読谷村での思い出

今回で5度目の沖縄訪問となりましたが、どんなにスケジュールがタイトでも必ず訪問しているのは沖縄中部読谷村にあるやちむんの里です。すでにセミが鳴き、強い日差しの中北窯という工房にお邪魔し、1800度にもなるという焼き物の窯を見学させていただきました。最初にリラメンバーで訪問した時には赤ちゃんだった大将の息子さんが後継ぎとして立派に成長している姿に驚き、時間の経過を感じるとともに「続けること」の大切さを改めて教えられました。ろくろを回しているスタッフの方にいろいろと質問をしてみました。「作っている最中に指紋がついてしまうことはありませんか?」と尋ねると、「目には見えないかもしれないけどついていると思います。」とのこと。主は陶器師で私たちはその手にある粘土だと聖書は語っていますが、陶器師がどれほど神経を使い、作品を作っているかを見る時に神様の思いを感じることができるのです。23年前にここで賛美した『空』を思い出しながら、23歳になった息子さんのつくったカップを購入しました。(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 17:6-26

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(15節)

イエス様の私たちに対する祈りは、世捨て人になることではなく、悪から守られることです。暗闇の力、肉の行いから守られることです。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ5:19-21)

私たちは神の国をこの地に現すために存在しています。ですから、肉の行いに支配されないように気をつける必要があります。
今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 16:5-17:5

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(16:24)

「わたしの名によって」は、「わたしの御名の中で」と訳せます。イエス様の名前を使ってというよりも、イエス様の臨在の中でという意味だと考えられます。つまり、金額の書いていない小切手や、魔法のランプのイメージではありません。イエス様との日々の親しい関係の中で、愛する者の救いのため、いやしのため、教会のため、リバイバルを求めて祈り求めなさいという意味です。もし、信仰生活に喜びを感じないとしたならば、祈りの生活を見直す必要があります。イエス様との親しい関係の中で祈り求めているでしょうか?

ヨハネ 15:1-16:4

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(15:17)

12節、17節とイエス様は繰り返し互いに愛し合うことが、イエス様の戒めだと言われました。問題は、他者を傷つけることが「自分は神に奉仕しているのだと思う」(16:2)人がいるからです。当時のユダヤ人たちは自分たちこそ正義を行っていると勘違いしてイエス様と弟子たちを迫害していました。半世紀ほど前に日本に来た学者は、日本のキリスト教会が成長しない理由は話し合って議論ばかり、批判ばかりしているからだと言いました。日本のキリスト教会に必要なのは愛し合うことと言われた感じがします。残念ながら半世紀たった今も、批判することで「自分は神に奉仕しているのだと思う」人々がいます。イエス様の戒めは互いに愛し合うことであることを忘れることがありませんように。

ヨハネ 14:1-31

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(16節)

イエス様は、イエス様と同じ神である聖霊をイエス・キリストを信じる者に与えられると約束されました。

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(20節)

とイエス様が言われたように、聖霊なる神様は、三位一体なる神の臨在の中で生きていることが分かるようにしてくださる生ける神です。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)

とあるように、今も私たちに教えてくださる生ける神です。

ヨハネ 13:18-38

「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(34節)

キリスト教会がこの世界で認知されるとするならば、それは愛だとイエス様は言われました。愛し合うことが、一番の伝道となると言われました。愛とはなんでしょうか?聖書は言います。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(1コリント13:4-8)

愛を実践することを選ぶことはイエス様の戒めであることを忘れてはいけません。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(34節)

ヨハネ 12:37-13:17

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(13:17)

イエス様が十字架にかかられる直前にしたことは、弟子たちの足を洗うことでした。それは、

「模範を示した」(15節)

とイエス様は言われました。つまり、キリスト者は批判し合うのではなく、互いに足を洗い合う群れとなるべきだと言われたのです。他者の汚れを指摘し合うのではなく、洗い合うべきだと言われたのです。残念ながらキリスト教会の二千年の歴史を振り返ると、必ずしもそうであったとは言えません。分裂に分裂を重ねた歴史は、自分の正義を貫いた結果ですが、それはイエス様の願っていた教会像とはかけ離れたものだったことを自覚する必要があります。

「それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

とイエス様は言われました。自分の正義や批判ではなく、愛と赦しを選ぶことができますように。

ヨハネ 12:12-36

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(12:24)

文脈を見ると、この箇所はイエス様ご自身のことに関して言われています。イエス様が十字架で私たちの罪ために死ななければ、人が救われることはありませんでした。同時に、次の節でこのように言われます。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

キリスト者の生き方は、この世の人生を謳歌することが目的となるべきではありません。自分だけがこの世で良い目を見ることを目的に生きるならば神の御国はこの地に現わされることはありません。自分に死ぬ生き方が豊かな実を結ぶことをイエス様は示されました。楽しむことがいけないということではなく、この世がすべてのような生き方に対して警告しています。

アウェーな感じ

沖縄での数回のコンサートを控え、中部北谷にある宿泊施設に滞在しています。海に面したかなり大きな施設なのですが、宿泊客のほとんどがアジア系の外国の方々。エレベーターでも食堂でも日本語が聞こえてきません。まるで外国に来たかのようで少々戸惑っています。そんな中先ほど朝食帰りにエレベーターに乗ったところ、スーパーマンの格好をした2歳くらいの男の子とお母さんと一緒になりました。その子の格好があまりにも似合ってたので思わず日本語で「スパーマン、かっこいいね!」と声を掛けたらお母さんに「うわー、日本人の方に会えてホッとします!ここ、アウェー感半端ないですよね!」と感激されてしまいました。そのときふと、思いました。天国ではこういう状況はいやだな、と。言葉が通じないと言うことはないと思いますが、「天国で久しぶりに日本の方に会いました!」なんて言われたら悲しすぎます。そんなことにならないように、イエス様を伝えてきます。与えられた使命を全うできるように祈り、支えていただければ幸いです。 (小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 11:45-12:11

「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。」(11:47)

当時の宗教指導者の悲劇は、神よりも自分たちが正しいと考えていたことでした。だから祈るために集まるのではなく、議論するために議会を招集し、神のみこころよりも自分たちの意見を主張しました。その状況は次のことばでも分かります。

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(48節)

すべての人がイエス・キリストを信じるようになるというのが、旧約聖書が指し示していたことなのに、彼らはその妨げとなっていたのです。しかも、その批判的な態度を正当化していたのです。私たちの役割はすべての人がキリストを信じるようになることです。

今日は主の日でありペンテコステの日。主に礼拝を捧げましょう!

※ 本日のSSCの第三礼拝はお休みです