エペソ 4:17-5:7

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(4:29-32)

バングラデシュの児童養護教育施設のホーム・オブ・ピースの毎朝の教職員祈祷会の中で、この箇所が唱和されます。なぜなら、これが教師のあるべき姿勢だからだと言っていました。もちろん、教師でなくても自分の人生訓として毎朝このみことばを宣言するならば力となります。

エペソ 4:1-16

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(4:1-3)

私たちはご利益のためではなく、キリストに召された者としてふさわしい生き方が求められています。具体的には、

「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保」つこと

です。これが、この地上に神の御国を現すためにふさわしい生き方です。与えられた限りのあるこの世での人生をどのように過ごすか、どのように生きるか、聖書はすでに示しています。もちろん、一朝一夕に実現する話ではありません。時にはうまくいかないこともあると思いますが、方向性をはっきりすることは大切なことです。そして、聖霊なる神は必ず生きる力を与えてくださいます。

エペソ 3:1-21

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

メッセージ訳では今日の箇所をこう訳しています。

「満ちた(Full)人生を生きよう。神の満たし(Fulness)の中にある満たし(Full)に。」

神の満たしの中にある満たしに満ちた人生は、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることから始まります。もし、満たされていないと感じているならば、キリストの愛を知る必要があります。キリストの愛は十字架に現されます。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)

キリストが私たちを愛するために、十字架でいのちを捨てたことを黙想し、自分の心に語りましょう。

「すべてはわたしを愛するため。これほどの犠牲を払ってくださった。」

※ 本日は、御殿場の教会でTPKFイースト・フェローシップ・デイが開催されます!HOPカフェも開催されます。

関西弁になる前に

昨日はイーストフェローシップデイで行うHOPカフェの買い出しのため、朝から並木のコストコに行ってきました。待ち合わせ時間より15分以上早くついてしまったので、入り口近くのベンチ目指して下りエスカレーターに乗りました。すると、私の真後ろに子連れの家族が。かなり距離が近かったので会話が聞こえてしまいます。どうやら今日はその幼い息子さんの誕生日らしく、何を食べようか、などと楽しそうな会話が聞こえてきます。ところが、当の本人はあまりの嬉しさのせいか調子に乗ってしまいジャンプしたり、エスカレーターのベルトにつかまって遊んだり。お母さんが何度かやさしく注意していましたが、次第に口調が厳しくなり、最後にこう言ったのです。『あんた、ええかげんにしいよ!』関西弁や、、、。やっぱり関西人は怒ったら関西弁になるんやな、、、。非常に親しみを感じつつ、こう思いました。“ああ、神様が関西弁になる前に注意されたことはちゃんと直さななー。“神様の忍耐の中で、子どもである私たちは育てられているのですね。
(小山晶子牧師夫人)

エペソ 2:1-22

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(2:10)

聖書は私たちのことを「神の作品」と呼びます。大量生産の製品ではなく、造り主の指紋がついた「芸術作品」(art work)であることを心に留めたいと思います。すべての「作品」には芸術家の目的があるように、私たち一人一人の人生にも、神の目的があります。私たちはただ消費するために生きているのではありません。私たちの存在には意味があります。自分が造られた目的に生きることができますように。また、神の作品であるがゆえに一人一人はユニークで貴い存在です。神の目には、一人一人がかけがえのない存在であるということも、心に留めていくことができますように。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

エペソ 1:1-23

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)

教会とは何か?まず、第一に教会は「キリストのからだ」です。「頭」はキリストです。教会は同好会やクラブとは違い、「頭」であるキリストのみこころを行なう集まりです。ですから、「頭」であるキリストのみこころを求めて、祈りつつ、聖霊に導かれて歩む集まりです。神のことばである聖書が最高権威です。第二に、教会は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」です。イエス・キリストの臨在が満ちていることが教会を教会とします。神は「賛美を住まいとする」と聖書は言いますから、賛美に満ちている集まりです。キリストが「わたしがわたしの教会を建てる」とおっしゃられたことを覚えつつ、教会のために祈りましょう

ガラテヤ 6:1-18

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(6:1)

「メッセージ」という訳では、一節をこう訳しています。「友よ、創造的(クリエイティブ)に生きなさい。もし、誰かが罪に落ちたなら、赦しつつ回復させなさい。あなたの批判的なコメントは自分自身のためにとっておきなさい。あなたがその日が終わる前に必要かもしれないからです。」つまり、聖書的に「御霊の人」、「霊的な人」は、自分の弱さを知っている人であり、批判的にならずに、赦しの心をもっている人だと言います。ガラテヤの教会の人で、過ちに陥った人がいたのだと思われます。パウロはその人を責めるのではなく、聖霊の実である柔和をもって、その人を受け入れ、回復させなさいと言いました。これが、「御霊の人」の集まりである、教会のあるべき姿です。

ガラテヤ 5:7-26

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(5:15)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「それでは、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4:21-5:6

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)

「キリスト・イエスにあって」ということは、キリスト・イエスの中にあるということです。キリスト・イエスの中に在るかどうかが大事であり、割礼の有無ではありません。割礼はキリストの立場を決定しません。「愛によって働く信仰」ということは、「愛が働いてその存在を発揮する信仰」という意味があります。神がイエス・キリストを遣わして私たちに永遠のいのちをもたらしてくださったその動機は、「愛」でした。私たちの信仰というのは、この神の愛を通して働くものです。ですから、パウロはこのように祈っています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ三・十九)信仰が働くためには、キリストの愛を知る必要があり、キリストの愛を知るためには、「祈り」が必要です。

ガラテヤ 3:26-4:20

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(4:6)

「神」が主語です。新改訳二〇一七ではこう訳しています。

「神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」

聖霊は、「アバ、父」と叫ばせる、私たちを祈りに導かれるお方だと言います。つまり、父なる神に祈りを捧げることは、聖霊が私たちの内に住まわれている証拠ということです。聖霊が私たちの心の中に住んでおられるから、私たちの内側から祈りが沸きあがってくるということです。それは、「洗練された言葉」として湧きあがることもあれば、日本語としては意味をなさない、叫びでしかない、いわゆる「異言」のこともあります。大事なことは、聖霊に導かれて祈ることです。