民数記 5:11-31

「祭司は、その女を進み出させ、主の前に立たせる。」(5:16)

不貞の嫌疑をかけられた妻に対する扱いが記されています。

根底にあるのは、結婚は神への誓いと神の祝福を伴う神聖なものであるということです。

これは新約聖書でも明確です。

聖書は言います。

「結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。」(ヘブル13:4)

性的な罪は、配偶者だけでなく、神に対する不誠実な罪であり、神は必ず裁かれると言います。

キリストと教会の関係がこの結婚関係の文脈で語られていることを心に留める必要があります。

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ5:31,32)

民数記 5:1-10

「イスラエルの子らに告げよ。男にせよ、女にせよ、他人に何か一つでも罪となることを行って主の信頼を裏切り、後になって、その人自身がその責めを覚えたときは、」(5:6)

すべての罪は神に対する罪です。

ですから、与えた損害を賠償する相手が死んでしまった場合、その賠償を受け取る親類がいなければ、神のものとなり、祭司のものとなると言います。

要するに、賠償することは、自分が行った罪を告白して償う本人のためでもあるということです。

罪はどんな罪でも私たちの心を蝕むからです。

罪を放置することは危険です。

誰も見ていない、知らないと思っても、神はご存じです。

ですから聖書は言います。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

民数記 4:34-49

「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」(4:49)

「モーセを通して」、「主がモーセに命じた」とあります。

神はモーセを通して民に語られました。

モーセに語られたことを集めたのが「モーセ五書」と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。

要するに、神は聖書を通して語られるということです。

私たちは謙遜に、そのことを受け入れる必要があります。

聖書66巻、モーセのように神の霊感によるものです。

私たちは自分の感覚ではなく、聖書を通して、神が何を命じているかを知ることができます。

聖霊さまは聖書を通して、指示を与えてくださいます。

ですから、日々、聖書を読むことは重要です。

民数記 4:21-33

「ゲルション族のすべての奉仕、すなわち、彼らが運ぶすべての物と彼らのすべての仕事は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは彼らに、任務として、彼らが運ぶ物をすべて割り当てなければならない。」(4:27)

会見の天幕の任務のため、神が与えた霊的権威と秩序によって、役割を担うように命じられます。

主の教会も、神が与えられた霊的権威と秩序によって、建てあげられていきます。

「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4:11-13)

民数記 4:1-20

「あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。」(4:19)

神は愛なる神であると同時に聖なる神です。

役割の違いは、神に対して健全な恐れの心を持たずに、軽々しく扱うならば危険であることを教えているのだと思われます。

ただし私たちの大祭司、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、キリスト者は今恵みの御座に近づくことができます。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

民数記 3:40-51

「わたしは主である。あなたはイスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりとしてレビ人を、またイスラエルの子らの家畜のうちのすべての初子の代わりとしてレビ人の家畜を取り、わたしのものにしなさい。」(3:41)

神はイスラエルの長子と家畜の初子を「わたしのものにしなさい」と言われました。

それぞれの家族から長子を捧げてしまうならば混乱します。

ですから、その代わりにレビ人たちを取り分けると言います。

長子の数がレビ人たちの数よりも多い場合は金銭によって贖われました。

もちろん、救いをお金で買うことができるという意味ではありません。

聖書は言います。

「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18,19)

民数記 3:14-39

「レビ族の名は次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。」(3:17)

レビ族は大きく三つの氏族に分けられました。

ゲルション人諸氏族は幕屋の布などを管理しました。

ケハテ人諸氏族は契約の箱や燭台など、幕屋の中で使う祭具などを管理しました。

メラリ人諸氏族は幕屋の骨組みなどを管理しました。

要するに、チームで働いていたということです。

神の働きは決して一人でできるものではありません。

教会も同じです。

適切な役割分担をして、チームで建て上げていくものです。

38節をLBではこのように訳しています。

「モーセとアロンとその子らは、いつも幕屋の東側に天幕を張りました。彼らはイスラエルの人々に代わって、幕屋で仕事をするのです。」

他のレビ人とは違い、モーセとアロンと祭司たちには、聖所の任務がありました。

つまり、神はそれぞれに役割を与えられているということです。

民数記 3:1-13

「ナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。」(3:4)

祭司職はアロンの家系に限られました。

選ばれることは責任を伴います。

アロンの息子、ナダブとアビフは「主の前に異なる火を献げたときに、主の前で死んだ」と言います。

これはレビ記10章に出てくる内容です。

「異なる火」が何であったかは明確ではありませんが、この文脈でモーセはこのように言います。

「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。」(10:9)

聖なる神の働きを軽んじないように気をつける必要があります。

民数記 2:1-34

「ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。」(2:9)

先頭を進むことは危険と隣合わせでもあり、誰もが避けたいものだと思います。

先頭を進むユダ族の最初の登録は74,600人でした。

しかし、最終的に76,500人となります。

ユダの宿営の旗のもとには、ユダ族以外にイッサカル族とゼブルン族もいました。

イッサカル族も54,400人から64,300人になります。

ゼブルン族も57,400人から60,500人になります。

リスクを冒してでも、神の命令に従って先頭を進むならば、神は必ず守り、支えてくださるということだと思います。

民数記 1:47-54

「幕屋が進むときはレビ人がそれを取り外し、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」(1:51)

人口調査からレビ族は除外されました。

それは、幕屋で奉仕する働きに専心するためでした。

この原則は新約聖書の教会にも受け継がれます。

使徒たちは言いました。

「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:4)

もちろん、キリスト者は皆、

「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(1ペテロ2:9)

です。

神と人との間の仲介者は、

「人としてのキリスト・イエス」(1テモテ2:5)

だけです。

しかし、今も、教会の働きに専心する人が必要とされています。(1テモテ3章参照)