マルコ 8章

「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。」(8:2)

今日の箇所で、イエスは群衆が食べるものがないことに同情してこう言います。

この群衆に対して、私は腸のちぎれる想いがする。」(岩波訳)

イエスは、私たちが様々な問題に直面している姿を見て、「腸のちぎれる想いがする」と言われるお方です。

イエスは私たち一人一人のことを、心にかけていてくださいます。

三日間、教え続けただけでなく、その後、人々の具体的な必要を満たされました。

極端な人は「「食べ物」なんて、この世的なものは、どうでもいい」と言います。

しかし、イエスが主の祈りの中で

私たちの日ごとの糧(必要な糧)を、今日もお与えください。」(マタイ6:11)と祈るように教えられたように、イエスは私たちの日常の必要も気にかけておられます。

群衆は食べて満腹した。」(8節)とあるように、必要を全て満たしてくださいます。(ピリピ4:19参照)

マルコ 7章

「するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」」(7:27)

イエスのこのギリシヤ人の女の人に対する対応は、本当に冷たくて、私たちがイメージするイエスらしくない対応だと思います。

私たちが知らなくてはいけないことは、イエスは単なるミラクル・パフォーマー(奇跡を行う人)ではありません。

イエスの奇跡が意味したことは、旧約聖書で約束されてきた神の国がもたらされるということでした。

だから、今日の箇所で「まず」という言葉が示すことは、ユダヤ人以外の異邦人の時はやがて来ますが、今は、ユダヤ人への使命が優先しているということです。

イエスは、単に、奇跡を行うためではなく、聖書が預言した通りに、まず、「ユダヤ人の王」として、全ての人の救いのために死ぬために来られました。

マルコ 6章

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(6:50)

イエスは今日も

しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。

と、おっしゃられます。

私たちは、弟子たちと同じように、数々の主の恵みを忘れ、不安や恐れという向かい風のために漕ぎあぐねているように感じることが多々あります。

そんな時は、イエスを認識することも、存在を感じることもできないかもしれません。

弟子たちは、イエスを「幽霊」(49節)と思ったとあります。

幽霊と訳された単語は「ファンタジー」(空想、幻想)の語源となった言葉です。

人生の嵐の中で、イエスの存在が、空想話のように感じてしまう、たわごとのように感じてしまう、そんな時があると思います。

それでも、イエスの存在を認め、歓迎する時、風はやみ、前進する自分を見ることができます。

マルコ 5章

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(5:34)

この女性は儀式的に穢れた状況でしたので、公の場でイエスにお願いすることはできませんでした。

しかし、本来ならばイエスへ近づくことを妨げる群衆が、彼女にとっては、逆に知られずにイエスに近づくことができる助けになりました。

「さわることによって癒される」ことは奇妙な現象です。

しかし、ここに大事なメッセージがあります。

群衆のような問題が押し寄せてきていても、イエスの後ろにいくスペースはあり、手を伸ばして、さわることができるというメッセージです。

「恐れと信仰」が混ぜ合わさった中でも、手を伸ばし、イエスに触れる時、神の力が解き放たれます。

もちろんイエスの力が彼女を救いました。しかしイエスは、どんなに私たちの信仰が弱くても、【信仰】が神の力と私たちをつなぐと言われます。

マルコ 4章

「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。」(4:35)

キリストと共にある人生に、波風が立たないとは、聖書は約束しません。

そもそも弟子たちはイエスの「向こう岸へ渡ろう」というみことばに従って船出したのです。

波風が立っているのは神のみこころに逆らっているからではなく、従っているからかもしれません。

しかし、イエスと共にあるならば、イエスがそうされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して枕をすることができます。

なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。

そして驚くことに、神は私たち一人一人を愛しておられ、気にかけておられるからです。

イエスが「何とも思われないのですか。」という弟子たちの問いかけに、応じられたという意味は、私たちのことを、思われているということ以外の何ものでもありません。

マルコ 3章

「人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」(3:2)

パリサイ人たちは、自分たちの思い通りに動かないイエスにいらだちを覚え、訴える口実を見つけようと企んだと言います。

ここでいう「訴える」とは、「責める」という意味です。

イエスを「責める」ために、口実を見つけようとしたと言うことです。

誰かを「責める」という行為の背後には、サタンの力が働いているというのが、聖書的な理解です。

なぜならば、この「責める」という言葉こそヘブル語の、サタン」という言葉なのです。

サタンの力が働いているから、誰かを責めるために貶めようとするのです。

不信感を与えたり、仲たがいさせたり、サタンは巧妙です。

サタンの目的は、人々が責め合って滅ぼしあうことです。

聖書は、責め合うのではなく、赦し合おうと言います。

責め合うことは、サタンに欺かれていることであり、サタンの策略にのってしまっていることだからです。

マサダのナツメヤシ

とても興味深いニュースが飛び込んできました。イスラエルの死海近くにあるマサダの遺跡(世界遺産)から発見されたナツメヤシの種から実を収穫した、というものです。ちょうど来月、ユースを対象にした講義でマサダをテーマに準備をしているので、これは導きだ!とますます準備に熱が入りそうです。なぜこんなに興奮しているのかというと、発掘された場所は今から約2000年前、ちょうどイエス様の時代とほぼ重なるところだからです。もともとイスラエルは良質なナツメヤシの産地として知られていたようですが、何せ2000年も前のもの、芽が出るなんてすごいことだと思いますしさらにたくさんの実をつけるに至るなんて!イエス様は御言葉を「種」にたとえて語られました。いのちの「種」をあきらめずにまいていきましょう。どんなに時間が経っていようと、種が生きている限り、そこに希望があります。近い将来、実際にこの奇跡のナツメヤシを見ることができればと 夢見ています。
(小山晶子牧師夫人)

マルコ 2章

「ですから、人の子は安息日にも主です。」(2:28)

弟子たちが穂を摘んだという行為は、当時は珍しい光景ではありませんでした。

食物を買うことができない貧しい人たちが、麦の穂を摘んで食べることは律法(レビ19章)で規定されていた権利だったからです。

イエスの弟子たちの行動は貧しさのゆえでした。

イエスがダビデ王の例を挙げたのも、「『空腹で我慢できなかったこと』をあなたは責めるのか」と言っているようです。

問題は安息日だったことですが、パリサイ人たちは責めるのではなく、助けるべきでした。

聖書を規則書のように扱い、ただでさえ困難の中にいる人を、さらに断罪していこうとする、当時の宗教指導者たちに、イエスは視点の転換を迫ったのです。

原文は、「安息日でさえも主」とも訳せます。

人類を抑圧するどんな規定よりも、イエスは権威があるということです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マルコ 1章

「シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。」(1:30,31)

シモンはペテロ(ケファ)のことです。

ペテロが結婚していたことはパウロの発言からもわかります。

私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」(1コリント9:5)

ペテロの妻がいつキリスト者になったかは記されていませんが、この直前に漁師だったペテロにイエス様は言いました。

わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。

それに対してペテロは「すぐに網を捨てて、イエスに従った。」(18節)。

ペテロの姑が、心配になって熱を出したのかどうかは分かりませんが、イエス様はそばに近寄り、手を取って起こし、彼女を癒されました。

そして彼女も奉仕者となります。

マタイ 28章

「御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」(28:5,6)

多くの人たちはイエス・キリストを過去の偉人として、墓の中に、歴史の中に捜します。

しかし天使たちは言います。

ここにはおられません。

イエス・キリストは死の力を打ち破ってよみがえられました。

今、生きておられます。

天においても地においても、すべての権威が与えられ」(18節)たイエス様は、今、大宣教命令を遂行するキリストの教会と「世の終わりまで、いつも」(20節)共におられます。

イエス様は、ご自身のキリストの教会と共におられます。

教会に神の臨在があります。

だから教会は「祈りの家」(21:13)と呼ばれます。

ここにイエス様がおられます。