イザヤ 25章

「あなたは弱っている者のとりで、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴なものたちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。」(4節)

宗教改革者マルチン・ルターは、『神はわがやぐら』という有名な讃美歌を作りました。旧約聖書には神が私たちの砦、避けどころであると何度も言います。それは多くの信仰者たちが実際に避けどころである神を体験していたからだと思います。私たちの日々の歩みの中にも嵐のように感じる出来事が起こります。叩きつけるような風に一歩も前へ進むことができないと感じることもあります。そのようなとき、自己憐憫に陥って落ち込み、嘆くこともできますが、聖霊の助けによって「神がわたしたちの砦、避けどころです!」と宣言し、前へ進むこともできます。私たちは、どこに助けを求めているでしょうか。本当の助けは、ただ、生ける神、キリストの中にあります。

イザヤ 24章

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(23節)

イザヤはやがてヤハウェなる神ご自身が治めるために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧される。イエス・キリストはエルサレムで十字架にかかられました。その十字架の上には、

「ユダヤ人の王」

と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神はそのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

〝「禁断」の豚骨イスラエル魅了〟

ちょっと長いタイトルですが、これ、今月23日の朝日新聞夕刊の一面記事の見出しです。非常においしそうな二種類のラーメンも掲載され、宗教的にはタブーでも、それを気にしない世俗派のイスラエル人に大人気!という内容でした。ユダヤ教もイスラム教も豚肉を食すことは禁止していますから、鶏がらスープのラーメンでなく豚骨スープのラーメンがイスラエルに上陸したことにとても驚きました。
イスラエルの地から見れば地の果てにある日本に住む私たちにまでイエス・キリストの福音が届けられ、キリストを信じる者たちが集い、礼拝を捧げていることに神様の御業の素晴らしさを感じます。このイスラエル人のラーメン屋店主は日本で豚骨ラーメンを食べ「味と香りに一瞬で恋に落ちた。本物のラーメンを食べてもらいたい」と語っていました。素晴らしいものをどうにかして伝えたい。その思いはきっと初代教会の人も同じだったのだと思います。命をかけてイエス様の福音を伝えてくださった信仰の先輩に感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)

イザヤ 23章

「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」(9節)

ツロが滅んだ理由を聖書はこう言っています。

「天の軍勢に命令を下す主が、その思い上がりをたたきのめし、人間の偉大さなど取るに足りないことを示そうと、このようにしたのです。」(LB)

ヤコブ4:6にも、こうあります。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

傲慢(高ぶり)は主が忌み嫌うものだと聖書は繰り返し教えます。箴言16:18(LB)には、こうあります。

「プライドが高すぎると身を滅ぼし、高慢は失敗を招きます。」

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)

今日は主の日。へりくだり主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 22章

「さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」(15,16節)

執事シェブナとは、ヒゼキヤ王の時代に宮廷を管理していた人物です。神の怒りに対して悔い改めることをせず、宮廷の管理者と言う立場にありながらただ自分の楽しみのために日々を過ごしていた様子が記されています。そして、シェブナが危機感を持つこともなく自分のためにエルサレムの墓群のなかでも一等地に自らの墓を用意したことに対して、神は厳しく語っています。興味深いことにごく最近、シェブナのものと思われる墓が発見されました。私たちの心の中にも、時々自己中心なシェブナが存在します。他者に対して心を向けることは大切です。

イザヤ 21章

「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(11,12節)

イザヤのところにエドムの人々が、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤはエドムの人々に、本当にそのことが知りたいのなら、心からもう一度尋ねに来るようにと言いました。神は今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神はその人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

スポルジョンは言います。

「それが好きであれ、嫌いであれ、求めることは神の国のルールです。」

熱心に祈り求めましょう。

イザヤ 20章

「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。」(5節)

何に頼り、何に期待し、何に希望を抱くかということは、私たちの人生にはとても大きな問題です。もし、その頼みとしたものが崩れ去ってしまうなら、私たちは混乱してしまうからです。ですから、私たちは決して揺るがない、確かな方、イエス・キリストを頼みとし、イエス・キリストに希望をもつということが大切になります。聖歌の中にこういうものがあります。

「イエスこそ岩なれ 堅固なる岩なれ 他は砂地なり」(二三六番)
今年は宗教改革五百周年ですが、宗教改革のモットーは

VDMA(Verbum Domini Manet in Aeternum.)

神のみことばは永遠に変わることはありません。

イエス・キリストを頼みとするものは失望することはありません。

イザヤ 19章

「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」(22節)

LBで今日の箇所をこのように訳しています。

「主はエジプトを打ちのめしたあとで、もう一度建て直すのです。エジプト人が素直に主を信じるので、願いを聞き入れ、すべてを元どおりにします。」

旧約聖書を読んでいると神はイスラエルのことしか関心がないように誤解してしまうことがあります。しかし、神はエジプトが滅びることも望まれていないと言います。聖書にこんな箇所があります。

「主は尋ねます。『わたしが、悪者の死ぬのを見たがっているとでも思うのか。わたしは、彼が悪の道から離れ、正しく生きるようになることしか願っていない。』」(エゼキエル18:23LB)

「神はすべての人が救われて、真理を理解するに至ることを切に望んでおられます。」(2テモテ2:4LB)

イザヤ 18章

「主が私にこう仰せられたからだ。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。照りつける暑さで暑いころ、刈り入れ時の暑いときの露の濃い雲のように。」」(4節)

LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「神はエルサレムの神殿から静かに眺めています。心地よい夏の日のように、収穫の秋のすがすがしい朝のように、ゆったりと。しかし、神は手をこまねいているわけではなく」。

私たちは神が沈黙されているように感じることがあります。しかし、神は私たち人間のようにあわてふためく方ではありません。神は神の時に、必ずその御業をなされます。その状況を、神が静かにご覧になっているからと言って、神が手をこまねいているわけではありません。神は神の時に、その御業をなしてくださいます。

イザヤ 17章

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(7,8節)

本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。自らを縛ることはあっても、解放することはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分流の考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。