めまいのゆくえ

「頭がぐるぐる回る」
小山牧師が突然こう言い出したのは先週月曜日のこと。とにかくすべてがぐるぐる回ってまともに歩けない、というのです。なーんだ、また猫の毛が耳の中に入ってめまいを起こしたのね。あまり深く考えることなく楽観的に過ごしていたのですが、夕方になっても症状がおさまらず挙げ句の果てには気持ちが悪い、と言い出しました。慌ててかかりつけの耳鼻科に行ったところ猫の毛のせいではなく、良性発作性頭位めまい症とのことで、人間の繊細な身体ゆえの症状だということです。良性とはいえ、ずいぶん日常生活に支障が出てしまい、大変そうです。特に夕方ごろにさしかかると症状が悪化するため、夕礼拝のメッセージは座って行うことになるかもしれません。体の平衡感覚をつかさどっている耳の機能に改めて神様の創造の素晴らしさを覚えます。幸い3日目を過ぎたころから支えなしで歩くことができるようになってきたのでほっとしています。皆さんのお祈りに覚えていただければ幸いです。
(小山晶子牧師婦人)

1列王記 1:1-2:12

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。」(2:2)

ダビデの時代、「復活」という概念はありませんでした。「死」というのは神の領域であり、人にはどうすることもできない領域でした。それでダビデは、「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」と言いました。しかし今、イエス・キリストが死の力を打ち破りよみがえられましたから、栄光の保証があります。私たちがこの肉体を離れる日、私たちは神のみもとにいます。(Ⅱコリ5:8参照)私たちは、「子どもたちよ、私はこれから主のみもとにいく。主と共にいることは本当に素晴らしい!」と言うことができます。永遠のいのち、栄光の望みがあります。ダビデがソロモンに語った勧めは私たちにも適用できます。

「強くあれ。あなたが造られた目的に生きなさい。神があなたに語ることを行ないなさい。」(メッセージ)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 23:8-24:25

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24:24)

ダビデは神に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。(ここに神殿が建てられます。)アラウナは無料でその場所を提供することを進言します。無料で手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし彼は言います。

「いや、ただで受け取るわけにはいかない。ぜひ、売ってもらいたい。何の犠牲も払わずに焼き尽くすいけにをささげたくはないのだ。」(LB)

ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲を払わない、いけにえはありません。神は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

2サムエル 22:1-23:7

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(22:30)

ある注解書でこう訳しています。

「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越えることができる。(WBC)」

ダビデは、「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができる」と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していきました。リッチ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。

「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、むしろ本当は欲しくもない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱのように揺らいでるから。」

2サムエル 20:1-21:22

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(21:1)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、

「時間をかけて祈った」(LB)

と言います。これがキリスト者の姿勢です。すべての問題に、必ずしも原因があるとは限りません。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神はソロモン王に言いました。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)

神の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求めましょう。犯人探しではなく、主の前にへりくだり祈る人が求められています。

2サムエル 18:19-19:43

「アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」(18:23)

ダビデ王のもとに、ヨアブは最初、クシュ人を伝令で遣わしました。しかし、勝利の報告をどうしても伝えたかったアヒマアツは、ヨアブに頼み込んで、自分もダビデのもとに行くことを許可してもらいました。後から出発したアヒマアツは、低地への道を走って行ったので、クシュ人を追い越してしまったと聖書は言います。クシュ人はエチオピア人のことです。スポルジョン師はこう言います。

「私の霊の旅はどうであろうか。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下っていないだろうか。それとも私は、『信じて、生きよ』との平坦な道を走っているだろうか。・・・この箇所を読んで気づくことは、もし人がささいな問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。」

2サムエル 16:15-18:18

「アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」(17:14)

どんなに優れた助言があったとしても、それが実行されるとは限りません。神が介入される時、人は何もできません。最終的には、神のみこころが行われます。ですから、どんなにこの世界の情勢が不透明であっても、過度に恐れることなく、神に信頼する必要があります。最終的な決定権は神にあります。

2サムエル 15:13-16:14

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(16:12)

息子のアブシャロムの反乱に、王国を捨てて泣きながら逃げるダビデに、前の王のサウル家の一族の一人、シムイはののしります。ちいろば先生こと榎本師はこんなことを言っています。

「誤解や中傷は私たちの人生にはつきものである。それは決して特別なものではない。ところが私たちはこうした被害を受けるとき、なんとか早くそれが解消するようにとやっきになる。しかし、自分をのろう者を抹殺したからといって、それで問題が解決するわけのものではない。・・・神への信頼、神による勝利を確信する者だけが、耐えることができ、耐えることができる者だけが勝利にあずかることができるのである。」

「悪いことをされても仕返ししてはいけません。主があなたを救うのを待ち望みなさい。」(箴言20:22LB)

鏡よ鏡よ鏡さん

アマゾンのタイムセールのおかげで念願のLEDライト付卓上鏡を手に入れました。コンサートの控室などに時々いわゆる「女優鏡」があり、まぶしいほどのライトは、目が悪い私にとっては大変ありがたい存在でしたので、わくわくしながらさっそく梱包をほどいて電池をセットし、ライトをつけてみました。隅々まで照らされた自分の顔を見てびっくり。あそこにもここにもしみが、、、しわが、、、歳を重ねていることはわかっていましたが、思った以上の現実にのけぞりそうになりました!見なければよかった、、、そんな思いが心をかすめていきましたが、とにかく現実を直視しなければとローションの量を増やして塗り込みながら抵抗を試みる日々です。でもこの身体は一時的なもの、やがて天の御国で栄光の身体になるときにはシミもしわもない、と聖書に書いてあります。なんとすばらしい約束でしょう。みんなシミもしわもない姿ってどんなだろう?そんなことを考えてしまいました。やがて来るその日を、楽しみにしながら歩むきょうこの頃です。
(小山晶子牧師婦人)

2サムエル 14:1-15:12

「王は言った。「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ。」それでアブシャロムは家に引きこもり、王の顔を見なかった。」(14:24)

ダビデ王は、アムノン王子を殺したアブシャロム王子を赦すことができませんでした。エルサレムに戻ってくることを許可したものの、顔は見たくないと、親子の関係を修復することを願いませんでした。その結果、この後、アブシャロム王子の謀反が起こります。ちいろば先生こと榎本師はこう言います。

「神による和解でなければそこからは真実の交わりは回復されるものではない。」

残念ながら、ダビデ王もアブシャロム王子も神の御前に悔い改めたとはありません。本当の和解はただ、イエス・キリストから来ます。聖霊の力を求める必要があります。
今日は主の日。ペンテコステの日。共に主に礼拝を捧げましょう!