ルカ 18章

「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」(18:1)

聖書は明確に、絶えず祈り、祈ることをやめてはいけないことを教えています。

神は私たちの祈りを聞き、私たちの祈りを用いられるお方だからです。

裁判官とやもめのたとえ話は、たとえ話のゆえに大袈裟に描かれています。

裁判官の道徳的な問題に引っかかってはいけません。

たとえはたとえでしかないからです。

大事なポイントはやもめのようにあきらめないことです。

イエス様は言われました。

「ただ問題は、メシヤのわたしが帰って来る時、いったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているかです。」(8節LB)

私たちはこの世の常識に打ち負かされて、神への期待を失い、祈ることをあきらめていないでしょうか。

今は恐れの時ではありません。

信仰の時です。

いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しましょう!

ルカ 17章

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」」(17:20,21)

「神の国」とは、神の支配、統治を意味します。

パリサイ人たちは、もうすぐ神が自分の民を異教徒の支配から救い出し、神が治める独立国を立て直してくださるという希望を持って、国家的刷新運動を繰り広げていました。

イエス様はそんなパリサイ人たちが考える「神の国」理解を一蹴しました。

「あなたがたのただ中にある」と、

今この時、

互いの間に神の支配、統治を認めることが大切だと諭しました。

神の国は、神の支配を認める人たちのただ中にあります。

私たちは生ける神が統べ治めておられることを宣言し、人々が神の統治を受け入れることができるように祈り求めましょう。

ルカ 16章

「するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。」(16:25)

金持ちとラザロの話はたとえ話であり、金持ちは地獄に行き、貧しい者は天国に行くという話ではありません。

人はイエス・キリストを信じることなしに天国に行くことはありません。

このたとえ話のポイントは、生前の社会的立場が、死後反転しまうというパラダイム転換によって現状を考えさせることです。

そもそも、人は生まれた場所や状況によって立場が違います。

ですから、今、自分が与えられた立場や富を全て自分の努力の結果とし、当然受けるべきものとするべきではありません。

死後の世界で全く別の環境に置かれたならばどうでしょうかとイエス様は問うのです。

ですから、私たちの社会にいるラザロを無視することなく愛の行動が求められます。

ルカ 15章

「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(15:32)

放蕩し帰ってきた弟のために祝宴を設けた父に対して兄は言いました。

「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」

兄は弟とは呼びませんでした。

それに対して父は「おまえの弟は」と正されます。

「何を言っている。わたしの息子であると同時に、おまえの兄弟ではないか!」

長男は次男を除外しようとしましたが、父はもう一度、次男を長男に受け入れるように和解を勧めます。

ある学者(フィー)はこう言います。

「父および失われた息子と喜びを共有しないなら、自分を正しいと考えている人は自分が正しくないことを明らかにしているのです。」

父なる神が受け入れた人を、神の民は喜んで受け入れるものだと言うことです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 14章

「宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。」(14:17)

毎週の主日礼拝は、ある意味で、キリストの宴会に招かれているようなものです。

私たちは、招待客との交わりも楽しみますが、何よりも招待者の臨在を楽しみます。

しかし、この箇所にもありますように、招待に応じるかどうかは一人一人に委ねられています。

自分の都合を優先すれば、他の人が体験しても、自分はその機会を失ってしまいます。

神は恵みに溢れていますが、神の招きに応じずに祝福だけを求めても体験することはできません。

神は招きに応じなかった人を無理強いするのではなく、

「急いで町の大通りや路地に出て行って、」(21節)

へりくだらされ、必要を感じている人たちを招くように主のしもべに命じています。

私たちは、主日礼拝に人々を招く使命があります。

主はすべての人を招待しています。

ルカ 13章

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」」(13:18-19)

イエス様は、自分がしている神の国の働きは、小さなからし種に似ていると言いました。

それはたとえ小さく見えたとしてもやがて生長し、木になるような働きだと。

また、パン種のように、一見、効果がないように見えるけども、全体をふくらませるような働きだと。

一人の人が癒やされること、

一人の人が解放されること、

一人の人が救われること、

それは決して小さなことではありません。

神の国はそのように広がっていきます。

私たちは神様が導かれているその人が癒され、解放され、救われるように、心を注ぎ、祈っていきたいと思います。

ルカ 12章

「五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。」(12:6,7)

アサリオンは当時の一日分の労賃の十六分の一に値します。

五羽の雀がと言う意味は、一羽では値がつかないと言う意味です。

イエス様は人間と雀の価値を比較しているのではありません。

人間が一羽の雀の価値を認めていないように、残念ながら、人から無価値と見なされることがあります。

神がそんな一羽の雀にも価値を認めているように、神の目には私たち一人一人は「高価で貴い」と言っているのです。

私たちの髪の毛の数さえも知っている、気にかけてくださっている神は、私たちを愛し、大切に思っておられます。

ですから、恐れる必要はありません。今は、信仰の時です。

ルカ 11章

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(11:20)

「神の国」は「神の主権が行使されている領域」を指します。

ですから、悪霊が追い出されている現実は、神の主権が行使されていることを表します。

「イエス様の御名」によって祈ることに意味があるのは、「神の国」がすでに、この地に来ているからです。

もちろん、完全な神の国となるのは、この世の終わり、イエス様が再臨されてからの話です。

しかし、イエス様がこの地に来てくださり、十字架で罪の呪いに勝利されたがゆえに、神の国はすでに来ています。

ですから、私たちは神の国の力がこの地に解き放たれるように祈ります。

神の癒しの力が解き放たれるように祈ります。

「神の国があなたがたのところに来ている証拠」(LB)として、神は御業を表して下さいます。

ルカ 10章

「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(10:42)

イエス様を家に迎え入れることの意味をマルタは誤解していました。

彼女はイエス様のメッセージを耳にすることさえしませんでした。

もてなすことを優先したからです。

そして、妹のマリアが聴き入っていたことに文句を言いました。

イエス様の答えは、

必要なことは一つだけ、

それは、

わたしの足元に座って、

みことばに聞き入ること。

それを取り上げてはいけない

イエス様はマルタを愛していました。

マルタの働きも認めていたと思います。

しかし、本当のもてなしは、イエス様のメッセージに耳を傾けることでした。

神が求めているのは奉仕者ではなく、礼拝者です。

信仰は聞くことから始まります。

祈りなくして奉仕はありません。

奉仕することも大切ですが、礼拝を捧げ、御言葉に耳を傾けることがまず優先すべきことです。

ルカ 9章

「しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。」(9:55)

イエス様は「叱る」ことがありました。

8章24節では、風と荒波を叱りつけられました。

4章41節では悪霊どもを叱りました。

もっとも、9章21節も原文では同じ単語ですが、新改訳2017では「戒め」と訳しています。

ですから、感情的に叱っているということではなく、その行為を終わらせる目的で真剣に話すと言う意味です。

イエス様は、弟子たちの次の発言に表される姿勢を終わらせようとしました。

「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)

ユダヤ人と対立関係にあったサマリア人が、イエス様を受け入れなかったことに対して、弟子たちは感情的になり、「滅んでしまえ」となったのです。

このような姿勢は終わらせなければなりません。

イエス様は、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)