亀と教会

皆さんにかわいがっていただいているお陰で、亀のジェニーはこの夏これまでとは比べ物にならない速さで大きく成長しました。小さな鼻の穴につぶらな瞳。頭と首を撫でてやると、うっとりと心地よさそうにしていてますますかわいくなっています。亀はご存知のようにヤドカリとは違い 柔らかい部分と甲羅が一緒に成長していきます。甲羅だけがそのままということはありませんし、柔らかい部分が成長せずに甲羅にすっかり隠れてしまうということもありません。固い部分と柔らかい部分は文字通り一体なのです。そんな亀の性質をじっと眺めているうちに、教会とはこういうものなのではないかと思いました。固い人、柔らかい人、目や耳、爪。ゆっくりゆっくり、一緒に成長しながらある時は目に見えて大きくなったりする。それが教会のあるべき姿なのではないかと思ったのです。甲羅だけが大きくなっても、柔らかい部分だけが成長しても意味がありません。わたしたちも亀のようにいろんな部分を抱えながらゆっくりと成長できればと願ってやみません。 (小山晶子牧師夫人)

ミカ書 3章

「しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、」(8節)

ミカは、当時のイスラエルの指導者や預言者の堕落を指摘した後に、こう言いました。

「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、」(口語訳)

イエス様は、弟子たちに言いました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)

この力こそ、預言者ミカが体験した力です。この力こそ、私たちが今必要としている力です。私たちはどんなにこの力を体験することが必要でしょうか。この力を求めることよりも、他の何かで誤魔化そうとしていないでしょうか。聖書は言います。

「泣くのも悲しむのも、聖霊が上から私たちに注がれるまでです。そして、悪い荒地に作物は育ち、肥沃な地は森となる。」(イザヤ32:15MSG)

私たちは聖霊に満たされる必要があります。聖霊を求めましょう。

もも

先週夫の反対を押し切り、ちょっと奮発して桃を2つ購入しました。とはいうものの、口腔アレルギーの私には食べることのできないもので(だから反対された)でも、私以外の家族は食べることができますし、特に次男は果物が大好きなので、という理由で強引に購入したのです。が、これがリンゴ並みに硬い!時間をおいてみたものの改善は見られず。硬くてもおいしければいいのですが、ほんの小さなかけらを口に入れてみると甘みもなく、ほんの少し桃の香りがするだけ。仕方ないのでそれを切って保存袋に入れ、とりあえず冷凍庫へ入れてみました。二日後、夕飯にカレーを作ることにしたとき、その桃のことを思い出しました。わたしはお肉を柔らかくするためにバナナを使うのですが、同じ酵素がある桃でも代用できるのではと思い、一緒に煮込んでみたところ大成功でした。お肉が柔らかくなり、とてもおいしいカレーができたのです。視点を変えるって楽しいな、と思いました。神様に視点を変えていただき、新たな発見がある楽しい一週間でありますように。  (小山晶子牧師夫人)

めんどうくさい

若い世代と話していて最近特によく耳にする言葉に「めんど!」という言葉があります。めんど!は「面倒くさい」という言葉の略語だと思われます。ただ、「面倒」はもともとほめるという意味のある「めでる」という言葉から派生したという説もあるらしく、日本語は奥が深いなあと改めて感じています。さて、どうしてこんなことを書いているかというと今朝のデボーションの箇所であったカナの婚礼のところを今日一日黙想していたからです。ぶどう酒がなくなり、水がめに水をいっぱいにしなさいと言われた水くみの人たちは恐らく「面倒くさい」ことをしたのだと思います。面倒とは「手間がかかったり解決が容易でなく煩わしいこと」。現代は待つことが難しい、我慢ができない時代だと感じています。すぐに結果が欲しい、答えが欲しい。でもイエス様の御業は「面倒くささの中」に現わされることがあることに心を留めることは大切なことだと感じたのです。面倒くさいことから逃げていたらせっかくの祝福を見逃してしまうかもしれません。
(小山晶子牧師夫人)

大波小波

あっという間に一か月が過ぎ、7月最後の日曜日を迎えました。あさってからは八月。すっきりしないお天気が続き、湿度も高くてなんだか身体が重だるい気がします。皆さんはいかがお過ごしですか? わたしはタイトル通り、大波小波が繰り返す日々です。病気ではなくとも、わたしたちは心の振り子の振れを感じながら過ごしているのですが、それと信仰を結び付けて罪責感の中に生きているクリスチャンが多いのではないかと思います。つまり、自分の調子の良い時は神様に愛されていると感じ、自分が落ち込んで思うように動くことができないと、こんな自分を神様は愛してはくださらない、と思うのです。自分の弱さを感じた時に初めて、わたしたちは「無償の愛」の本当の意味を知ることができるのかもしれません。そして「弱い時に強い」という御言葉を体験できるのではないかと思います。そう考えると、私自身の今の状態は悪いことばかりはないと思うのです。こんな自分でも、神様の目には貴い存在であると思えることはとてもとても幸せです。
(小山晶子牧師夫人)

はじまりました

先週木曜日からいよいよ会堂の修繕工事が始まりました。あっという間に足場が組まれ、外壁と屋根が高圧洗浄機で綺麗になり、作業は梅雨明けの猛暑の中今日も続けられています。足場の関係で、しばらくは駐車しづらくなると思いますが、どうぞご勘弁ください。実は教会堂を建てるにあたり、予算の関係で表からは見えない外壁の一部に違う種類のものを使用してあります。それが今回、すべて同じ色で塗りなおすので、ようやくどこから見られてもいい状態になることを個人的には非常に喜んでいます。汚れたものの上に新たに塗りなおす、ではなくきれいに汚れを取ってから塗るという作業に信仰生活と共通するものを感じています。高圧洗浄機で壁の汚れを洗い流すように、私たちの心に溜まっていった汚れをイエス様の血潮によって洗い流していただき、日々主の前に新たな気持ちで立つことができればどんなにすがすがしく幸いだろうかと思うのです。教会の外壁がどんどんきれいになるように、教会に集う私たちもまたきよめられていきたいものです。 (小山晶子牧師夫人)

はやいもので

きょうは献堂15周年特別礼拝。
毎年献堂時期を迎えるたびに感謝の思いでいっぱいになりますが、節目の年は特に感動します。それはこの場所が私にとってのエベン・エゼルだからです。『主がここまで導いてくださった』とヤコブが記念の石を置いたように、この会堂を見るたびに、集うたびに、礼拝を捧げるたびに、祈るたびにそれを何度も何度も思い起こすことのできる場所。でも20年近く前、そんな思いを全く描くことも出来なかった時期に与えられた御言葉。『山に登り、木を運んできて宮を建てよ。』これを語るまでの牧師の苦悩をつい昨日のことのように思い出します。この場所に移ってから多くの人が来、多くの人が去っていきました。その喜びと痛みの中に「教会の頭はキリストである」ことを思い知らされる日々の繰り返しでもあったように思うのです。聖霊様の喜ばれる群れであることを求めつつ、聖霊様の流れに身をゆだねてあとどれくらいかはわかりませんが与えられたこの教会での自らの使命を全うしていきたいと願います。  感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)

母の日に寄せて

先週次男が16歳の誕生日を迎えました。祈祷会の日だったのですが、昨年の肺炎になったことなど一連のことを思い出し、神様がここまで次男を守り育ててくださったことに感謝を捧げました。そんな次男と話をしていた時、出産にかかった時間のことに話が及びました。長男の時は難産で3日間かかったことを話すと「俺は?」と聞くので「あなたは夜9時に陣痛が始まって朝6時には生まれたねえ」というと「俺ってそのころから手のかからないことどもだったんだね。」と言います。おいおい。手はものすごくかかってるよ、、、特に反抗期はとても大変だったんだぞ。と言いたいのをぐっとこらえました。でも最近よく考えるんです。あとどれくらいこの子たちと一緒に過ごせるかな。話をしたり、ご飯を食べたりする時間はあとどれくらいあるのかな、と。長男も今度の誕生日で二十歳。大人への日々が確実に進んでいます。親としての役割も年代に合わせて変化していきます。ますます神様からの知恵をいただきながら息子たちと向き合っていきたいと思う日々です。 (小山晶子牧師夫人)

後悔

イースターおめでとうございます。イエス様の復活を思いめぐらすたびに、私の心に湧き上がる後悔。それは24年の月日が流れてもなお、繰り返し繰り返し、心に迫ってきます。
エルサレム滞在が残り数日に迫ったあの日。最後のエルサレムウオークで園の墓に行くことになりました。考古学の学びの中で、「園の墓は聖書におけるイエスの十字架の死と復活の描写から見れば一番それっぽく見えるものだが実際には聖墳墓教会がイエスが葬られた場所としての信ぴょう性は高い。」と聞いていましたので史実でない場所は行かなくてもいいやと思い、せっかくの機会を放棄して旧市街の散策に出かけてしまったのです。聖墳墓教会がぎらぎらに飾られて正直うんざりするほどだったので(いわれのある場所はたいていそんな感じ。日本のお寺に酷似している。)。でも園の墓に行った人たちは口々に「行ってよかった!」と。ここにはおられません、よみがえられたのです、と書いてある板に感激していました。人生選択ですね。かくして私の後悔は続くのです。  (小山晶子牧師夫人)

入学式

4月に入り、いよいよ新しいスタート。進級したり、進学したり、就職したりと皆さんの周りでも様々な変化があったのではないでしょうか。祈りつつ送り出す、我が家もそんな日々を過ごしています。さて、先日次男の高校の入学式に出席してきました。次男は2組なのですが、1組に「こやましおん」という名前の女の子がいて驚きました。「こやま」と呼んでも「しおん」と呼んでもどちらが呼ばれたかわかりません。こんなこと初めてでその子の顔を見てみたくなりましたがあいにく前方に正面を向いて座っていたため後姿しかわかりませんでした。先生方はどう区別するのかとちょっと気になります。そう考えると、神様が私たちの名前を呼ぶということは、単に名前を呼ぶ、というだけではないのですね。存在を呼ぶということはその人自身を呼ぶ、ということ。つまり神様の前に同じ「名前」は存在しない、ということだと思います。2組にも「しおん」という名前の女の子もいるのです。さあ、大変。次男の高校生活の名前にまつわる混乱は続くかもしれません。 (小山晶子牧師婦人)