1テモテ 4章

「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(12節)

 テモテはまだ若かったために、教会の中のある人たちから軽く見られていました。そんなテモテにパウロは、自分が語るメッセージに生きることによって模範となるように言いました。彼の生き様によって人々に証するように言ったのです。もちろんこれは、あらゆる年齢層にも言えることだと思います。前向き、信仰的な言葉を自分の口から発しているか、また、前向きな態度をしているか、1コリント13章にあるように、愛に生きようとしているか、信仰的、また、誠実に生きようとしているか、私たちは自分自身を吟味することは大切なことだと思います。私たちは自分が語るメッセージに生きる必要があります。

1テモテ 3章

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」(5節)

パウロは、教会の奉仕よりも家庭を優先するように勧めています。家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(8節)

家族を顧みることが出来ない人は、「クリスチャンの風上にも置けません。」(LB)というのが、聖書が語っている内容です。そもそも、夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと言います。神を第一にし、家庭を第二にし、それから奉仕や仕事があるというのが聖書的優先順位です。

「主よ、あなたが家族関係を大切にするように語っているという事実を認識できますように。」

Ⅰテモテ 2章

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)

 昔から、指導者に対する不満や反発というものは存在します。しかし、聖書は私たちに、指導者たちのために祈る存在となるように勧めます。LBではこう訳しています。

「すべての人のために、神様のあわれみが注がれるよう熱心に祈り、とりなしなさい。そして、やがて彼らにも恵みが与えられると信じて、感謝しなさい。王のため、また権威と重い責任を負っているすべての人のために祈りなさい。それは、主を敬い、主を深く思いながら、平安のうちに落ち着いた一生を過ごすためです。」

指導者たちが正しい決断をすることは、結局はすべての人にとって益となります。

日本の国の首相のため、教会や地域や職場などの指導者たちのため、祈りましょう。

Ⅰテモテ 1章

「私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。」(3,4節)
 
テモテへの手紙は、使徒パウロから若い牧師であるテモテへの個人的な指針の手紙です。その中心的なメッセージは、違った教えを説く偽教師から教会を守るようにということでした。2000年たった今も、キリスト教会と偽教師との戦いは続いています。三位一体も、イエス・キリストの十字架の救いも、聖書の権威も否定する偽教師たちとの戦いは、二一世紀に生きる私たちにも無関係な話ではありません。私たちはしっかりとした聖書信仰に立つ必要があります。空想話ではなく聖書に堅く立つことが大切です。

ダニエル 12章

「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなた は時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(13節)

 ダニエルは、

「あなたは自分 の人生を全うし、休みに入るがよい。あなたは生き返り、終わりの時に受けるべき分を完全に受けるようになる。」(LB)

と言われました。私たち一人一人には、全うすべき自分の人生があるというのです。新約聖書の中で使 徒パウロはこのように言います。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテ モテ4:7)

新約聖書からこのダニエルの箇所を理解するならば、私たちが自分の人生を全うし、休みに入るためには、私たちはこの人生の旅 路にある様々な戦いの中で信仰のために戦い、信仰を守り通す必要があるということです。ですから聖書は言います。

「神様の用意された特別のコースを、忍耐して走り抜こうではありませんか。」(ヘブル12:1LB)

ダニエル 11章

「この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。」(36節)

 ここで出てくる王とはまさに、この世の終わりに登場する偽キリストのことだと言われています。偽キリストの特徴は、

「どんな神よりも自分は偉いのだと主張して、まことの神様さえも冒涜」(LB)

することです。そしてキリストではなく、自分を拝ませるのです。しかし、

「それも彼の時が終わるまでだ。」(LB)

と聖書は言います。神を恐れずに、自分をあたかも神のようにふるまって、なお栄えているように見えても、それは、長続きはしません。

「神様の計画は揺らぐことがないからだ。」(LB)

と聖書は言います。

まことの神を神と認め、神の主権を認めて生きることが問われます。

ダニエル 10章

「すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」」(18,19節)

 ダニエルだけでなく、聖書に出てくる神様が用いた人は皆、モーセもエレミヤもイザヤも、自分はふさわしくないと感じました。しかし神様はいつも、私たちに使命を与えるだけでなく、それを成し遂げることができるように整えてくださるお方です。神様が私たちを整える方法の一つは、私たちにみことばを語ることです。ダニエルは神様のみことばによって、奮い立つことができました。神様は今日、私たちに言われます。

「神様はあなたをだれよりも愛しておられる。だから、恐れるな。気を落ちつけて、しっかりするのだ。」(LB)

ダニエル 9章

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(18節)

ダニエル書9章のダニエルの祈りは、私たちの祈りの模範の一つです。彼が自分の国のため、同胞のために祈る姿勢を、私たちは学ぶ必要があると思います。彼は私たちが神様に祈り求めるのは、
「私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」
と告白します。LBではこう訳しています。
「助けていただく値打ちがあると思うから、お願いしているのではありません。私たちのどうしようもない罪にもかかわらず、神様はあわれみに満ちたお方でいらっしゃるので、お願いしているのです。」
私たちはただ、イエス・キリストの真実のゆえに、イエスの御名の中で祈ります。

ダニエル 8章

「この雄やぎは、非常に高ぶったが、その強くなったときに、あの大きな角が折れた。そしてその代わりに、天の四方に向かって、著しく目だつ四本の角が生え出た。」(8節)

ダニエルは、再び、これから後に起こることに関する夢を見ました。

「私が注意して見ていると、見よ、一頭の雄やぎが、地には触れずに、全土を飛び回って、西からやって来た。」(5節)

この西からやってきた雄やぎは、アレキサンダー大王を指していると考えられます。彼は、まさに、権力の絶頂で死んでしまいます。そして、その王国は、四つに分けられました。あまりにもこの預言が的確なので、学者たちは、これはダニエルではなく、後世の人がこの預言を書いたのではとさえ言っています。神のみことばは的確であり、神がするとおっしゃられたことは、必ず行われます。今日は主の日。主に賛美と礼拝を捧げ、変わることのない神のみことばに耳を傾けていきましょう!

※ 本日の主日礼拝は、小山晶子牧師夫人がメッセージをとりつがれます!

ダニエル 7章

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(13、14節)

「年を経た方」とは父なる神、「人の子のような方」とは子なる神、イエス・キリストです。ここでは、このダニエルの時代の後に現われる四人の王と帝国を、四匹の動物で象徴していると言われます。獅子のような動物はバビロン帝国、熊はペルシャ帝国、豹はアレキサンダー大王のギリシア、そして、最後の獣が象徴しているのはローマ帝国だと考えられます。大事なことは、これらの王の主権は一時的で、過ぎ去り、その国は滅んだということです。しかし、神の主権は永遠で、神の御国は滅びることはありません。