箴言 14:5-14

「愚か者は罪の償いを嘲る。心の直ぐな人たちの間には恩寵がある。」(14:9)

「罪の償いを嘲る」、すなわち、キリストの十字架の御業を嘲る人生は死となる道です。聖書は警告します。

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。笑うときにも心は痛み、その終わりには、喜びが悲しみとなる。」(12,13節)

LBでは今日の箇所をこのように訳しています。

「神の教えに背く者たちは過ちを犯し、神を恐れる者たちは人を思いやります。」

神のみことばを軽んじる人生は死への道です。「神を恐れる者たちは人を思いやります」とあるように、信仰は行いを伴います。メッセージ訳ではこう訳しています。「道徳的な生活は、恵まれている生活です。」

詩篇 69:29-36

「私は苦しんで痛みの中にいます。神よ御救いが私を高く上げますように。歌をもって私は神の御名をほめたたえ感謝をもって私は神をあがめます。」(69:29,30)

ダビデは苦しみと痛みの中にありました。しかし、その状況の中にあっても、彼は神を礼拝することを選びました。

「私はほめたたえます。神の名を。歌をもって。」(直訳)

とダビデが言うように、神をほめたたえることは感情の問題ではなく、意志の問題です。決断の問題です。そして、

「それは雄牛にまさって主に喜ばれます。」(31節)

とあるように、動物のいけにえにまさる行為です。それだけでなく、周りにも影響を与えます。

「彼らは心から喜びます。神を探し求める人は、喜びに満たされるからです。」(32節LB)

ですから、聖書は言います。

「天地よ主をほめたたえよ。」(34節)

詩篇 69:13-28

「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(69:13)

この詩を書いたダビデは逆境の中にいました。

「私は傷つきました。」

「私が同情を求めてもそれはなく慰める者たちを求めても見つけられません。」(20節)

しかし、彼は主に祈り、主に信頼することを選びました。

「みこころの時に」

と、神の主権に自分の身を委ねました。それはあきらめの境地にいたったというわけではありません。なぜなら、それでも彼は神の豊かな恵みに期待しているからです。

「神が聞いてくださる時が来たからです。あなたは、愛と恵みを十分に用意して、待っていてくださいます。」(LB)

私たちもダビデと同じ姿勢が大切です。否定的になることを拒絶し、祈り、委ね、神の恵みに期待する。必ず、神は私たちの祈りを聞き、みこころの時に、万事を益としてくださる。この姿勢を選択していくことができますように。

詩篇 69:1-12

「それはあなたの家を思う熱心が私を食い尽くしあなたを嘲る者たちの嘲りが私に降りかかったからです。」(69:9)

神を侮辱する言葉を聞く時、私たちの心は痛みます。ダビデは言います。

「私があなたを弁護したため、敵は、あなたに対してするように、私に侮辱のことばを投げつけてきます」(LB)。

ダビデは、神の御名が汚されないように気を付けました。彼の祈りは、

「ああ主よ。この私の存在が、あなたを信頼しようとする人々にとって、つまずきとなりませんように」(6節LB)

でした。イエス様は、神の家を思う熱心から、神殿で神に近づこうとする人々を妨げていた商売人たちを追い出しました。(ヨハネ二章参照)神の家は今、キリストとキリストのからだ、教会(1ペテロ2:5)です。教会で神の御名があがめられるように熱心になることは素晴らしいことです。礼拝を捧げることに、神を求めて来る人たちを歓迎することに熱心になりましょう。

箴言 13:20-14:4

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(14:4)

確かに、牛がいなければ飼葉おけは汚れることはありません。しかし、それでは飼い葉おけの意味がありません。たとえ飼葉おけが汚れたとしても、牛が存在していることに意味があります。同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。たとえトラブルが起こったとしても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。同じように、私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。しかし、それでも生きていくことに意味があります。
問題が問題ではありません。すべてのマイナスは必ずプラスになります。

ふつうじゃなかった日々 

ようやく首都圏に出されていた緊急事態宣言が解除され、ほっとしました。もちろんすぐに元の生活に戻れるわけではありませんが、異様に静まり返っていた街に子どもたちの楽しそうに遊ぶ声が響くのを聞きながら暫し喜びをかみしめています。明日からもう6月。思い返せば新型コロナの影響が出始めてから数か月、このわずかな期間に半年前には全く考えられなかったことが次々と起こりました。入国拒否やオリンピックの延期、緊急事態宣言、学校の閉鎖、テレワーク、海外での都市封鎖など。全世界規模の「鎖国」状態はものすごいスピードで進んでいたグローバル社会にも計り知れない影響を与えています。この世界がすべてだと考えるなら、こんなにむなしいことはありません。神様を抜きに考えるならまさに「空の空。すべては空(伝道者の書1:2)」。伝道者の書は最後をこうまとめています。
『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前に(伝道者の書12:1)』
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 68:28-35

「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。」(68:34)

「神の力を認めよ」

という言葉を、新改訳二〇一七では

「力を神に帰せよ」、

LBは

「力の源は神です。」

と訳しています。

「神の力について、すべての人に語れ」(NLT)

という訳もあれば、

「神の力を宣言せよ」(NIV)

という訳もあります。パウロはこのように言いました。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

パウロは、イエス・キリストを力の源と認めることができれば、どんなことでもできると、神の力を宣言しました。神は信じる者を滅びから救う力があります。病気をいやす力があります。祝福を与える力があります。聖霊で満たす力があります。今日はペンテコステ、聖霊降臨日。

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)

共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 68:21-27

「相集って神をほめたたえよ。イスラエルの泉から主をほめたたえよ。」(68:26)

この詩は、契約の箱がダビデの町エルサレムに運び入れられたことを描いたと言われます。物理的に相集うことが難しい状態であったとしても、一致して祈り、礼拝を捧げることの重要性は変わりません。現代人は信仰を私事的なものとしてしまい、孤立して行うものとしてしまいました。しかし、今回のコロナ問題でも明らかにされたことは、信仰は公共的なものでもあり、共に集まり、祈り、礼拝することにも意味があるということだと思います。教会堂(礼拝堂)は、あってもなくても良いものではなく、私たちのこの地上における信仰生活において大切なものです。私たちは一日も早く教会堂(礼拝堂)をオープンにして、相集って神をほめたたえたいと祈ります。

詩篇 68:15-20

「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」(68:19)

イエス様は言われました。

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)

心配しなくても、私たちは日々、十分な苦労、重荷があります。ですから、イエス様は言われました。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

日々、まず、私たちの重荷を担われる主を見上げるようにと言います。そうするならば、私たちは、日々、恐れ、不安、心配事を神様に委ねることができます。神様は、日々私たちの重荷を担われる方です。

箴言 13:10-19

「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある。」(13:10)

「高ぶり」をLBは、「自分に自信がありすぎる人」と訳しています。謙遜に他者からの忠告に耳を傾けることができないと、ただ争いが生じるだけになってしまいます。もっとも、何よりも私たちが耳を傾けなければならないのは、聖書のみことばです。聖書は言います。

「みことばをおろそかにすると苦しい目に会い、みことばに従えば成功します。」(13節LB)

聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

私たちは謙遜になって、互いのために祈り合い、励まし合う必要があります。