受験生の親

とうとう、このシーズンがやってまいりました。ああ、受験。最近栄シャロームでは毎年受験生がいたので、この時期はいつもドキドキしていたのですが、とうとううちの次男の番がやってまいりました。センター試験は終わりましたが、これからしばらくは一般試験が続きますので祈りつつ見守りたいと思います。勉強や受験校をめぐっては何度次男と喧嘩(?)になったかわかりません。子育ての大変さ、年齢が進むにつれて、相応に関わることの難しさをギュッと凝縮して体験した高校時代でもありました。先週書いたヤコブは、聖書を見る限りかなり親の言いなりだったように感じます。特に母親のリベカの言動には自分も共感する部分もあり、反面教師として学ばなければと思います。親の考えたベストは、必ずしも我が子にとってのベストではないし、それよりもむしろ神様との関係を大切にしてほしい。イサクとリベカがヤコブを一人でラバンのもとに送り出したように、次男の背中を祈りと共に見送りたいと思います。がんばれ!
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 12:1-8

「主よ。お救いください。」(12:1)

ここに力強い祈りの言葉があります。ここで使われている「お救いください」という言葉に「お願いします」という意味の「ナ」を付け加えると「ホサナ」になります。イエス様がエルサレムにロバの子に乗って入城する時、人々は「ホサナ!」と叫びました。これは、「お救いください。お願いします!」という意味があります。「お救いください」とも訳せますが、「主よ。助けてください。」とも訳せます。マタイ14 章でペテロが溺れたとき、叫んだ祈りがこの祈りです。「主よ。助けてください。」イエス様は、この叫びを聞かれて、「すぐに手を伸ばして、彼をつかん」だとあります。追い詰められた時、「主よ。助けてください。」と主を呼び求める時、私たちは神の現実を体験します。ちいろば先生はこう勧めます。「よく『神様が分からない。神様が分からない』と言う人がいますが、…神様の言葉に聴き従って御覧なさい。」

リベカの憂鬱

ビブリオン(旧・婦人会)で創世記を一章ずつ味わっています。先週は27章、イサクがエサウを祝福しようとしていたにもかかわらずリベカの入れ知恵で弟のヤコブがその祝福の祈りをだまし取ってしまったというところでした。25章には「イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した」とありますのでこれまでずっと親の偏愛が招いた悲劇だと私は考えていました。ところが、リベカは妊娠中おなかの中でぶつかり合う子どもたちに不安を覚え、神様の御心を求めに行ったことが記されています。そのとき神様は「兄が弟に仕える」と明確に語られたのです。とするならば、祝福の祈りもリベカの入れ知恵というよりは、神様の御心を知っているがゆえに自分の力でそれを実行しようとした、と考えた方が自然かもしれません。ただ本当はイサクもリベカもこの時こそ主の方法を求めて祈るべきだったのではないかと思うのです。エサウに命を狙われ逃げたヤコブ。悲しいことにその後ろ姿が、リベカの生涯で見る、ヤコブの最後の姿となってしまいました。    (小山晶子牧師婦人)

どら焼きの練習

あす月曜日は御殿場で新年聖会が持たれます。富士山がきれいに見えるといいな、と願いつつ、どら焼きを作る練習をしています。デイサービスでお手伝いをしていた時、利用者さんと一緒に時々お菓子を作りました。一番衝撃的だったのは桜餅を作ったことでしょうか。あれは「買うもの」だと思っていたのに、とてもきれいでおいしく作れたのです。お茶を炒ってほうじ茶にしたり、梅シロップを作ったり、ゆずジャムを作ったり、初めての経験ばかりで、それを楽しそうに作業している利用者さんとの時間は今でも時々思い出します。どら焼きもその一つ。HOPカフェを今回もさせていただくのですが、コーヒーと共に販売する手作りお菓子を、わたしは「どら焼き」にしました。あんこは御座候のものを使用しますのでご安心を。HOPの子どもたちのために、私自身出来ることはとてもとても小さいのですが、みなさんに喜んでいただけて、HOPのことも知っていただける機会になるように頑張ります。というわけで練習に勤しんでいます。おひとつ、いかがですか?  (小山晶子牧師婦人)

よし!いけるぞ!

関西にいたころは全く興味がなかったものの一つ「箱根駅伝」。横浜に住み始めてから年々身近になっています。普段使っている道が駅伝のルートである、ということが一番の理由だと思うのですが、中継のヘリの音や知っている店などが映るとテンションが上がります。縁もゆかりもありませんがいつのまにか青学を応援し、つながらなかったタスキに涙するチームと共に涙を流す、完全なにわかファンでもあります。でも、走る選手の後ろをついていく車から声をかけている監督の姿。「大丈夫、いいよいいよ、いけるぞ、区間新狙える!」「あきらめるな!」「あと1キロ、スパート、おまえならやれる!」ひたすら前向きに励まし続ける言葉。聖霊様ってこんな感じなのかな?そういった私に夫は一言。「そういう言葉だけじゃないと思うけどね。」ですよね~。時には厳しく、時には囁くように、反省を促したり励ましてくださったり。助け主なる聖霊様との二人三脚(?)で今年も前進していきたいと思います。2020年も神様に期待していきましょう。
(小山晶子牧師婦人)

今年最後の日曜日です。

はやいもので2019年が今日を含めてあと三日で終わろうとしています。それぞれ様々な出来事の中で一日一日を積み重ねてきたことでしょう。終わってしまうとあっという間ですが、実はいろんなことがあったことに驚かされます。大きな台風が二度も直撃したことはわたしのなかでは今年の大きな出来事の一つですし、義兄の手術のこと、リラの福島コンサートツアー、友人を天に見送ったこと、長男の入試やオープンチャーチ、クリスマス、アルファフィルムシリーズの開催などなど。それ以外にもいろんなことがあって悩んだり、不安になったり。でも神様は必ず脱出の道をそなえてくださっていました。そういう意味で恵み多き一年であったとも思います。全てを益に変えてくださる主を信頼して歩めることこそ、幸いな人生なのだと思います。2020年も一足一足、主に信頼して歩んでいくことができますように。みなさん、今年も拙い私の文章をお読みくださりありがとうございました。来年も引き続きよろしくお願いします!
(小山晶子牧師人)

熱湯

自分でも自分がしていることが分からない。そんなことはありませんか。  先日、パスタを茹でるために大きな鍋でお湯を沸かしていました。せっかくなら火力の強い隣のコンロに移そうと思いほぼ沸騰した鍋の両側をしっかりもって持ち上げたその時、自分が素手で持ち上げたことに気付きました。あ、でもそんなに熱くないのね。そう思った次の瞬間、熱い!!ようやく熱さを感知した脳が指令を出し、すぐさま手を放したくなりましたが、まだ持った鍋は隣のコンロに到達していません。熱さに耐え、隣のコンロに鍋を置いたつもりだったのですが焦って安定した場所に置く前に手を放してしまい、あぶない!と思った時には鍋は絵に描いたようにコンロから落ち、熱湯が床一面に。スローモーションで見ているようでした。その瞬間夫が助けてくれたので熱湯をかぶらなくて済んだのですが、なぜ私は素手で熱いと分かっている鍋を移動させようとしたのか、いまだに謎です。「彼らは自分のしていることが分からないのです。」というイエス様のお言葉を思い出しました。(小山晶子牧師人)

先週の出来事

クリスマスが来ると思い出す、自分が洗礼を受けたあの日のこと。早いもので32年もの月日が流れてしまいました。横浜市民となって23年。その直後から教会学校の先生の働きをしていますが、いまは生徒が一人なのでこれまでで一番静かに時間が流れてゆきます。毎週聖書のお話をする前に、「先週の出来事」を話してもらっています。嬉しかったこと、悲しかったこと、心に残ったことなどを自由に言う時間なのですが意外と意識せずに時間を過ごしてしまっていることに気付かされます。前述した人生の節目節目はなかなか忘れませんが、「日常」はまるで指の間からこぼれていく砂のように何の引っ掛かりもないものになっているとしたらもったいない気がします。ロープに小さな結び目をつけていくように、日々の出来事に神様がともにいてくださったことを意識することができたらもっと恵みを数えられるのではないかと思うのです。

先週の皆さんの歩みに、結び目はいくつありましたか?

(小山晶子牧師人)

忘れとった、、、

今年十一月号の「ちから誌」から一年間の予定で聖書考古学の記事を書いています。楽しく書いていたら編集部の方から「もうすこしまじめに」←(言い方はもっと優しかったです)との注意を受け、一月からは少しまじめな感じの内容に変えたのですが、そこでいったん意識を使い果たしたのか充電に時間がかかり、さっき気付いたのですが次の号の締め切りが一週間以上も過ぎてしまっていたのです。忘れとった、、、という気持ちのまま今この文章を書いていますが、実はタイトルだけは少し前に考えていました。ただ伝えたいことが多すぎて、決められた文字数でそれを書くのは長く書くよりも難しいのです。真面目過ぎずふざけ過ぎずクリスチャンでない方にもわかりやすく。かなりハードルは高い働きですが、神様から大いに知恵をいただきながら一文字一文字紡いでいきたいと思います。ほめられると頑張れるので感想など編集部に送っていただけると嬉しいです!『アブラハム、墓を買う』というタイトルを見たら、ああ、これね、と思い出してくださいませ。   (小山晶子牧師人)

ダニエル 9:20-11:1

「すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」」(10:18,19)

ダニエルだけでなく、聖書に出てくる神が用いた人は皆、モーセもエレミヤもイザヤも、自分はふさわしくないと感じました。しかし神はいつも、私たちに使命を与えるだけでなく、それを成し遂げることができるように私たちに触れ、力づけて、整えてくださるお方です。神が私たちを整える方法の一つは、私たちにみことばを語ることです。ダニエルは神のみことばによって、奮い立つことができました。神は今日、私たちに言われます。
「神はあなたを非常に愛しておられる。だから、恐れるな。気を落ちつけて、しっかりするのだ。」(LB)