1歴代誌 26章

「このシェロミテと彼の兄弟たちは、ダビデ王と一族のかしらたち、および、千人隊の長、百人隊の長たち、将軍たちが聖別してささげた聖なるささげ物のすべての宝物倉をつかさどった。」(26節)

シェロミテと彼の兄弟たちは聖なる会計係りでした。ダビデ王や将軍など、国民の指導者が神様に捧げた物を管理する役でした。また、

「預言者サムエル、キシュの子サウル、ネルの子アブネル、ツェルヤの子ヨアブのささげ物、そのほかの著名人のささげ物を管理する責任がありました。」(28節LB)

コリント人への手紙第一にこういう箇所があります。

「私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」(4:1,2)

「忠実とは、それをゆだねた方の意志を尊び、それを生かすということである。しかし、それはただ失われないように保存するということではない。」

とちいろば先生が言うように、神の恵みを生かしていけますように。

今日は主の日、主に礼拝を捧げましょう。

1歴代誌 25章

「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(1節)

賛美しながら預言するということが、ダビデの時代に行われていたことは明らかです。それはつまり、賛美の中で神が語られるということを意味しています。立琴と十弦の琴とシンバル(ドラム?)とありますから、騒がしい音楽の中で神が語られたことが分かります。賛美の歌には二つの種類があります。神に直接歌う「垂直」の賛美と、預言的な神の言葉を人々に語る「水平」の賛美です。昔からこの両面が大切にされてきたことを心に留めることは大事なことだと思います。賛美を歌う時、神に直接歌うのですが、賛美の歌を通して神が語られることがあります。ですから礼拝の中で賛美の時間と言うのは大事な時間なのです。

1歴代誌 24章

「ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。」(2節)

ナダブとアビフに関しては、レビ記10章にこう記されています。

「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(1,2節)

彼らは「異なった火」を捧げたために、先立って死んでしまったと言います。神から与えられた祭壇の火を用いる必要があったのにも関わらず、彼らは「異なった火」を捧げたのです。これは主に仕える者の襟を正します。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)

教職は、恐れをもって、主が与えられた聖書を教えています。

1歴代誌 23章

「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」(30節)

信仰生活の中において神に賛美を捧げることはとても大切なことです。賛美を捧げるは日曜日の礼拝だけの話ではありません。「朝ごとに」、「夕べにも」とあるように、日常的に賛美を捧げることを聖書は命じています。日常には、賛美を捧げるような気分ではない時もあります。しかし、賛美を捧げることに私たちの気分は関係ありません。神が賛美を受けるのにふさわしいお方だから、私たちは神に賛美を捧げます。賛美のCDを日常的にかけることによって、賛美を捧げる時間を確保する方法もあります。歌う気分になれなくても、賛美のCDを聴きながら、いつのまにかに賛美の世界に引き上げられることもあります。賛美には不思議な力があります。神が賛美を住まいとされると言われていることを心に留めたいと思います。

1歴代誌 22章

「見なさい。私は困難な中にも主の家のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と石材も用意した。あなたが、これらにもっと加えてほしい。」(14節)

ダビデは何の問題もなく神殿建築のための資金を用意したわけではありません。「困難な中にも」と言います。マケドニヤにあるピリピの教会も、「困難な中にも」主のために捧げた教会です。パウロは言います。

「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコリント8:2)

そんなピリピの教会に、神は一つの約束を与えられました。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

「そこまでしなくても」という世界に、主は必ず報いてくださいます。

1歴代誌 21章

「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」(24節)

ダビデは王でしたが、祭壇を建てるためにオルナンから土地を搾取することはしませんでした。さらにオルナンから「すべてを差し上げます。」と言われたのにも関わらず、ダビデは自分が十分な金額を支払って買いたいと主張しました。オルナンから買わなければ、それはダビデの捧げ物ではなく、オルナンの捧げ物になるからだと言いました。このダビデの姿勢は神への捧げ物に関して私たちに大切なことを伝えていると思います。ダビデは神に捧げ物をすることを特権だと考えていたことは確かです。ダビデは神から何かを得ることよりも、神に捧げることに心を留めていました。

1歴代誌 20章

「彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。」(7節)

現代における旧約聖書解釈の難しい点は、今日の箇所のような血なまぐさい箇所です。人の命が軽視されているように感じてしまいます。当時の歴史的文脈もありますが、旧約聖書は旧約だという理解も大切です。「旧」が意味することは「古い」ということで、つまり「新約」からの理解が必要ということです。新約聖書にはこう書いてあります。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)。

私たちをそしっているのは、人ではなく、悪魔、悪霊です。私たちは敵を間違えてはいけません。聖書は注意します。

「もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラ5:15LB)

1歴代誌 19章

「ダビデは、『ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたのだから。』と考えた。そこで、ダビデは使者を送って、彼の父の悔やみを言わせた。ダビデの家来たちがハヌンに悔やみを言うため、彼のもと、アモン人の地に来たとき、アモン人のつかさたちは、ハヌンに言った。『ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。』」(2,3節)

他者からの善意を、裏を読みすぎて失敗するということがあると思います。自分の単なる思い込みで人間関係をおかしくしてしまうこともあります。とはいえ、この世では確かに裏がある場合もあります。ハヌンはどうするべきだったのでしょうか。彼はアモン人のつかさたちの助言を心に留めて警戒しつつも、素直にダビデの弔意を受け取るべきだったと思います。他者の善意を素直に受け止めることも大切なことだと思います。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1歴代誌 18章

「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(6節)

ダビデは行く先々で勝利を体験しました。聖書は、その理由を、ダビデと共にいた神が彼に勝利を与えられたからだと言います。聖書はこの現実を何度も伝えています。ピリピ人への手紙にもこう記されています。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:13)

榎本師はこんなことを言っています。

「ゆえに、私たちにとって大切なことは、何をするかということではなくて、いかに生きるかということです。」

イエス・キリストと共に生きるならば、私たち自身が問題でなくなりますので、大きな希望が与えられます。ですからイエス・キリストは今日も私たちに語ります。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

イエス・キリストと共に歩むことができる人生は、祝福です。

1歴代誌 17章

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。」(11節)

神は「ダビデの子」の王国を確立させると言いました。「ダビデの子」とは誰のことでしょうか?ソロモン王は、確かに「ダビデの子」ですが、彼の王朝はバビロン帝国によって絶たれてしまいました。その後バビロンから、ダビデの子孫であるゼルバベルはエルサレムに帰国しました。しかし、彼は王とはなりませんでした。数百年後、イエス・キリストはロバの子に乗ってエルサレムに入城しました。その時、人々はイエス様に対し、こう言いました。

「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21:9)

イエス様の王国は、今も絶えることはありません。