詩篇 90篇

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(90:12)

山々が生まれる前から、地と世界を、あなたが生み出す前からとこしえから、とこしえまで、あなたは神です。」(2節)

と詩人は歌うように、神は永遠に神です。

しかし、私たち人間は儚い存在です。

朝、花を咲かせても、移ろい、夕べには、しおれて枯れています。」(6節)

ですから詩人の祈りは明確です。

主への恐れをもって生きる「知恵の心」を得ることです。

もちろん、イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが約束されています。

しかし、この地上においてその日々は限られています。

神のみこころをこの地上で成し遂げることができる時間は限られています。

ですから、そのことを認識し、生きることが勧められています。

詩人は祈ります。

あなたの奇跡を再び見せてください。あなたが有名な栄光の不思議を、次世代に見せてください。」(16節TPT)

詩篇 89篇

「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」(89:1)

「主の恵み」と訳されたのは今年のキーワード、「主の信実の愛(へセド)」です。

「神の「信実の愛」とその「真実」は永遠」と賛美することは詩篇のテーマです。

ところが、この詩篇の後半部(38-51節)にこんな言及があります。

このようにおっしゃった神が、どうして彼を拒絶し、お捨てになるのですか。なぜ、王として選んでおきながら、こんなにもお怒りになるのですか。あなたは、ダビデとの契約を解消なさったのでしょうか。その王冠をはく奪しておられるではありませんか。」(38,39節LB)

バビロン捕囚によってダビデ王朝は途絶え、神の契約は廃棄されたかのように見えました。

しかし、「神の「信実の愛」とその「真実」は永遠」でした。

だれが、墓から自分のいのちを救い出せましょう。」(48節LB)

とありますが、イエスが墓からよみがえられました。

詩篇 88篇

「主よ。私の救いの神よ。昼、私は叫びます。夜もあなたのみそばで。私の祈りを、あなたの御前にささげます。どうか、私の叫びに耳を傾けてください。」(88:1,2)

メッセージ訳では1節を、

神よ、あなたは私の最後のチャンスです。

と訳しています。

そして詩人は、ただ主に祈り求めます。

あなたの前にひざまずいて夜を過ごしています。」(MSG)

神は時として、私たちがそのような状況に追い込まれることを許されます。

使徒パウロも同じ体験をしました。

打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。」(2コリント1:8LB)

彼は、自分の無力さを痛いほど思い知らされたと言います。

しかし、それで終わりません。

パウロは続けて言います。

しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。」(9節LB)

神は私たちが神だけを頼るようにされます。

詩篇 87篇

「歌う者も、踊る者も、「私の泉はみなあなたにあります」と言う。」(87:7)

シオンはエルサレムの神殿が立つ丘を指し、エルサレム全体を象徴的に指します。

神の都よ。あなたについて、誉れあることが語られている。」(3節)

とありますように、この世の終わりに、世界中からエルサレムに巡礼する時代が来ることが預言されます。

そして、驚くことにそのことが実現しています。

小国イスラエルのエルサレムのことが、世界中の人々から注目されています。

私の泉はみなあなたにあります

とありますが、「泉」は「いのちの源」、「あなた」は「エルサレム神殿」のことを指しています。

すなわち神の臨在からいのちの水が流れ出すと歌う時が来ると言うのです。

イエス様が言ったように、今、生ける水の川は、キリストを信じる人の心の奥底から流れ出るようになります。(ヨハネ七・三八参照)

それは聖霊の働きです。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

今日から対面!

長かったですね。

ようやく蔓延防止措置が解除されて今日から対面での礼拝を始められることになりました。

季節は冬から春へとすっかり移り変わりました。

この2か月、皆さんどのように過ごしましたか?

コロナの影響に加えロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、わたしたちの心に何とも言えない虚しさと痛みをもたらしています。

手に負えないことばかり起こる現実に加え、日々の歩みにおける悩みや不安が重くのしかかり、心身ともに疲れます。

オンラインでの礼拝が守れることは本当に感謝なのですが、教会に共に集まり、礼拝を捧げ、祈り合い、励まし合うことなしにこの地上での信仰生活を全うすることはできません。

正直言ってわたしはもう限界です。

きょうみなさんに直接お会いできることを心待ちにしています。

教会に来れることは当たり前のようで当たり前ではありません。

今週当たり前にできたことが来週にはできなくなることだってあるのです。

限られた地上での歩みを、神様を第一にして歩んでいけますように。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 86篇

「わが神。主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。」(86:12)

私たちは心を尽くして神に感謝する理由があります。

詩人は言います。

あなたは私をとても愛し、あなたの偉大さを私の上に置いてくれました。あなたは私を深い闇の中から救い出してくれました。そして、私を確かな死から救い出してくれました。」(13節TPT)

前回、このデイリーで同じ箇所を読んだ時、私は新型コロナに罹患し、文字通り死から救い出してくださる主を体験しました。私たちの神への応答は詩人と同じです。

心の底から感謝します、主よ。あなたがしていることを、私は決して秘密にはしていません。」(12節MSG)

詩人は祈ります。

あなたの恵みの泉に私を連れていってください。あなたの力が私の力になるように。私のヒーローになって、もう一度あなたのしもべを救ってください。」(16節TPT)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 85篇

「恵みとまことは、ともに会い、義と平和は口づけします。」(85:10)

「恵み」と「まこと」と、「義」と「平和」が擬人化され、並べられています。

神の「恵み」と「まこと」に基づいて、この地に神の「義」と「平和」が実現するということを表現しているのだと思われます。

恵み(へセド)とまこと(エメット)は今年のキーワード、「信実の愛」と「真実」です。

恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

とあるように、「恵み」と「まこと」は、イエス・キリストというお方にあって出会います。

イエス様の十字架の御業は、私たちに対する神の信実の愛、神の真実を現します。

「義」と「平和」(シャローム)も、イエス・キリストのうちにあります。

イエス・キリストは、義なる神であり、平和の君だからです。

ですから今日も、イエス・キリストの御名を呼び求めましょう。

私たちの本当の必要に答えることができるのは、イエス・キリストだけだからです。

対面での祈祷会、礼拝の再開(2022年3月25日)

栄シャローム福音教会では、まん延防止措置期間、対面での祈祷会、礼拝を自粛してきましたが、解除されましたので、本日の祈祷会から対面での祈祷会を再開します。

ライブ配信も継続して行います。ともに祈りましょう!

https://youtu.be/SiOSMC0P-j4

日曜日の主日礼拝も、まん延防止等重点措置が解除されましたので、感染予防対策をしつつ対面での礼拝を再開します。

三密にならないように第一礼拝と第二礼拝に分散しての出席をお願いします。

礼拝の出席には事前連絡をお願いします。第一礼拝・第二礼拝どちらに出席するか、本日の午後6時までに LINE または電子メール (info@sakaeshalom.org) でご連絡をおねがいします。

第三礼拝(18時)は今しばらく自粛します。

詩篇 84篇

「万軍の神。主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。」(84:8)

主の大庭にいる一日は、この世の千日にまさると詩人は言います。

主の大庭とは、主のおられるところ、主の臨在、主のリビングルーム、「主を礼拝するところ」(MSG)です。

それは、「ギリシャの島々のビーチで過ごす千日にまさる」(MSG)と。

私たちはどうでしょうか。

主を礼拝している時、共に主に祈る時、リゾート地で過ごすときよりもはるかにすばらしい時を過ごしているという感覚をもっているでしょうか。

そのような人にとっては、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう。」(6節LB)と詩人は言います。

8節の祈りは唐突な感じがしますが、祈りこそが主の大庭にいる秘訣であることを知っているならば不思議ではありません。

なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中に、シオンへの大路のある人は。」(5節)

詩篇 83篇

「こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが、全地の上におられる、いと高き方であることを。」(83:18)

この詩篇83篇のように過激な言葉が綴られた詩篇をどう解釈するかは大きな課題です。

どうしてこのような苦境にあるかは記されていません。

詩人はただ敵が悪を企んでいるから助けて欲しいと祈ります。

詩人の希望はただ一つ、「全地の上におられる、いと高き方」にかかっていました。

自分の無力さを体験する時、私たちは神の偉大な力を体験します。

興味深いことに詩人はこんなことを言います。

彼らは悪知恵を働かせて策略を練り、あなたにとってかけがえのない人たちを殺そうとしています。」(3節LB)

詩人はさりげなく苦境にある自分たちのことを「あなたにとってかけがえのない人たち」と呼びます。

私たちは神にとってかけがえのない存在であることを受け止め、主に祈りの声をあげましょう。