ヨハネ 5:19-29

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:25)

「神の子」の声を聞く者は生きる、永遠のいのちを持つと言います。

「今がその時です。」と言われますから、イエス様が与えられる「永遠のいのち」は、単に、死後の話ではないということが分かります。

つまり、今この時、イエス様を信じる者のうちに永遠のいのちは始まり、死んだ後には、復活のからだでその永遠のいのちに生きるということです。

「永遠のいのち」は、「神の子の声を聞く時」にある現実です。

それは、聖書の御言葉に耳を傾ける人のうちにある現実であり、聖書の御言葉に耳を傾ける人々のただ中にある現実です。

ですからイエス様は言われました。

「聞く者は生きます。」

「永遠のいのち」をもっている人、復活の命を体験している人は、今、この時、「神の子の声を聞く」のです。

「神の子の声」、それは、聖書の御言葉です。

ヨハネ 5:1-18

「イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」」(5:8)

聖書の御言葉に生きようとするときに、誰もが葛藤を体験します。

聖書のみことばはイエス様の言葉のように天に属する言葉、新しい創造をもたらす言葉です。

しかし、私たちはこの地上、古い創造の常識の中に生きています。

ですから、聖書の御言葉を読んでも、「そんなことはあり得ない」と葛藤が起こります。

しかし、今日の箇所で私たちが学ぶべきことは、このベテスダの池にいたこの人が、イエス様の御言葉に従ったという事実です。

そして御言葉に従った時、彼は奇跡を体験しました。

神の御言葉に生きる時、私たちは奇跡を体験します。

私たちはこの地上の常識に縛られないように気をつける必要があります。

神の奇跡を体験するためには、聖書の御言葉に、自分の常識を一新させる必要があります。

そのために、私たちは日々聖書の御言葉を読み、聖書の御言葉に自分の思考を刷新する必要があります。

ヨハネ 4:43-54

「イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(4:50)

王室の役人ということは、当時のガリラヤの領主だった、ヘロデ・アンティパスに仕えていたということだと思われます。

この役人は地位も名誉も富も持っていました。

しかし、彼はそれら全てを投げ打って、イエス様のところに行き、息子を癒してくれるように願い求めました。

イエス様に対して口論することも、言い訳もすることなく、ただ、イエス様の存在を求めました。

それに対して、イエス様は言われました。

「あなたの息子は生きています」(直訳)

イエス様は彼に病気が癒やされた証拠を与えたわけではありません。

ただ、「言葉」だけを与えました。

しかし、彼はそのイエス様の「言葉」を信じました。イエス様の言葉が彼の信仰を形造りました。

神は聖書をよく読み、神の御言葉を信じ、神のみこころに生きる人を求めています。

ヨハネ 4:27-42

「そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」(4:41)

「多くの人々がイエス様を信じた」

これを私たちはリバイバルと呼んでいます。

まず、サマリアの人々は、サマリアの女の証言によって、イエス様を信じました。

「証」は人々をイエス様に引き寄せる一番のツールです。

自分が体験したことを、他者が否定することはできないからです。

さらに多くの人がイエス様を信じた理由は、イエス様のメッセージを直接聞いたからだと言います。

信仰は聞くことから始まります。聖書は言います。

「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)

人はどうやってイエス様のメッセージを直接聞くことができるのでしょうか?

イエス様のメッセージは聖書から直接聞くことができます。

一人でも多くの人が、聖書を開いて、イエス様のメッセージを直接聞くことができますように。

スノーボールクッキー

明日の新年聖会でのHOPカフェのために日曜日午後スノーボールクッキーを作ることにしています。

ホロホロと口の中でほどけていく優しい甘さが大好きで今回チャレンジしてみることにしました。

色々とレシピを見ているとシンプルな材料、シンプルな作り方なのに、それでも人によって違っていることが多くて混乱しています。

たとえば小麦粉を使う人もいれば米粉を使う人。

バターをたっぷり使う人もいればサラダ油でいいという人。

粉砂糖を使う人もいれば普通の砂糖で良いと言う人。

アーモンド粉を入れると言う人、使わないと言う人。

中に胡桃を砕いて混ぜる人。

最後に粉砂糖をまぶしてしまえば見た目は同じなのですが、どうすれば1番美味しい理想的なホロホロ感になるのかが、結局のところ作ってみないとわからないのです。

見ているだけ、読んでいるだけではなく実際に体験しないとわからないのは聖書の御言葉も同じだなあとふと思いました。

読んでいたら実行したくなる。

実行してみたら味わってみたくなる。

味わったらもっと深めたくなる。

さて、試した結果当日どのレシピになるのかは、どうぞお楽しみに!

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 4:15-26

「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(4:24)

サマリヤの女は、自分が混乱した人生を歩んでいるのは、

「礼拝をする場所がどこか分からない、何をどう理解したらいいか分からない」

ということにあったと考えていたのだと思います。

結局、人は何を信じているかが、人生に影響を与えます。

問題はサマリアの人たちのように、聖書の一部だけを信じ、全体を拒絶する時、神が何を本当に求めておられるか分からなくなってしまうということです。

どんなに誠実でも、誠実に間違っているということもあり得ます。

イエス様は、はっきり言われました。

「神は霊であり、御霊と真理の領域で神をあがめる誠実な礼拝者を神は切望しているからです。」(24節TPT)

神が求めておられるのは何よりも礼拝者です。

私たちはそのことを間違えないように気をつける必要があります。

今日は主の日、共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 4:1-14

「イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」」(4:13,14)

サマリアの女の質問とイエス様の答えは噛み合っていません。

しかし、イエス様の発言は、明らかにサマリアの女の心を掴みました。

私たちはイエス様のこの発言を見るときに、重要な点に気づかされます。

私たちは具体的な必要に応えるような実践的な話でなければ人の心は掴めないと思ってしまいます。

しかし、神の言葉には力があります。

いのちがあります。

人は、命のない、干からびた、単なる知識、力のないことばを欲しているわけではありません。

命を与える聖霊のことば、いのちのみことばを求めているのです。

私たちは大胆に、時が良くても悪くても、いのちの御言葉を宣べ伝える使命があります。

ヨハネ 3:22-36

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:30)

バプテスマのヨハネは自分の役割をよく理解していました。

28節をLBではこのように訳しています。

「私の役目は、だれもがあの方のところへ行けるように道を備えることです。私はキリストではないと、はっきり言ったはずです。あの方のために道を備えるために、私はここにいるのです。」

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを指差しました。

これがキリスト教会のあるべき姿です。

キリストがますます偉大になり、自分はますます小さくなる。

私の大好きな賛美の中に、LeelandのHoly Spirit Have Your Way(聖霊様、あなたの御心のままに)という賛美があります。

その中に、こんな歌詞があります。

More of You and less of me.

「もっとあなたを。そして、私を減らしてください。」

私たちは、このような姿勢が大事だと思います。

「私が」ではなく「イエス様が」もっと主語になるように、それが祈りです。

ヨハネ 3:10-21

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(3:14)

「モーセが荒野で蛇を上げた」という内容は民数記21章に出てきます。

「青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた」(民数記21:9)

とあります。

ニコデモとイエス様の会話は「新しい命」「新しく生まれること」ですが、その方法をイエス様はここで告げられました。

イエス様も「上げられなければなりません」と言う意味は、明らかに、これから十字架にかかり、死ななければならないということです。

呪いの蛇が掲げられたように、呪いの十字架にかけられることによって、私たちの罪の呪いを、イエス様が代わりに受けられたということです。

人は、私たちの罪のために十字架に上げられたイエス様を仰ぎ見るならば、すなわち「イエス様の十字架は私のためだった」と信じるならば、罪赦され、「新しく生まれる」ことができるということです。

ヨハネ 3:1-9

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(3:8)

「風は思いのままに吹きます」を、文語訳では「風は己が好む所に吹く」と訳しています。

「風」とは聖霊様のことです。

聖霊様には人格(ペルソナ)があり、好みがあるということです。

聖霊様が好むところと好まないところがあるということです。

聖書が教えていることは、聖霊様が好むところは愛と赦しが満ちているところということです。

聖霊様が好まないところとは、怒りと憎しみが満ちているところです。

風は私たちが知ることができるレベルを超えていますが、その与える影響は明確です。

同じように、聖霊様の働きも明確です。

ですから、聖霊様に好まれることを心がけることが大切です。