ヨシュア 19章

「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。」(49,50節)

イスラエルの各部族の相続地の割り当てが終了しました。モーセの後継者として走り続けてきたヨシュアにとっては、大きな責任を果たし、ほっとしたことと思います。この箇所では、そんな指導者ヨシュアに、イスラエルの人々が相続地を贈ったということが記されています。鍋谷師はこんなことを言っています。

「普通、教会の指導者は、その犠牲と功績が大きくても、すぐ忘れ去られるが、ここに神ご自身示されたこのような例外例は、忘恩の現代人に対する大きな警告となっている。」

主のためにその人生を捧げられた教会の指導者たちを覚えたいと思います。

ヨシュア 18章

「そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。『あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。』」(3節)

イスラエルの人々は約束の地に入っていったものの、そこにはやはり多くの努力と時間が必要で、自分たちが考えていたように進展しない現実にある種の疲れを覚えていたのだと思います。服部師はこう言っています。

「華々しい人生の進展には積極的になりやすいが、神の導きを信じているイスラエルの民も、そして私たちクリスチャンも、周囲が遅々として進まない現実、地道で毎日が何か単なる繰り返しのように思われる生活事情の現実に直面すると、神の導き、神の約束を忘れてしまうのである。」

私たちは感謝の心を忘れずに、地道に聖書を読み、信仰をもって祈り、前進し続ける必要があります。時が良くても悪くても、福音を語り続けなければなりません。

ヨシュア 17章

「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。『主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。』ヨシュアは彼らに言った。『もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』」(14,15節)

ヨセフ族に与えられた相続地は、他のどの部族に与えられた相続地よりも広大でした。しかし、それでも彼らは不満でした。それに対してヨシュアははっきりと言います。自分たちは数が多いなどと、神の恵みを誇り、不満を持つのではなく、数が多いのだから自分たちで開拓すればよいと。受け身にならずに、自発的に行動すべきだと。絶対に成功しない人の特徴は、誰かのせいにすることと言われます。神様は自発的に行動することを待っておられます。今日は主の日。自発的にまず、主に礼拝を捧げましょう。

ヨシュア 16章

「このほかに、マナセ族の相続地の中に、エフライム族のために取り分けられた町々、そのすべての町々と、それに属する村々とがあった。」(9節)

マナセはヨセフの長男でした。しかし、次男のエフライムの方が優勢で、その部族もやはりエフライム族の方が優勢だったことがこの箇所から分かります。ヤコブが死の直前に、ヨセフが連れてきたマナセとエフライムに対して、自分の右手と左手を交差させて祝福を長男のマナセではなく、次男のエフライムに与えたということがその理由として考えられます。(創世記48章参照)神はどうして最初に生まれたマナセでなく、次男のエフライムが祝福されるのを許可されたのでしょうか?ジョン・コーソン師は、キリストを信じる前の自分ではなく、キリストを信じて新生(ボーン・アゲイン)した自分を神が祝福されるからではと言います。聖書は言います。「人は、新しく生まれ(ボーン・アゲインし)なければ・・・」(ヨハネ3:3)

ヨシュア 15章

「彼女は言った。『私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」(19節)

カレブの娘アクサは、結婚の祝いとして、水の泉を求めました。彼女は、そこで生活するには、何よりも水が必要であることをよく理解していたのだと思います。そして、彼女は求めたものを得ました。私たちもこの世で生きていくためにはいのちの泉が必要です。私たちもアクサがカレブに求めたように、父なる神にいのちの泉を求めることが大事だと思います。イエス様はおっしゃられました。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。・・・天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9,13)

「天のお父様、私たちがこの地で生きていくために、いのちの泉、聖霊なる神様で私を満たしてください。」

ヨシュア 14章

「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(10,11節)

十代の学生が、「もう若くない」と言ったりして覇気がないのは、悲劇を超えて、喜劇の世界だと思います。カレブは85歳になっても元気だと言いました。聖書は言います。

「若い人もくたくたになり、若い男もまいってしまいます。しかし神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、わしのように翼を張って舞い上がります。いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。」(40:30,31LB)

主を待ち望む者は何歳になっても、息切れすることなく、明るく、元気で、のびのびと主に仕えます。

ヨシュア 13章

「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(1節)

ヨシュアはこの時、90余才であったと言われます。しかし、神は彼の働きはまだ終わっていないと言いました。チャック・スミス師は、

「神は私たちの引退は天国であって、この地上ではないと言われる」

と言い、天に召されるその週まで講壇に立ち続けられました。私たちがどんなに歳を重ねても、霊的に成長して、神の約束の地を所有し続けることができます。(「占領すべき地」は、「所有すべき地」と訳すことができます。)ノーマン・ビンセント・ピール師は、

「学ぶのをやめたら、死んだも同じだ」

と言って、95歳で召されるまで、学び続けたそうです。自分で限界を設けずに主の働きに生きていくことができますように。

ヨシュア 12章

「エリコの王ひとり。ベテルのそばのアイの王ひとり。」(9節)

9節から24節まで、当時の都市国家の31人の王が連記されています。彼らは当時の有名人たち(セレブ)ですが、名前は記録されていません。当時の人々には知られていたと思われますが、この世の名声はやがて消えていくということだと思います。当時、栄えていたと考えられるエリコの町も、アイの町も、今はもうその栄華は残っていません。聖書は言います。

「「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Ⅰペテロ1:24,25)

リック・ウォーレン師は、永遠の世界に入る前に、神は二つの質問をすると言います。一つは、

「イエス・キリストに対してどのような態度をとったか?」

もう一つは、

「わたしがあなたに与えたものを、どう活用したか?」

ヨシュア 11章

「そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。」(7節)

服部嘉明先生は、この記述の背後には、

「神がご自身の戦いとして導いてくださることを確信しながら、神与の使命を行うためにはヨシュアとイスラエルの民は彼らの人間としての現実の努力を怠らなかったことを見逃してはならない。今までもそうであったが、そのようなヨシュアとその民の姿勢に全能全知の神を信頼して歩む生活は、単なる精神主義ではないこと、すなわち、現実における人間的努力をする責任・義務が求められていることを私たちも学び取らなければならない。」

と言います。神が成し遂げてくださるという側面と、神を信頼するがゆえに行う私たちの側の努力の両面を心に留めたいと思います。

「神様、私たちが両極端に走ることなく、あなたのみこころの真中を歩むことができるように助けて下さい。」

ヨシュア 10章

「主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。』」(8節)

この時点までヨシュアたちは一つの町ずつしか相手にしていませんでした。しかし、今度は五つの町を相手にしなければなりませんでした。ヨシュアたちにとって、それは大きなチャレンジだったと思います。そんなヨシュアのもとに神様は来られて言いました。

「恐れることはない。すでに打ち負かしたも同然だ。・・・一人としておまえに立ち向かえる者はいない。」(LB)

試練や戦いに立ち向かっていく前に、神のみ約束を聴くことは重要なことです。神のみ約束を聴く時に、私たちは未来に対して大胆になることができます。私たちの未来を神はご存知です。イエス様は私たちと共にいて、私たちに勝利を与えてくださると約束してくださっています。

今日は主の日。共に、主の御言葉を聞き、礼拝を捧げましょう!