詩篇119:12-28

「今こそ主が事をなさる時です。」(119:126)

「アイン」(ע)から始まるアルファベットの詩。
神の「時」(עֵ֭ת)があります。

詩人は抑圧者が社会的弱者を搾取する現実に心を痛め、公正と義に生きていました(121節)が、虐げられていました。詩人は自分の無力さを体験する中で主が行動を起こされることに希望を抱き、訴えます。

「時です!行動される。主よ!彼らはあなたの啓示を壊しています。」
詩人は主のしもべとして聖書の御言葉が理解できるように祈り求めます。

「すべての点であなたの規範に照らして考える知恵をお授けください。」(125節LB)

私たちが分別することができるように、聖霊様、助けてください。

詩篇119:113-120

「私の肉はあなたへの恐れで震えています。私はあなたのさばきを恐れています。」(119:120)

「サメク」(ס)から始まるアルファベットの詩。

月本先生は、「私の肉はあなたへの恐れで震えています。」という表現は、「律法が理念や観念としてではなく、血肉と化していることを示唆する」と言います。神の御言葉を単なる理念や観念として捉えるのではなく、信仰と生活の唯一の規範として、血肉と化することは重要です。「二心のある人たち」(113節)とはまさに、聖書を単なる理念や観念として捉える人たちのことを指していると考えられます。その結果、聖書から「迷い出る」(118節)と。しかし、詩人は「あなたの教えを愛する心を貫きます」(113節LB)と言い、祈ります。

「神よ。私を生かすと言われたお約束が果たされなかったと言われることがないようにしてください。」(116節LB)

箴言26:3-12

「自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(26:12)

箴言には賢い者の道と愚かな者の道が比較されています。今日の箇所は特に愚かな者に焦点が当てられています。私たちは悪に対しては注意をするのですが、愚かさに対してはあまり気にしない傾向があります。箴言は、悪と同じように愚かさも破壊的だと警告します。そして愚かさよりも注意すべきは、「自分を知恵のある者と思っている人」だと言います。キリスト教哲学者、パスカルは言います。「懐疑論について疑いながら話す人は少ない。」本当の愚かさは、自分が賢いと自惚れている人と言うことだと思います。聖書は言います。

「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」(1コリント8:2)

詩篇119:105-112

「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。」(119:105)

「ヌン」(נ)から始まるアルファベットの詩。

「ともしび」(ネール・נֵר)はランプのことで、一端を高く尖らせた土器碗が用いられました。そのような意味で足下を照らす小さな光を指しているように思えます。一歩一歩を照らすような印象です。メッセージ訳はこのように訳しています。

「あなたのみことばによって私はどこに行こうとしているか見ることができます。みことばが私の暗い小道に光を放ちます。」

しかし、放たれる光はそこまで明るくないようです。今日と言う一日を生きていくのに十分な光だと思いますが、毎日、照らしていただく必要があります。ですから、聖書を分かった気にならずに、日々、聖書の御言葉に耳を傾けていきましょう。

「一日一日を力いっぱい生きなさい。」(マタイ6:34LB)

詩篇119:97-104

「どれほど私はあなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも私の思いとなっています。」(119:97)

「メーム」(מ)から始まるアルファベットの詩。
二つの節が感嘆詞「マー」(מָֽה)で始まります。

「どんなに愛しているか!」(97節)

「どんなに甘いか!」(103節)

メッセージ訳では詩人が愛しているものを「あなたが啓示されたすべて」と訳しています。神はご自身を啓示される神です。この大自然を見る時、神が確かに存在されることを私たちは意識します。これを一般啓示と呼びます。神はそれだけでなく聖書を通してご自身を啓示されました。これを特別啓示と呼びます。聖書は神の啓示の書であり、私たちを賢くします。聖書を愛する人は、いつも聖書の御言葉を思い巡ら(黙想)します。そして御言葉がどんなに甘いかを体験します。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇119:89-96

「私はどんな全きものにも終わりがあることを見ました。しかしあなたの仰せは実に広いのです。」(119:96)

「ラメド」(ל)から始まるアルファベットの詩。
神のみことばは永遠の御言葉であり、天において定まっています(89節)。メッセージ訳では次のように訳しています。「神よ、あなたがおっしゃることは行き、そしてとどまる、天と同じように永久に。」神のみことば以外に完全なものはありません。神のみことばに限界はなく、全てに及びます。神は言われます。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ55:10,11)

箴言25:21-26:2

「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ。」(25:21,22)

「敵を愛するならば、その人を友に変えることができる」と単純に考えるべきではないと思います。実際、イエス様が愛された敵は、イエス様を憎み、迫害し、十字架につけました。しかし、剣ではなくパンを与えることによって、水を与えることによって、人々が変えられてきたこともまた事実です。だからパウロはこの箇所を引用した後に、このように勧めています。

「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)
聖書は言います。

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

詩篇119:81-88

「たとえ煙の中の皮袋のようになっても私はあなたのおきてを忘れません。」(119:83)

「カフ」(כ)から始まるアルファベットの詩。
「煙の中の皮袋のように」と言う比喩的表現はよく分かりませんが、危機的情況を訴えていると言われます。詩人の苦しみが滲み出ている祈りの詩です。大事なのは、それでもなお、「あなたのおきてを慕い求めます」(83節LB)と言う詩人の姿勢です。詩人は言います。

「私の目はあなたのみことばを慕って絶え入るばかりです。私は言います。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と。」(82節)

どのような状況でも、神の御言葉を慕い、聖書を読み続けること、ここに希望があります。

詩篇119:73-80

「あなたの御手が私を造り私を整えてくださいました。どうか私に悟らせ私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」(119:73)

「ヨード」(י)から始まるアルファベットの詩。
神は私たちを造り、私たちを整えてくださるお方です。神は陶器師のようにその御手で私たちの品格(キャラクター)を確立させようと、人生の様々なプレッシャーを御手のように用いて、私たちを形づくられます。ですから、私たちは励まし合う信仰の仲間たちが必要です。詩人も祈ります。「あなたに信頼し、従っている人々を、もっと仲間に加えてください。みなであなたの教えについて語り明かします。」(七九節LB)御言葉に聴従する者でしか分かりあえない世界があります。だから、御言葉に生きることを通して私たちは励ましを与えることができます。「あなたを恐れる人々は私を見て喜ぶでしょう。私がみことばを待ち望んでいるからです。」(七四節)

詩篇119:65-72

「あなたはいつくしみ深く良くしてくださるお方です。どうかあなたのおきてを私に教えてください。」(119:68)

「テート」(ט)から始まるアルファベットの詩。
英語のGOODに相当する「トーヴ」(טוֹב)が四つの節(六五、六八、七一、七二)の冒頭に置かれています。「良い」、「幸い」、「恵み深い」と一般的に訳されますが、新改訳二〇一七では形容詞は「いつくしみ深く」、動詞は「良くしてくださる」と訳しています。神のご性質そのものが「良い」お方であり、神がなされることは「良い」ことであるということです。ですから、詩人は証します。「私の問題は最善となりました。それらは、私があなたの教科書から学ぶことを強いたのです。」(七一節MSG)私たちには理解できない出来事の中にあっても、神が最善以下はなさらないと信頼することができます。なぜなら、神は良い神であり、良いことをなされる神だからです。