マルコ6:6-29

「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」(6:12,13)

弟子たちは「悔い改めを説き広め」ました。「悔い改め」とは、自分の過ちを悪かったと悔いるだけの話ではありません。その人の態度、考え方を変えることを意味します。つまり自分の価値観を、神の国の価値観に変えることを弟子たちは説き広めました。神がもたらされる新しい働き、神の国の現れには、自然の法則を超えた、超自然の世界があります。私たちはイエス・キリストのみ名によって、悪霊を追い出し、病人を癒すことができます。「大ぜいの病人に油を塗って」とありますように、神は私たちができるだけ多くの病人のためにいやしを祈ることを願っています。もちろん、病人をいやすのは神の役割です。私たちの役割は、祈ることです。

マルコ5:21-6:6

「イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」」(6:4)

イエス様の兄弟たちは、皆、イエス様を信じていませんでした。しかし、後に、彼らは皆、初代教会において中心的な役割を担う者となっていきます。私たちは、神がこの時代のこの世界で何を行われているかという大きな視野と、個人個人に働かれている小さな視野の両方が必要だと思います。イエス様の兄弟のヤコブも、最初は福音に反対していましたが、神の恵みによって、信仰と祈りの人となりました。彼こそ、後に、エルサレム教会の牧師となり、新約聖書のヤコブの手紙を書いた人です。神様は、世界全体にも働かれていますし、私たち一人一人の人生にも働かれているお方です。私たちは、目に見える現実に縛られずに、信仰の目を上げていく必要があります。

マルコ4:30-5:20

「イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」」(4:40)

イエス様は、イエス様がそこにおられるのにも関わらず、恐れる弟子たちに言いました。

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

イエス様は、

「これだけ、神の御国の現れを体験していて、まだ、信じられないのですか?信頼できないのですか?」

と弟子たちに問うたのです。イエス様が乗っていても、嵐が起こりました。残念ながら、キリストと共にある人生に、波風が立たないとは、聖書は約束しません。しかし、イエス様がされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して、枕をすることができます。なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。イエス様が弟子たちの問いかけに応じられたという意味は、私たちのことを思われているということ以外の何ものでもありません。

マルコ3:31-4:29

「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」(4:27)

今日の箇所を直訳すると、

「寝て、起きて、夜で、朝で、種は芽を出し、成長する、どのようにしてかは、彼は分からない。」

となります。ユダヤ人の一日は、日没から始まります。ですから、起きる前に寝ます。朝の前に夜なのです。朝の前に夜が来るように、誰の人生にもマイナスに見える出来事は必ず起こります。しかし、それは悲劇の始まりではなく、神の御業の始まりです。マイナスは必ずプラスになります。どのように成長するかは分かりません。どのようにプラスになるかは分かりません。しかし、神はすべてのことを働かせて益として下さる神です。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マルコ2:18-3:30

「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(3:14,15)

悪霊問題は人間としてあるべき生き方ができなくなるところにあります。ですから「悪霊を追い出す権威」とは、

「人間らしさの回復」

をもたらす権威です。「福音」は「神の御国」によって「人間らしさの回復」をもたらします。人はあたかも「自分が神」かのようにふるまうことによって、「人間らしさ」を失いました。ですから、人間性、「神のかたち」を回復できるように、イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。今、誰でもイエス・キリストを信じることによって人間らしさを回復することができます。弟子たちに、そして今、信じる者たちに与えられた権威は、キリストの十字架によって完成するこの「神の国」の権威です。

マルコ1:29-2:17

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」(1:41)

「わたしの心だ」

と訳された単語は、

「みこころ」

とも訳される単語です。

神のみこころは病気がいやされることです。

神ご自身がこう言われます。

「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出15:26新改訳二〇一七)

もちろん、それはヨブ記が示すように自分が何か罪を犯したから病気になっているという意味ではありません。イエス様もこう言っています。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです。」(ヨハネ9:3新改訳二〇一七)

ただ使徒ヨハネはこう書いています。

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(3ヨハネ2新改訳二〇一七)

私たちはイエス様のみこころを自分の思いとして病気の癒しのために祈っていきましょう。

マルコ1:1-28

「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(14,15節)

イエス様が宣べて言われた福音とは、神の国、神の支配の時が来たから、神様に立ち返ってこの知らせを信じなさいということです。今こそ神を信頼し、神のメッセージに生きなさいと言われました。これは世界観の転換への呼びかけです。自分中心の世界観から、神中心の世界観へ転換しなさいと言われているからです。イエス様はまさに神の支配とはどういうことかを教えられました。数々の奇跡によって現わされました。神の国はすでに現わされました。そして、イエス・キリストが再び来られる時に、完全に現わされます。その日まで、私たちはすでに神の国の民として、まだ刷新されていないこの世界で生きることが求められています。

マタイ28:1-20

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(19,20節)
十字架の死と復活によって、罪と死の呪いを退け、天においても、地においてもいっさいの権威を授けられたイエス様は、救いの御業の完成としてあらゆる国の人々で構成される教会を形成するように命じました。「弟子としなさい」と言うように、教会はイエス様の言葉に生きる神の民のことです。私たちは聖書のみことばの全体を守るように教えられる必要があります。ですから、教会の使命は宣教し、教えることです。教会は復活の主がいつも共にいる共同体であることを忘れるべきではありません。

マタイ27:45-66

「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(46節)

イエス様の叫びは詩篇22篇の引用です。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(1節)

詩篇22篇を読み進めますとこの詩が単なる嘆きの詩ではないことが分かります。詩人は言います。

「主は、私の絶望の底からの叫びをさげすまれなかった。背を向けて立ち去ることはなさらなかった。叫び声が届くと、主は助けに来てくださった。」(24節LB)

見捨てられたように思えたその場所に主は確かにおられ、私たちの絶望の底からの叫びを主は聞き、必ず助けに来てくださると言います。イエス様の十字架は絶望の底であると同時に希望の始まりでした。主は今、生きておられます。主は私たちの祈りに答えてくださいます。

マタイ27:11-44

「また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。」(37節)

イエス様の罪状書きは

「ユダヤ人の王」

でした。まさにそれはイスラエルの民を代表して死なれたということです。神はイスラエルの民を諸国の民の光とするために選び、いのちとのろいの契約をしました。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(申28:15)

イスラエルの民は主の御声に聞き従わず、のろわれた者となり、諸国の民の光どころか捕囚の民となってしまいました。しかし、神のご計画はとん挫しません。イエス様が十字架でイスラエルの民を代表して、罪の呪いを受けてくださいました。ですから今、誰でも、イエス様を信じる者は罪に定められることはありません。