ローマ 14:1-18

「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」(14:14)

ユダヤ教ではコーシェル、イスラム教ではハラールという食べて良い食品があります。それ以外は、宗教的に不浄な食物として、食べてはいけないとされます。しかし聖書は、

「それ自体で汚れているものは何一つありません」(新改訳二〇一七)

と言います。あくまでも、配慮の問題だけだと言います。食物規定よりも気をつけなければならないことは、批判し合うことだと言います。使徒パウロの嘆願は切実です。

「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」(14:15)

ローマ 13:1-14

「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(13:9,10)

聖書の言う愛は「欲望」という自己中心の愛とは違います。相手の必要を認めて与えていく、満たしていくのが、聖書の言う愛です。ですから隣人に対して害を与えるようなものは、聖書の言う愛ではありません。また、何でもしてあげることが愛とも限りません。「愛は律法を全うします」を新改訳二〇一七では、「愛は律法の要求を満たすものです」と訳しています。相手のことを思い、行動することが愛であり、これが実は旧約聖書の律法の要求を満たすものだったのです。

「愛はいつも善をもって悪に打ち勝つ。」

(Love will always overcome evil with good.)」

(スティーフ゛ン・カーティス・チャッフ゜マン)

己を知る

ADHD(注意欠陥)と診断されてから約一年。デイリーのこの場所に病気のことを公表することは勇気のいることでしたが、様々な方がこれを読んでくださっていて、もし、同じようなことで悩んでいる人がいるなら力になれるかもしれないと思い、ちょくちょく書かせていただいています。努力でカバーできることと、周りの助けが必要なことがあって、そのラインがはっきりしてきたことで気持ちが楽になりましたが、物をなくすことが多く、特にいつも携帯電話を探している自分にはほとほと困っています。また、なんでも真に受けてしまうことや、相手の感情がうまく読み取れないこと、聴覚、嗅覚が人一倍強いことで過敏に反応してしまうところなど困ることもあるのですが、調べたところADHDに人に向いている職業の一つが「音楽家」とのことで、そういう意味では神様が与えてくださった特性が生かされていてリラの活動があるのだとも思います。己を知ることで、マイナスに見えていたことがプラスであったことも知ることができて、感謝する日々でもあります。
(小山晶子牧師夫人)

ローマ 11:33-12:21

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(12:2)

「心の一新」は新改訳二〇一七では

「心を新たにすること」

と訳しています。私たちの考え方、思考を変えることによって自分を変えるように求めています。私たちは神のみことばを日々心に蓄えて、考え方そのものを聖書的な思考に変えることによって自らを変える必要があります。そうするならば、神のみこころが良いものであり、神に受け入れられるものであり、完全であるということを証明することができます。「自分を変えなさい。」は新改訳二〇一七では

「自分を変えていただきなさい。」

と訳しています。そのように、中間態ではなく、神的受動態とも考えられます。いずれにせよ、考え方を刷新する必要があります。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

ローマ 11:11-32

「あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。」(11:18)

聖書は

「誇ってはいけません。」

と言います。この動詞は継続を意味しますので、

「他の人と比較して勝ち誇る習慣をつけてはいけない」

という意味です。

「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(20節)

ユダヤ人の問題は、

異邦人と比較し、

高慢になり、

神の恵みを忘れ、

神への信仰を忘れ、

自分たちが何か偉大な者にでもなったかのように、

驕り高ぶってしまったことです。

この原則はえこひいきなしに、ユダヤ人以外の異邦人にも適用されます。私たちも、

他者と比較して、

高慢になり、

神の恵みを忘れ、

神への信仰を忘れ、

自分が何か偉大な者にでもなったかのように驕り高ぶるならば、

切り落とされることもありえます。日々、へりくだり、神の慈しみの中にとどまれますように。

ローマ 10:5-11:10

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(10:8)

パウロは申命記30:14

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

を解説しています。あなたの近くにある「みことば」とは、

「私たちの宣べ伝えている信仰のことばのこと」

だと言います。「あなたの口」にあるとは、

「あなたの口でイエスを主と告白」

するということ、「あなたの心にある」とは、

「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」

ということ。つまり、旧約聖書の律法で求められていた内容は、私たちの宣べ伝えている信仰のことばと同質であったと言うのです。ですから、申命記30章の真意こそ聖書のメッセージ(説教)なのです。

ローマ 9:22-10:4

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(10:4)

「終わらせた」という単語を、新改訳2017では「目指すもの」と訳しました。「テロス」という単語が使われていますが、徒競走の「ゴール」という意味があります。そのレースの完了という意味があります。ですから、「キリストが律法のテロス」という意味は、

「キリストが律法を完了した(成し遂げた)」

という意味があります。同時に、ゴールは、レースの目標地点であり、目的でもあります。ですから、「キリストが律法のテロス」という意味には、

「キリストが律法の目標、目的」

だったという意味もあります。ここで言う「律法」とは、神がイスラエルの民に与えた、イスラエルが神の民であるということを示す、神からの戒めのことであり、単純化するならば、「旧約聖書」のことです。旧約聖書が指し示していた内容が、イエス・キリストによって成就したということです。

ローマ 9:1-21

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(21節)

9章から11章まで、

「神のみことばが無効になったわけではありません。」(6節)

というテーマで、イスラエルについて言及されています。ローマ書の中心はこのセクションにあると多くの学者は言います。パウロは、神のイスラエルに対する扱いに関して、エレミヤ書18章に出てくる陶器師の比喩を用います。陶器師の力は破壊力ではなく、再生力です。器がどうであれ、陶器師は造り直す力があります。エレミヤの預言は、イスラエルへの裁きの預言ですが、同時に、悔い改めるなら災いを思い直すと言います。裁きが宣告されている中でも、神の民イスラエルに対する神の愛が継続していると言うのです。神のみことばが無効になることはありません。

ローマ 8:18-39

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(8:28)

前節を直訳すると、

「御霊が聖徒たちのために、神に対して、とりなしているからです。」

となります。ですから28節も

「聖霊がすべてのことを働かせて益としてくださる」

と訳すべきだと思います。今、キリストを信じる者は、聖霊の助けがあります。なんと祈っていいか分からない時、神のみこころにとどまれるように、聖霊がとりなしています。だから私たちは、聖霊が、すべてのことを共に働かせて善へと至らせるように働いてくださっていると確信します。聖霊の助けが必要であることを認め、膝を屈め祈りに導かれるならば、祈りの中で、聖霊が私たちを守り、すべてのことをプラスへとしてくださいます。患難は忍耐に、忍耐は練られた品性に、練られた品性は、希望に。この希望は失望に終わりません。

ローマ 8:1-17

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(11節)

教会は聖霊が住んでおられることに意味があります。ライト教授はこのように言います。

「聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。いまより少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから連想されるかも知れないことだが、神は、『ディズニーランドの一日』のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えているわけではない。…聖霊が与えられる目的は、イエスに従う者たちが次のようなニュースを携えて、全世界に出て行くためである。すなわち、イエスは主であり、悪の力に打ち勝ち、新しい世界が開かれる。…教会の務めも聖霊なしには果たされない。…神の霊なしに教会は教会ではあり得ない。」