詩篇 27:1-6

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(27:4)
ダビデは、
「神が私の側におられるから、私に恐れはない、誰も、何も恐れない」(1節MSG)
と告白します。そう言うダビデは恐れる理由がありました。彼は、
「私を亡き者にしようと襲いかかる悪者」(2節LB)
の存在を認識していたのです。ダビデがそのような状況の中で視点を転換することができたのは、神への礼拝を第一としたからです。主の麗しさを仰ぎ見ることを第一としたからです。神に礼拝を捧げる場所こそ、
「騒々しいこの世界にあって、唯一の静かな、安全な場所」(5節MSG)
です。
ダビデは「一つのこと」を主に願いました。一つのことですが、三つの動詞で表現しています。
「主の家に住む」
「主の麗しさを仰ぎ見」
「その宮で、思いにふける」

※ 新型コロナウィルスに対する栄シャローム福音教会の対応

ここ数週間、国内でも新型コロナウイルスの感染が増加・拡大していることを考慮し、栄シャローム福音教会として以下のような対策をとります。
いたずらに不安をあおるようなことは避けなければなりませんが、感染予防措置をもって備えることは、教会に必要と判断いたしました。
以下の事項に留意くださるようにお願いします

1.2月27日(水)~3月6日(金)のビブリオン、祈祷会は、各自、自宅で祈りの時をおもちください。

2.日曜礼拝は行います。
ただし、37.5度以上の熱がある方、せき、カゼ症状のある方、 体調のすぐれない方は奉仕者を含め礼拝出席をお控えください。
各自YouTube(「栄シャローム福音教会」で検索してください)での礼拝をお守りください。

3.礼拝に出席される方はマスクの着用をお願いします。
また、礼拝堂へ入られる前に手洗いをお願いします。
握手はお控えください。受付での名簿記入も中止します

4. 礼拝や祈祷会における、食事や茶菓の提供を中止いたします。

5.3月の聖餐式は中止いたします。

尚、今後の推移を見守りますが、行政から集会などの自粛要請があった場合には更なる対応を 検討し、Facebookなどに情報を更新します。
何より、主にある信仰を持って可能なことを行い、感染の収束のために祈り続けてまいります。
また感染されました方々の速やかな癒しと回復を心よりお祈り申し上げます

詩篇 26:1-12

「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」(26:8)

ダビデは自分の栄光を求めることなく、神に栄光を帰すことを求めました。ですから、この詩はこのようにまとめられています。

「私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」(12節)

ダビデは人々が神に栄光を帰すように導きました。バプテスマのヨハネも、イエス・キリストを指し示し、自分の弟子たちに言いました。

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:30新共同訳)

ワーシップ・リーダーのあるべき姿がここにあります。神の栄光だけが輝き、自分は薄れていく。旧約聖書の時代、神の栄光はエルサレムの神殿に見出すことができました。しかし今は、イエス・キリスト(ヨハネ1:14)に現されています。ですから、イエス・キリストを信じる者たちが主をほめたたえるただ中に、神の栄光は現わされます。

箴言 6:1-11

「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。」(6:6)

アメリカのバイブル・カレッジに行っていた頃、寮の机にこの6:6から11節を書いて、一生懸命勉強しました。10節のリビングバイブルの訳はまさに箴です。

「『まだしばらく寝かせてほしい』と言っていますが、その『ほんの少し』が問題なのです。」

アルファのニッキー先生はこう言います。

「自己鍛錬の欠けのゆえに私たちは人生を無駄にしてしまうことがある。…もちろん、十分な睡眠をとることは重要だ。私たちの身体は休みが必要だ。しかし、非生産的な活動によって自分の時間を無駄にしないように注意する必要がある。」

断じて楽しむことが悪いわけではありません。聖書の神は、

「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(1テモテ6:17)

です。しかし、与えられている時間を管理することは大切なことです。

詩篇 25:16-22

「誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。」(25:21)

詩人ダビデは、

「かかえている問題は、だんだん手に負えなくなるのです。」(17節LB)

と、一難去らずにまた一難と頭を抱えます。

「私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。」(19節)

ダビデは孤独を感じていました。神が祝福されるところに、迫害が多いこともまた事実です。出る杭は打たれます。しかし、それでもダビデは、そんな中にあっても

「神を敬う心と誠実さ」(21節LB)

をもって生きることができるようにと祈ります。人々がどう思おうが、何を言われようが、ダビデは正しいことを行うことを求めました。そのように、主にあって生きる者にとってダビデの祈りは心に響きます。

「あなたに向かって走る私をがっかりさせないでください。」(20節MSG)

赤ナマコ

ナマコが大好きです。
実家にいた時にはこのシーズンにちょくちょく食べる機会があったのですが、関東ではもっぱらスライスしてパックに入った、しかもほんのちょっとでいいお値段のものしか売っていなくて悲しく思っていました。ところが先日初めて行った魚屋さんで見つけてしまったのです。元気いっぱいの赤ナマコたち。買っちゃいました。そこで売り場のお兄さんから驚くべきことを聞きました。なんとあの最もおいしい海鼠腸(このわた)を出して、ナマコ本体だけを持って帰る人が多いんだそうです。わたしから言わせればナマコを食べる楽しみの7割は海鼠腸にあり、です。本当においしいところではなく、ある程度の美味しさで食べた気になって満足するなんてもったいなさすぎます。御言葉もそうです。知的な部分をつまみ食いして聖書が分かった気になってはいませんか。聖書の素晴らしさを味わわないなんてもったいないですから、「ある程度」で食べた気にならずその深みをぜひ味わってみてください。きょうも主に期待しましょう!(小山晶子牧師婦人)

詩篇 25:8-15

「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(25:12)

「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。」(8節)

とあるように、私たちは完全ではなくても、神は私たちに歩むべき道を教えてくださいます。正しい道に歩めるように正してくださいます。完全さは求められていませんが、謙遜さは求められています。ですから、続けてこうあります。

「謙遜になって主のもとに帰る人に、主は最良の道を教えてくださいます。」(LB)

ですから、主を恐れることが大切です。

「主を恐れる人はどこにいますか。主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えてくださいます。」(12節LB)

私たちの目はどこに向いているでしょうか?主を恐れ、主を見上げましょう。

「私の目はいつも助けを求めて、主に向いています。私を救い出せるのは、主おひとりだからです。」(15節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 25:1-7

「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」(25:1)

ダビデは、自分と言う存在のすべてをもって主なる神を見上げていると言います。なぜなら、主を待ち望む者は誰も恥を見ない(3節)という確信があったからです。ですから、ダビデは歌います。

「私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(5節)

ダビデの人生の秘訣は、明らかにここにありました。彼は日々、主を見上げていたのです。主に希望を置いていたのです。ですから、彼の祈りは、

「私の手をとって、真理の道に導いてください。」(5節MSG)

でした。聖書ははっきりと私たちに対する神のご計画を語っています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

主は災いではなく祝福を与えたいのです。主を仰ぎましょう!

箴言 5:15-23

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」(5:21)

結婚生活の祝福は、排他性の中にあるというのが聖書の教えです。「あなたの水ためから、水を飲め。」「それを自分だけのものにせよ。」というのは、そのような意味です。不貞は悲劇をもたらします。ヘロデ王の不貞の罪がバプテスマのヨハネの殺人へと導いたことを私たちは忘れてはいけません。隠すことはできません。「主はその道筋のすべてに心を配っておられる」からです。もっとも、主が「その道筋のすべてに心を配っておられる」という事実は、三つよりの糸(伝4:12)としての役割を果たされるということでもあります。主を結婚生活の中心に歓迎するならば簡単には切れません。

詩篇 24:1-10

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」(24:9)

ダビデは、神の臨在を象徴する契約の箱が、エルサレム神殿に入ってくることを意識して、この詩を書いたと思われます。しかし、これはまた預言的な意味を含んでいると思われます。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを、預言していたのだと思われます。さらに、聖書の最後の部分で、イエス・キリストはこう言われました。

「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

イエス・キリストは再び、この地に来られると約束されました。メッセージという訳では今日の箇所をこう訳しています。

「目を覚ませ、寝ぼけている町よ。目を覚ませ、寝ぼけている人々よ。栄光の王が入ってくる準備は整った。」

その日は遠くありません。