ヨブ記 14章

「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」(14節)

前の7節で、ヨブは、こう言います。

「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。」

ヨブのポイントは、木には望みがあるのに、私たち人間にはないということでした。これが、旧約(古い契約)の世界の限界です。復活の希望がなかったのです。ですから、イエス・キリストは十字架にかかり、死に、葬られ、死の力を打ち破って復活する必要がありました。

「確かに希望がある。」

と私たちに宣言する必要があったのです。この世がすべてではなく、確かに、この世の向こうに永遠の世界があることを現す必要があったのです。キリストにある私たち、新しい契約に生きる者は、ヨブの疑問に答えることができます。

「はい。生き返ります!」

「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。」(エゼキエル37:14)

ヨブ記 13章

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。」(9節)

ヨブの友人たちの問題は、自分を棚上げにして神の代弁者のようにヨブを有罪だと責めていたことでした。そんな友人たちに対してヨブは言います。

「神様は一度だって、あんたたちの言っているようなことを口になさらないのに、それでもなお、神の代弁者面をするつもりか。」(7節LB)

そしてヨブは、神を恐れていたら、こんなことができるはずがないと言います。私たちは、神の代弁者のように誰かを責める思いがあるならば、このヨブの言葉を心に留める必要があります。

「神があなたがたを調べても、大丈夫か。」

神は私たちに神を弁護して欲しいと願っているわけではありません。神が被告人で私たちの弁護を必要としているのではありません。神が願われているのは、私たちが弁護者になることではなく、まことの弁護者、イエス・キリストを指し示すことです。

ヨブ記 12章

「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」(13節)

メッセージという訳では、こう訳しています。

「真の知恵と本物の力は神のもの。神から私たちはどうやって生きるか、また、何のために生きるかを学ぶ。」
私たちは聖書を誤りなき神のことばであり、信仰と実践(生活)の唯一の規範だと信じています。私たちは聖書を学ぶ時、ここに真の知恵と本物の力があると信じています。聖書から、どうやって生きるか、何のために生きるかを学ぶことができると信じています。歴史の中に、賢人と呼ばれる人はたくさんいました。様々な学派が生まれては消えていきました。しかし、聖書は「神のことば」として、今も、昔も、これからも変わらずに語り続けています。賢い人たちが、自分が生きている時代の風潮に合わせて聖書を作り直そうとしても、神のことばは人の愚かさを超えて、その力を現されてきました。へりくだって神のみことばを学び、生きていきましょう。

ヨブ記 11章

「知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。」(6節)

このヨブの友人ツォファルの言葉の何が問題なのでしょうか。問題は、彼が自分を棚上げにしてヨブを罪人扱いしたことでした。ヨブは、神が認める潔白な人だったのです。しかし、彼はヨブが何か悪いことをしなければ、こんなことが起こるはずがないと悔い改めを迫ったのです。この世にはそのような考え方があります。不幸が起こるのは、何かしら理由がある。高いお金を払って供養をしなければいけないとか、修行をしなければとか、何かを買って償わなければいけないとか…。この世の新興宗教は、人間の弱みにつけこんできます。しかし、イエス・キリストは、言います。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:3)

イエス・キリスは私たちの罪のために死んでくださいました。イエス・キリストを信じる者が罪の宣告を受けることはありません。

ヨブ記 10章

「私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。」(20節)

苦しみの中にあるヨブの叫びに、共感できるものがたくさんあると思います。ヨブは、わずかでも明るくなるために、神に

「かまわないでください」

と言いました。ヨブが心底そう思ったかはわかりませんが、そう言いたくなった気持ちは分かります。問題の中で、人はどうして神から離れようとしてしまうのでしょうか?もちろん、人は誰もが神を必要としています。それなのに何が私たちを神から遠ざけてしまうのでしょうか。「結局、自分の力では神に認められない」と悟る時、「それならもういっそ、かまわないで欲しい」と開き直ってしまうからではないでしょうか。私たちはヨブとは違い、イエス・キリストの十字架を見上げることができます。イエス・キリストの十字架は私たちに、神は今も生きて働かれ、希望の朝、復活の日が待っていることを示します。神の介入を求めましょう。

ヨブ記 9章

「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(32,33節)

ヨブの叫びは聞かれました。神のひとり子、イエス・キリストは人間になられました。そして、神と人間の仲裁者として十字架にかかられました。今、私たちには仲裁者が神と人間の間におられます。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5,6)
「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24,25)

ヨブ記 8章

「ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。」(21節)

ヨブの友人ビルダデは、神が正義を曲げることはないから、ヨブが潔白で正しければこんなことが起こるはずはなかったと言います。

「もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。」(5,6節)

ビルダデが言うことが必ずしも間違いというわけではありませんが、的外れです。ヨブ記の前提は、ヨブは潔白で正しかったということで、彼は熱心に神に求めていた人だったのです。そんなヨブにビルダデは言います。

「あんたも、いつか必ず笑顔を取り戻し、喜びの叫びをあげる日がくるさ。」(LB)

ヨブが笑顔を取り戻す日は来ました。今大変なのは裁きとは限りません。神に信頼し続けるならば、必ず笑顔を取り戻す日は来ます。

今日は主の日。礼拝を捧げましょう。

ヨブ記 7章

「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。」(21節)

神は、このヨブの疑問に答えてくださいました。イエス・キリストは、私たちのそむきの罪を赦すために、私たちの不義を除くために十字架にかかって死んでくださったのです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
ヨブと私たちの違いは、ヨブが知らなかった十字架のキリストを私たちは見上げることができるということです。私たちのそむきの罪を赦すために、不義を除くために、あの苦難の道を歩まれたキリストを見上げることができるということです。
信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さずに前進していくことができますように。

ヨブ記 6章

「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。」(25節)

ヨブ記の大前提は、ヨブは神も認める正しい人であるということです。

しかし、因果応報がしみついている友人は、何か悪い事をしたからヨブはこんな目にあっていると言うのです。こんな目にあっているのは、あなたが何か悪いことをしたからだと。これほど、この世で痛いことばはありません。多くの人々は、この人間の知恵に傷つけられています。こういう状況になったのは、自分の行いの何が悪かったからか?それとも、先祖が何か悪いことをしたのか?「それを償いなさい」ということばは、どれだけ多くの人を傷つけていることでしょう。すべての出来事の原因を自分のこととし、自分を責めている人がどんなに多いことでしょうか。

ヨブ記が私たちに教えていることは、必ずしも、因果応報とは限らないということです。

神はあなたを責めているのではなく、愛しています。

ヨブ記 5章

「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」(27節)

エリファズの問題の一つは、彼の語ることの土台は、彼自身にあるということです。彼の知恵、それが結局、ヨブを苦しめるのです。私たちは生きていく中で、自分なりの悟り、哲学を身につけます。問題は、それらの知恵がかえって人を苦しめることがあるということです。エリファズの知恵に対して、ヨブは答えます。

「気落ちした友には、親切にすべきじゃないか。それなのに何だ。神様を少しも恐れず、わしを容赦なく責め立てるばかりじゃないか。」(6:14LB)
ですから、聖書は私たちに忠告します。

「思い上がって、自分の知恵をあてにしたりしてはいけません。むしろ、神様をたいせつにし信頼することで、悪の道から離れなさい。」(箴言3:7,8LB)
「何を言えばいいか、主よ、いつも教えてください。」