか生まれません。彼らは待ち続けました。しかし、サラが子供を宿すことができない年になった時、彼らはあきらめて自分たちで跡継ぎを画策しました。しかし、約束通り、サラは子供を身ごもり、生みました。神は私たちの問題解決の道具ではありません。問題を避けるための道具でもありません。神は新しいいのちを与えられるお方です。笑うしかないような、私たちの常識を超えた大いなる御業をなされるお方です。サラは不可能だと笑っていました。しかし、今、神が笑われるのを体験しました。同じように、私たちが笑ってしまうようなことを、神が成し遂げ、神が私たちを笑われるということを信じられるでしょうか。神にできないことはありません。

創世記 20章

「また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」」(10節)

神のしもべ、信仰の人、神の預言者と呼ばれる人が、異教徒の王によって咎められるという興味深い箇所です。神のしもべがこの世を前にして失敗することは悲劇です。アブラハムはアビメレクに対して、偉大な神の働きに関して語る機会を失ってしまいました。アブラハムから何を学べばいいのでしょうか。昨年、天に召されたマーリン・キャロザース先生がこんなことを言われています。

「悪の誘惑に抵抗するため、心から神の力を求める一方で、私たちにもしなければならないことがあります。一生涯、神の助けばかり求め続けているのに、自分の助けになることをしそこなっていることもあるからです。」「…すぐ祈り始めるのです‐自分たちのためではなく、人々のために祈ります。人々を助けてくださいと祈る人たちは、いつも、私を助けてくださいと祈る人より強い祈り手のようです。」

他者のために祈りましょう。

創世記 19章

「急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」(22節)

聖書を書いてある通りに理解するならば、この世界の終わりに突然クリスチャンが引き挙げられ(『携挙』と言います)、それから大患難時代と呼ばれる神の裁きがもたらされます。どうして、大患難時代の前にクリスチャンが『携挙』されなければいけないか、その理由が今日の箇所にあります。ロトたちがソドムとゴモラから出るまで、「わたしは何もできないから。」と御使いは言いました。この世界にキリストの教会がある限り、ソドムとゴモラのような神の裁きが下ることはありません。しかし、クリスチャンが取り去られる時、神の裁きがこの地に下ります。その日は必ず来ます。私たちはその日が近いことを意識して、一人でも多くの人に、イエス・キリストを伝えていく必要があります。

創世記 18章

「そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」」(20,21節)

 旅人をもてなすことは、聖書が大事なこととして教えていることの一つです。アブラハムは、図らずも主をもてなしました。「おもてなし」は、聖書が教える生き方です。もっとも次章にもあるように、ソドムとゴモラの町の人々は、そのような心さえも失っていました。興味深いことに今日の箇所で、主が「彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。」と言います。聖書の神は、天から人を見下ろしている存在ではありません。この地上にまで下りて来て、それでもなおチャンスを与えようとされるお方です。しかし、このような驚くばかりの神の恵みを、私たちは当たり前のように思ってはいないでしょうか?

創世記 17章

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」」(1,2節)

神はアブラムが九十九歳になるまで待っていたと言います。どうして、神はそんなに長い間、待っていたのでしょうか。なぜか神は、私たちの望みが絶たれるまで待たれることが多々あります。溺れた人を助けるためには、直後に助けてはいけないと言われます。力が残っている分、一緒に溺れてしまうのです。その人の力が尽きるまで待たなければなりません。同じように、私たちが万策尽きるとき、神が栄光の計画を始められます。人間の不可能は、神の機会となります。神は私たちの力ではできないことを成し遂げられます。

創世記 16章

「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、」(7節)

聖書で一番最初に「主の使い」という言葉が登場する箇所です。多くの学者は、「受肉前のキリストではないか」と考えます。女奴隷のハガルは、あまりにも不公平で、ひどい扱いをアブラムとサライから受けます。アブラムが神の約束を自分の力で実現しようとしたからです。しかし、神は女奴隷のハガルにも目をかけられました。逃げていたハガルに目を留め、親しく、優しく声をかけた主の使いは、人を避けて寂しく疲れ果てた人生を歩んでいたサマリヤの女に声をかけられたイエス様に重なります。神はアブラハムだけでなく、すべての人を気にかけ、関わられるお方であることが分かります。私たちが不公平な扱いを受けたり、人生の荒野を一人ぼっちで歩む姿を、神は放っておくことはできません。神はエル・ロイ、ご覧になる神です。

創世記 15章

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」(5節)

 アブラムには、目に見える現実しか見えませんでした。そんな彼を、神は外に連れ出し、星空を見上げさせました。もちろん、アブラムが見た星空は都会の星空ではありません。街の灯りがない夜空ですから、天の川も見たかもしれません。アブラムは神のビジョンでその眼を満たしました。私たちも同じように、神のビジョンを見上げる必要があります。もちろん、自分がそれを実現しなければならないと気負うならば、それはしんどく感じると思います。ですから神はアブラムに言いました。

「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」(七節新共同訳)

神は夢を与えただけでなく為し遂げられます。

創世記 14章

「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」(20節)

収入の十分の一を捧げる什一献金は律法的だと言う人がいますが、いわゆるモーセが十戒をいただく前から行われていたことでした。つまり、収入の十分の一を捧げるという信仰の行動は、アブラハムの信仰が求められているということです。それは、また、アブラハムの祝福に生きることです。ですから、旧約聖書の最後の書、マラキ書にもこう記されています。

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10新共同訳)

必ず祝福を限りなく注ぐというのは、まさに、このアブラハムの信仰に生きる人に与えられた約束です。什一献金にチャレンジするならば教会会計を潤すだけでなく、アブラハムの祝福を体験します。

創世記 13章

「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」(3,4節)

ベテルは「神の家」という意味があります。アブラムはベテルで神に出会い、最初の祭壇を築きました。しかし、彼はそこにとどまらずにエジプトに行き、そこで失敗を犯します。しかし、アブラムはもう一度神と出会った場所に戻ってきました。もちろん、私たちはどこでも神に祈ることができます。しかし、「場所」を過小評価すべきではないと思います。日々の生活の中で、忙しさの中で神との関係から離れていくのならば、神の約束されている祝福を受けることはできません。アブラムは、その所で主の御名によって祈ったとあります。私たちは「教会」という場所で、主に礼拝を捧げる意味を考える必要があります。今日は主の日。教会で主に礼拝を捧げましょう。

創世記 12章

「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(2,3節)

神はアブラハムを祝福するだけではなく、アブラハムを通して地上のすべての民族に祝福を与えることを約束しました。この約束は、アブラハムの子孫として生まれ、ユダヤ人の王として十字架にかかられたイエス・キリストによって成就しました。今、キリストを信じるすべての人に適用されます。ですから、使徒ペテロは言いました。

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(1ペテロ3:9)

私たちはこの地に祝福をもたらすために存在しています。