福島に行ってきます。

今週金曜日から三日間、福島県で行われる「ライフラインのつどい」の音楽ゲストとしてリラが参加することになっています。震災後、何かしたいと思いながらもなかなか具体的なお手伝いができなかったこともあり、今回このような機会をいただけたことを大変ありがたく思っています。皆さんのお祈りに覚えていただければ幸いです。初日は会津若松市での集会ですが、会津若松といえば若松城、白虎隊、八重の桜。特に幼いころ見た白虎隊のストーリーは強烈に残っています。少年たちが燃え行く城を見ながら(実際は燃えてはいなかったようですが)自害するシーンは、あまりにもせつなく、かわいそうでした。イスラエルのマサダで、籠城していたユダヤ人約千人の、その最後の様を聞いた時、やはり同じような何とも言えない気持ちになりました。希望を手放すことがどれほどの悲劇をもたらすのかをこの二つのストーリーは物語っていると思います。イエス様に希望をもって歩むという選択をどんな瞬間にもすることができますように。
(小山晶子牧師婦人)

2列王記 1:1-2:25

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(2:9)

預言者エリヤは、彼から離れずに従い続けた後継者のエリシャに、何でも「求めなさい」と言いました。もし、自分がエリシャの立場だったら、何を求めるでしょうか?エリシャが求めたのは

「エリヤのいのちが、自分の人生に繰り返されること」(メッセージ訳)

でした。エリシャは、エリヤのような人生を歩みたかったのです。それはエリヤがそうであったように、自分も聖霊の力で満たされて生きたいという祈りでした。信仰の先輩である神の器に注がれていた油注ぎの分け前を謙遜に求めて、祈ってもらう(按手を求める)姿勢に、神は必ず答えられます。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 22:1-53

「今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」(22:23)

為政者に都合の良いことばかり預言をする自称預言者たちは、預言者ミカヤの預言に腹をたてます。そして、預言者ミカヤに近寄ってきて、頬をなぐりつけて言います。

「どのようにして、主の霊が私を離れて行き、おまえに語ったというのか。」(24節)

そんな彼の姿に主の霊が離れていることが分かります。なぜなら聖霊の実は

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)

だからです。さらに聖書は言います。

「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1:20)

「神からの知恵は純粋であり、平和とおだやかなやさしさに満ち、思いやりと良い実に満ちています。」(ヤコブ3:17LB)

「主のしもべが争ってはいけません。」(Ⅱテモテ2:24)

1列王記 20:1-21:29

「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。『諸国の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。」(20:13,14)

聖書に描かれるアハブ王は悪い王でした。しかし、神はイスラエルの人々を救うためにアハブ王を用いると言われました。神の恵みの世界は私たちの理解をはるかに超えています。ふさわしくないアハブ王にもう一度チャンスを与えて、主こそ神であることを知らせるというのです。もしかしたらアハブ王は神が自分を用いることはないと思って「だれが?」と尋ねたのかもしれません。しかし主は「あなただ。」と言われます。

1列王記 18:16-19:21

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。『さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。』若い者は上って、見て来て、『何もありません。』と言った。すると、エリヤが言った。『七たびくり返しなさい。』」(18:42,43)

今日の箇所の出来事を、新約聖書のヤコブ書ではこう引用しています。

「正しい人の祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があります。エリヤは私たちと変わらない人でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、三年半もの間一滴の雨も降りませんでした。そして、再び雨が降るようにと祈ると、激しい大雨が降って、草木も作物も青々と実るようになりました。」(5:16‐18LB)

何度祈っても、何も起こっていないと感じる時があると思います。エリヤの祈りは、あきらめずに熱心に祈り続ける人の姿でもあります。必ず、小さな雲が水平線から上ってくる時が来ます。

1列王記 16:8-18:15

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」(17:16)

飢饉の時、神はツァレファテに住むやもめに預言者エリヤを養うように導かれました。しかし、そのやもめも一握りの粉しか残っていませんでした。やもめの信仰は試されました。彼女は神のことばに従ってその最後の粉を預言者エリヤに捧げました。すると、

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」

神のことばは地に落ちることはありません。スポルジョン師はこう言います。

「愛する友よ。あなたは日ごとに必要なものがある。それが豊かに与えられるので、いつかかめの粉がなくなるのではないか、つぼの油は尽きるのではないと恐れている。しかし心配してはならない。(中略)神の恵みとあわれみはあなたの必要の一切を満たす。」

1列王記 14:21-16:7

「アサは主の宮の宝物倉と王宮の宝物倉とに残っていた銀と金をことごとく取って、自分の家来たちの手に渡した。アサ王は、彼らをダマスコに住んでいたアラムの王ヘズヨンの子タブリモンの子ベン・ハダデのもとに遣わして言わせた。」(15:18)

今日の箇所のアサ王の行動に関して、歴代誌第二の方で詳しく記されています。

「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。…主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」(16:7,9)

助けを求めること自体が悪いわけではありません。問題は神により頼むためにあります。

祈りに導かれることはすべて良し。

1列王記 12:25-14:20

「彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうしてその人をだました。」(13:18)

「個人預言」に対しては最大限の注意を払う必要があります。どんな預言も吟味する必要があることを忘れてはいけません。この箇所に出てくる若い預言者はその場所で食事をしてはいけないと神から言われていました。ところが、年寄りの預言者がやってきて、神が彼を連れ帰って食事をさせるように言われたという言葉(個人預言)を信じてしまい、自らの命を落としてしまいます。神がそのように語ることが出来ないわけではありませんが、「主はこう言われる」という言葉には注意する必要があります。たとえ預言者と言われる人でも、聖書と矛盾する内容であれば信じてはいけません。

落ち着く場所

わたしは文房具を見るのが好きです。仕事柄手紙を書くことが比較的多いこともあり、新作のレターセットはちょこちょこチェックしています。メールで済ませることも多いですが、例えばHOPの支援を送ってくださった方への領収書を送る際には必ず一筆箋で一言添えるようにしています。ですから、書きやすいペンに出会えた時はテンションが上がります!気に入った一筆箋と書きやすいペンがあれば最高です。マスキングテープも様々な種類の絵があり、見ているだけで楽しいです。最近家の古くなったダイニングテーブルを白いペンキで塗り直したのですが、そのふちにぐるっと猫柄のマスキングテープを張ってデコレーションしています。沢山のものが売られていますが目的なくつくられたものは一つもありません。誰かがデザインし、色や形、特徴を考えて物は作られていることを考える時に、私たちも神様の作品として一人一人が「わたし」としてつくられていることを改めて考えさせられるのです。「わたし」の役割を果たせますように、と今日も祈ります。 (小山晶子牧師婦人)

1列王記 11:14-12:24

「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、主がかつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけられたからである。」(12:15)

ソロモン王の息子、レハブアムが王としてイスラエルを治めようとした時、イスラエルの全会衆は言いました。

「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(4節)

しかし、レハブアム王は民の願いを聞き入れませんでした。その理由を聖書はこう言います。

「主がそうしむけられたからである」。

聖書でもっとも難しいのは、この神の主権と人間の自由意志の問題です。レハブアム王は確かに自分の意志で選択しました。しかし、神の御手の中にありました。私たちはその両面性を信じ受け入れるしかありません。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!