マラキ書 2:17-4:6

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(3:10)

私たちは神の愛に応答して、何かを捧げたいと思います。しかし、どのぐらい神に捧げるのが適当でしょうか?神は私たちに、収入の十分の一をもって試すことを勧めます。つまり「いくら捧げたか」ではなく、「どのような心で捧げたか」を神はご覧になられていると言うのです。神の目は、金額ではなく心に向けられているからです。所属する地域教会に捧げる時、神は私たちのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注がれます。その祝福は自分個人だけにとどまるものではありません。自分が属している共同体全体にあふれます。強制ではありませんが、神の祝福を体験できるように、捧げる事ができるように祈りましょう。

先週の出来事

クリスマスが来ると思い出す、自分が洗礼を受けたあの日のこと。早いもので32年もの月日が流れてしまいました。横浜市民となって23年。その直後から教会学校の先生の働きをしていますが、いまは生徒が一人なのでこれまでで一番静かに時間が流れてゆきます。毎週聖書のお話をする前に、「先週の出来事」を話してもらっています。嬉しかったこと、悲しかったこと、心に残ったことなどを自由に言う時間なのですが意外と意識せずに時間を過ごしてしまっていることに気付かされます。前述した人生の節目節目はなかなか忘れませんが、「日常」はまるで指の間からこぼれていく砂のように何の引っ掛かりもないものになっているとしたらもったいない気がします。ロープに小さな結び目をつけていくように、日々の出来事に神様がともにいてくださったことを意識することができたらもっと恵みを数えられるのではないかと思うのです。

先週の皆さんの歩みに、結び目はいくつありましたか?

(小山晶子牧師人)

マラキ書 1:1-2:16

「「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。―主の御告げ。―わたしはヤコブを愛した。」(1:2)

神はイスラエルの民に言われました。

「わたしはあなたがたを愛している。」

しかし、イスラエルの民は懐疑的で、神にこう答えます。

「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」

神は近視眼的なイスラエルの民が、現状ばかり見ないで、過去を見るように仕向けます。

「歴史を見てごらんなさい。」(メッセージ訳)

もし、神の愛に疑いを感じるならば、歴史を見てください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

今から約二千年前のクリスマスは、神の愛の現れです。

今日は主の日。アドベント三週目。共に主に礼拝を捧げましょう。

エステル記 9:1-10:3

「それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」(10:3)

モルデカイが尊敬された理由が二つあります。

一つは同胞の幸福を求めたこと。

もう一つは「平和」を語ったこと。

「平和」は聖書のキーワードの一つで原語は「シャローム」。「平和、平安」という意味と同時に「満たし、健康、福祉、健全、完全、無事、祝福」等の意味があります。聖書は言います。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和(シャローム)を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(Ⅰペテロ3:10‐12)

イエス・キリストが成し遂げられた和解、シャロームの実現に生きることができますように。

エステル記 6:1-8:17

「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」(6:1)

エステルが一日ずらした結果、王はその夜、眠れなくて、記録の書、年代記を読ませました。その時、ユダヤ人モルデカイの記録を聞きました。王は自分が何もしていなかったことに気づかされます。そして、モルデカイを殺害しようと企んできたハマンに、モルデカイに逆に栄誉を与えるという大ドンデン返しが起こります。これらが一夜にして起こったというところに私たちは心を留める必要があると思います。私たちは不安の中で、眠れない夜を過ごす時も、

「眠っている間に、このように備えて下さる」(詩篇127:2)

神に目を向ける必要があると思います。一夜にして状況を変えることができた神は今も生きておられます。ですから詩人は歌っています。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)

エステル記 2:19-5:14

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(4:14)

神は、私たちひとりひとりに目的をもっておられます。私たちが経験してきたこと、また、今与えられている環境も、すべて神の御手の中にあります。しかし、神は同時に私たちに自由意志を与えられました。神は私たちに目的をもっておられますが、それに応答するかしないかは、私たちの側に任されています。ですから、日々、祈りましょう。
「主よ、あなたは目的をもって私を造られました。ですから、私はその目的に生きたいのです。今日、私が何をなすべきかを教えてください。私はあなたのみこころに従います。」
主が与えられた機会(チャンス)に応答していくことができますように。

エステル記 1:1-2:18

「そこで王は法令に詳しい、知恵のある者たちに相談した。」(1:13)

エステル記のテーマの一つは「神の摂理」です。全ては神のみ手の中で良しとされます。しかし、学ぶべきこともあります。アハシュエロス王が宴会を催し、王妃のワシュティも婦人たちのために宴会を催しました。酒で心が陽気になったアハシュエロス王は、ワシュティの気持ちも考えずに、彼女の容姿の美しさを自慢するために、酒席にくるように命じます。ワシュティが断ると、王は怒り、そして「知恵のある者たち」と相談したとあります。彼らは、妻が夫を尊敬するようにワシュティを追放するように進言しました。しかし、権力で尊敬を勝ち取ることができるはずがありません。アハシュエロス王は結局、自分がしたことを後悔します。私たちは判断に悩む時、「知恵のある者たち」に相談するよりも先に、神に祈ることができます。

ゼカリヤ書 12:1-14:21

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(13:1)

メソジスト運動の創始者、ジョン・ウェスレーは、この開かれた泉こそ、「キリストの血潮」だと言います。聖歌の中にこういう賛美があります。

「罪の汚れを洗いきよむるは、イエス・キリストの血潮のほかなし。

イエスの血潮、ほむべきかな。我を洗い、雪のごとくせり」(聖歌447番)

イエス・キリストは、私たちの罪と汚れをきよめるために、あのカルバリの丘の上で、その血潮を流されました。ウェスレーはまた、「エルサレムの住民」とは、福音が語られた人々だと言います。この罪と汚れをきよめる泉、キリストの血潮は、すべての人のために十分なだけ存在しています。一人でも多くの方が、キリストの血潮のきよめを体験できるように、私たちは、キリストの十字架の福音を、一人でも多くの人に伝える必要があります。

ゼカリヤ書 9:1-11:17

「望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。」(9:12)

キリストを信じる者は、キリストが再び来られる(再臨)という希望によって捕えられています。逃れられることはありません。いや、逃れたくありません。私たちが心から願っていることだからです。キリストが再び来られる時、苦しみも、悲しみも、戦いも終わり、すべては正されます。キリストが平和と義をもって治められます。この希望に捕らわれている人に、主は招かれていています。

「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18:10)

主の御名の中に帰る人に、神は倍返しを約束されています。たとえ今、損をしているように感じても、祝福が倍になって返ってくるというのです。私たちは希望が必要です。イエス・キリストの御名の中に希望をもつことができることは、幸いです。