ヨハネ 5章

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(5:39)

聖書は、イエス様について証言しているものです。

ですから、イエス様を中心に聖書を読まないと、聖書を本当の意味で理解することはできません。

どんなに原語を勉強しても、どんなに研究書を読んでも分かりません。

どんなに修行を積んでも、祈っても、イエス様を中心に読まないと分かりません。

イエス様は続けてこう言われました。

「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

聖書を読むならば、イエス様のもとに来るものだということです。

聖書をイエス様を中心に読み、本当の意味で理解したならば、イエス様を求めて、イエス様のもとに来るものだと言います。

イエス様のもとに導かれないならば、それは、聖書の読み方に問題があるということです。

ヨハネ 4章

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(4:23)

「御霊と真理によって」という意味は、礼拝には、霊的な側⾯と、御⾔葉にしっかりと根ざした理性的な側⾯の両⽅が必要ということです。

聖霊に導かれるものでなければなりませんが、同時に、御⾔葉にしっかりと根ざしているものでなければなりません。

聖霊を認めない御⾔葉の真理だけの強調は、結局、死んだ伝統を⽣み出します。

逆に、御⾔葉の真理のない聖霊運動は、結局、ぶっ飛んでしまい、何も⽣み出しません。

神が求められているのは、⼼の伴わないみせかけの礼拝ではありません。

神は私たちの⼼の中をご覧になっておられます。

ただ、どんなに誠実であっても、誠実に間違っていることがあります。

⾃分が礼拝したい神に対してではなく、聖書に記されている神に礼拝を捧げることが重要です。

ヨハネ 3章

「風は思いのままに吹きます。」(3:8)

原文のギリシア語では、「風」も「霊」も同じ単語です。

それで、ここでは「風」と「聖霊」をかけてイエス様は語られています。

「聖霊」は、得体の知れない力ではなく、三位一体なる神の第三位格です。

人格(ペルソナ)をもった神です。

聖霊は、ご自分の意志で、ご自分の好むところに働かれる力ある神です。

聖霊にも好みがあります。

ですから聖書は言います。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4:30)

聖霊を悲しませる行為、それは、

「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなど」(31節)

だと言います。

私たちは聖霊の働きなくして何もできません。

神様の臨在に満ち溢れた場所となることを願うならば、常に心に留めなければならないことがあります。

それは、

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(32節)

ヨハネ 2章

「イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」」(2:19)

初代教会の殉教者、ステパノが訴えられた理由はこれです。

「『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」」(使徒6:14)

目に見える物質的な神殿が、新しい霊的な神殿であるキリスト教会に置き換えられるというのは初代教会が語っていたことでした。

だから、使徒パウロも言います。

「私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(2コリ6:16)

ユダヤ人が民族的象徴としていた第二神殿は、紀元前十九年からヘロデ大王が改築していた神殿です。

最終的に、紀元後六三年に完成しますが、七十年にローマ軍によって破壊されます。

しかし、キリストは復活し、教会は存在し続けています。

サラスポンダ レッセッセ

何の前触れもなく、この言葉が口をついて出て来たのは先週木曜日の夜。

しかも振り付けとメロディ付きです。

若干引き気味の英児先生は無言でそんな私を見つめていました、、、。

♪サラスポンダ×3
オドラオ オドラポンダオ
オドラポンダ レッセッセ
オセポセオ♫

歌いながら断片的に思い出した昔の記憶。

まだ幼稚園ぐらいのころ、夏休みに祖父母の住む九州に行き、山で行われた教会のキャンプに参加した日のことを。

この歌の存在を怪しむ英児先生の反応に不安になりネットで検索してみたところ、実在するオランダの民謡だということまでは分かりました。

記憶の引き出しには他にもたくさんのものがしまい込んであるのだと思います。

実は私にとってこのキャンプは良い思い出ではありません。

しかし今回思い起こす中で神様のあたたかいまなざしを感じたのです。

この時にも、主はともにいてくださったのだなあと思い嬉しくなりました。

私たちの人生の様々な場所に神様の痕跡を見つけることができることは感謝なことですね。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 1章

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)

「初めに」という始まりは、創世記1:1と同じです。

創世記は古い創造について、ヨハネは新しい創造について語っています。

だれでもキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります。」(2コリント5:17欄外)

「ことば」と訳された単語は「ロゴス」ですが、ギリシア哲学で扱われる概念とは違います。

神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。」(創世記1:3)

とあるように、「ことば」は神が行動していることを示します。

「ことばは神であった」とあるように、子なる神、イエス・キリストの行いと言葉は、父なる神の行いと言葉と同じということです。

父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18節)

聖書の神は、子なる神、イエス・キリストを通して明らかにされた神です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 24章

「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(24:49)

死からよみがえられたイエス・キリストは弟子たちの前に現れ、大宣教命令を告げます。

「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(46-48節)

興味深いことは、出ていく前に、

「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

と言われたことです。

自分の力ではなく、神の霊の力によってでなければならないと言われたのです。

聖霊の力を求めることからはじめるように告げたのです。

イエス様は言われます。

「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(11:13)

ルカ 23章

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」」(23:34)

イエス・キリストが十字架の上で語られた言葉の一つが、この

父よ、彼らをお赦しください。

でした。

イエス・キリストはご自身に対する憎しみの言動に対して、憎しみで応じることはありませんでした。

聖書は言います。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(1ペテロ2:23,24)

イエス・キリストはあの十字架で憎しみの連鎖を打ち砕かれました。

だから言います。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

ルカ 22章

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)

失敗は終わりではありません。

イエス様はペテロをはじめ弟子たちが皆、自分のことを裏切ることを知っていました。

「あなたがたを」(31節)とあるように、ふるいにかけられたのはペテロだけではありません。

弟子たち全員です。

イエス様は「そんな弱い信仰ではダメだ」と責めたのではなく、

信仰がなくならないように祈りました。

と言いました。

事実、ペテロがイエス様を裏切った時、

主は振り向いてペテロを見つめられた。」(61節)

とあります。

それは、忘れられないほど、憐れみに満ちた眼差しだったのだと思います。

立ち直ったら、他の兄弟たちを励ますように

と言われたイエス様は、今も、私たちが信仰を失わないように祈られ、私たちが励まし合うことを願っています。

ルカ 21章

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(21:34-36)

イエス様はこの世の終わりを明言されました。

「その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。」(35節)

私たちは、その日がいつ来ても大丈夫な生き方を心がけるよう求められています。

「放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされ」

ているならば、目を覚ましているとは言えません。

私たちは天で神のみこころが行われているように、この地上で神のみこころを行うために生きています。

神のみこころは、祈ることなく行うことはできません。

日々、

「御国が来ますように」

と祈る姿勢が大切です。