関西弁になる前に

昨日はイーストフェローシップデイで行うHOPカフェの買い出しのため、朝から並木のコストコに行ってきました。待ち合わせ時間より15分以上早くついてしまったので、入り口近くのベンチ目指して下りエスカレーターに乗りました。すると、私の真後ろに子連れの家族が。かなり距離が近かったので会話が聞こえてしまいます。どうやら今日はその幼い息子さんの誕生日らしく、何を食べようか、などと楽しそうな会話が聞こえてきます。ところが、当の本人はあまりの嬉しさのせいか調子に乗ってしまいジャンプしたり、エスカレーターのベルトにつかまって遊んだり。お母さんが何度かやさしく注意していましたが、次第に口調が厳しくなり、最後にこう言ったのです。『あんた、ええかげんにしいよ!』関西弁や、、、。やっぱり関西人は怒ったら関西弁になるんやな、、、。非常に親しみを感じつつ、こう思いました。“ああ、神様が関西弁になる前に注意されたことはちゃんと直さななー。“神様の忍耐の中で、子どもである私たちは育てられているのですね。
(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 5:7-26

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(5:15)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「それでは、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4:21-5:6

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)

「キリスト・イエスにあって」ということは、キリスト・イエスの中にあるということです。キリスト・イエスの中に在るかどうかが大事であり、割礼の有無ではありません。割礼はキリストの立場を決定しません。「愛によって働く信仰」ということは、「愛が働いてその存在を発揮する信仰」という意味があります。神がイエス・キリストを遣わして私たちに永遠のいのちをもたらしてくださったその動機は、「愛」でした。私たちの信仰というのは、この神の愛を通して働くものです。ですから、パウロはこのように祈っています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ三・十九)信仰が働くためには、キリストの愛を知る必要があり、キリストの愛を知るためには、「祈り」が必要です。

戻りたい過去

皆さんは戻りたい過去がありますか。
先日長男とこの話になりました。さかのぼって戻ってやり直したい時代があるか、という話の中で私にも長男にもそんな過去がないということが判明し、笑ってしまいました。結論は「今が一番いい」というところでしょうか。あの時ああすればよかった、こうすればよかった、あんな経験しないほうが良かった、あんなこと言わなきゃよかった。わたしにもそんな思いがないわけではありません。けれどもその失敗や痛み、後悔、その一つ一つが今の私に至るために必要なことだったと思うのです。何よりも、全てを働かせて益と変えてくださる主にお任せできることは本当に幸いなことだと思います。実は今も、大きな試みの中にいます。でもこの出来事もやがて益となることを知っているのです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあることをこれまでの歩みの中で学び、体験的に知っています。皆さんの今の痛みもやがて喜びへと変えられていくことを信じます。
(小山晶子牧師夫人)

2コリント 12:1-10

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(12:9)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

あれもこれも

台風21号の直撃によって西日本や東海地方は大きな被害を受けました。飛ばされていく屋根や自転車、横転するトラック。あれもこれも飛ばされて、さながら地球滅亡の映画を見ているようでした。数日待たずに今度は北海道での大地震。日本はどうなってしまうんだろう、と思った方も少なくないはずです。でも、様々な状況を目の当たりにしてこうも思うのです。この世界はやがて終わるのだ、と。私たちに寿命があるようにこの世界にも寿命があるのだ、と。イエス様ご自身も「この天地は滅びます。」とはっきりおっしゃっています。そしてこうもおっしゃっています。「あなた方の心が放蕩や深酒やこの世の思い煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように突然あなた方のところに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は全地の表に住むすべての人に臨むからです。」当たり前だと思った日々がある日突然終わるのだ、とイエス様は警告しています。考えたくないかもしれませんがこれが聖書に明確に記されていることなのです。 (小山晶子牧師夫人)

さくらももこさん

まだ遠距離恋愛中だった25年前、アメリカへ留学中の英児さんに送った唯一の本がさくらももこさんのエッセイ「もものかんづめ」。これを送られた英児さんはなぜこの本を私が送ってきたのか「?」だったそうですが、どんなにつらくてもこの本を読んだら絶対に笑える!と思ったのです。8月半ばに53歳で彼女が亡くなった、というニュースは彼女のエッセイや漫画をほぼすべて読んできた私にとって非常にショッキングな知らせでした。そんな話を息子にしていたら、アニメ「ちびまる子ちゃん」に『まるちゃん教会へ行く』という回がある、との情報を教えてくれました。さっそく見てみました。まるちゃんがブー太に誘われてお菓子目当てで教会に行くというお話。知らない賛美歌に戸惑ったり、朝起きるのがつらくて次の週は休んだり、初めて行った日に聖書をもらったり。きっと小学生のさくらさんが実際に礼拝に参加した時のいろいろな気持ちが詰め込まれたお話なのだと思います。まかれた種がどうか残っていますように。そんなことを思いながら見ていたら泣けてきてしまいました。 (小山晶子牧師夫人)

大都会

ハイビーエーキャンプ、リサイタルともに無事終わりました。お祈りいただきありがとうございました。かなり緊張する場面が多かったためか、神経が高ぶりスローダウンに時間がかかっているようにも感じますが、一つ一つの集会、コンサートが神様の導きの中でなされていったことを確信することができ実り多い日々でした。キャンプ場最寄駅は房総半島にある上総一ノ宮という駅です。そこから「わかしお」に乗って東京に戻り、新宿経由で東府中にあるリサイタル会場へと移動しました。上総一ノ宮駅は田舎を絵にかいたような場所にある駅で、そこから東京に戻ってくるときのギャップが興味深かったです。のどかな田畑の景色がぎっちりと立ち並ぶ様々な高さのビルへと変わっていく様。マンションにスカイツリー。そのあらゆる場所に数え入れないほどの人々が生きている。その一人一人を神様が愛しておられる。どうしてこんな小さな者を、と不思議に思います。選ばれて御言葉を託されていることはさらに不思議なことです。神様のあわれみは尽きません。(小山晶子牧師婦人)

ふたたび房総へ

高校生への伝道を行っているハイビーエーのOBキャンプの音楽ゲストとして、今日から3日間房総半島にあるキャンプ場へ行ってきます。3日目はちょうど長男のリサイタルと日程が重なってしまっているので、房総から直接府中まで行く予定です。一番の心配は天候。もし台風の影響があったりすれば外房線はすぐに止まってしまうので(実際前回のキャンプの時は帰ってこれませんでした)ここ数日は天気予報とにらめっこです。親バカですが、長男の生まれて初めてのリサイタルなので何が何でも見届けてやりたいと思っています。とはいうものの、ここ数か月のリサイタルに向けての準備は想像以上の精神的な負担で早く終わってほしいという気持ちも正直なところあります。賜物を与えられるということは、磨く責任を負うということなんだなあとしみじみ感じています。賜物を求めて祈ることがありますが、磨くという責任感が伴っていなければ、猫に小判、豚に真珠というところでしょうか。あたたたた。信仰者の歩みの厳しさを感じる日々でもありました。(小山晶子牧師婦人)

『世界の美しい鳥』より

わたしは生き物が大好きです(ただし虫意外)。幼いころ好きだった番組は「野生の王国」。ヌーの群れの移動やライオンの狩りの姿にわくわくしましたし、小学生の頃はいつも近所のどぶ川にフナやザリガニを取りに行ったり、どこかに子猫がいないかと竹藪の中にある物置の下を覗いてみたり。
先日教会学校でマタイの福音書6章を学びました。『空の鳥を見なさい。』とのイエス様のお言葉に、見てみよう!ということになり、ネットで検索していたら見たことのない鳥が沢山出てきました。その中でもひときわ目を引いたのが南アフリカ南部で撮影された“ライラックニシブッポウソウ”という鳥。頭は緑、口元はオレンジ、胸はピンク、腹部から足元にかけてはターコイズブルーの毛で覆われた何とも愛らしい鳥です。この鳥を見ただけでただただ神様ってすごい!と教会学校の子どもたちと一緒に感動していました。疲れているとき、一般恩寵の中にあらわされた神様の偉大さに目を向けることは枯れた心に水がどっと流れ込むように私たちを潤してくれるのだと思います。神様ってやっぱりすごい!(小山晶子牧師夫人)