黙示録 3章

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(20節)

キリストが戸の外に立ってノックしているとはどんな感じでしょうか。すぐ前の節にこうあります。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(19節)

文脈から考えると、試練は私たちに対するイエス様のノックと考えられます。イエス様は私たちの心の中に入って、一緒に食事をしたいと願っています。それは、人格的、個人的な関係をもちたいと願っているという意味です。しかし、イエス様は土足で私たちの心の中に入ってこられる方ではありません。ですから、ノックしているというのです。そのノックが試練であるならば、試練の時は特に、早く心のドアをキリストに開ける方がいいと思いませんか?

黙示録 2章

「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。―しかしあなたは実際は富んでいる。」(8,9節)

イエス様は苦難の中にいた人々たちに対してご自身を、

「死んで、また生きた方」

と言われました。「死んだ」という意味は、「十字架の死」を意味しています。十字架は私たちの現在の状況に直接語りかける象徴です。十字架の上でイエス様が、「我が神、どうして私をお見捨てになるのですか」と叫ばれた場面は、私たちが日常の中で、「神はどこにおられるのだろうか?」と問いかけるのに重なります。ある神学者はこう言います。

「十字架の下にある人生は、受難の金曜日を、復活の日曜日の光の下で生き、神は苦しみの日にも私たちを放っておかず存在し、不思議で隠されたやり方で存在し、働いているのだと知っていることなのです。」

「死んで、また生きた方」は、見放すことはありません。

黙示録 1章

「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」(10節)

「主の日」とは、イエス・キリストが復活された日曜日のことです。教会ではこの日を特別な日、礼拝の日として定めて、必死で守ってきました。この主の日にヨハネは御霊に感じ、イエス・キリストの声を聞きました。もちろん、毎日、主の声を聞くことができます。しかし、「主の日」にヨハネが主の声を聞いたことにも意味があります。イエス・キリストは、教会を象徴する金の燭台(12節)の真中から語られたとあります。まさに、地域教会のただ中に、イエス・キリストはおられ、語られます。地域教会は世界の希望だと言われる理由がここにあります。それは、教会の真中にイエス・キリストがおられ、今も、聖書のみことばを通して語られているからです。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げ、主の御声に耳を傾けましょう!

ゼカリヤ書 14章

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。」(16,17節)

この箇所は、今の世が終わり、神の国がこの地に実現した後も、

「礼拝は継続される」

ということが記されていると言われます。興味深いことに、礼拝をするために集まりに来る努力を怠るならば、雨の降らない人生、すなわち、潤いのない人生を歩むようになると言います。どうして、聖書はそこまで集まって礼拝するように教えているのでしょうか?それは第一に、

神は私たちの礼拝を喜ばれるから

です。第二に、

私たちが共に神を礼拝する時、私たちは砕かれて、謙遜になるから

です。第三に、

私たちが共に礼拝を捧げるならば、キリストのからだである教会は成長するから

です。敵は破られ、私たちの優先順位は整えられます。

ゼカリヤ書 13章

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(1節)

ジョン・ウェスレーという牧師は、この開かれた泉こそ、「キリストの血潮」だと言います。聖歌の中にこういう賛美があります。

「罪の汚れを洗いきよむるは、イエス・キリストの血潮のほかなし。イエスの血潮、ほむべきかな。我を洗い、雪のごとくせり」(聖歌四四七番)

イエス・キリストは、私たちの罪と汚れをきよめるために、あのカルバリの丘の上で、その血潮を流されました。ウェスレーはまた、「エルサレムの住民」とは、福音が語られた人々だと言います。この罪と汚れをきよめる泉、キリストの血潮は、すべての人のために十分なだけ存在しています。一人でも多くの方が、キリストの血潮のきよめを体験できるように、私たちは、キリストの十字架の福音を、一人でも多くの人に伝える必要があります。

ゼカリヤ書 12章

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(10節)

この箇所は、終わりの日、イスラエルの人々の心が神に立ち返るという預言だと言われます。神はイスラエルの人々に聖霊を注がれ、

「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(新共同訳)

イスラエルの人々が、イエス・キリストが聖書が預言していたメシヤであったことに気づくというのです。彼らは、イエス・キリストが「ユダヤ人の王」として十字架の上で死んでくださった意味を悟り、彼らの心は砕かれると。

「恵みと祈りの霊」(LB)

は、今、イエス・キリストを信じる教会に注がれています。恵みと祈りに満ちることができますように。

ゼカリヤ書 11章

「見よ。わたしはひとりの牧者をこの地に起こすから。彼は迷い出たものを尋ねず、散らされたものを捜さず、傷ついたものをいやさず、飢えているものに食べ物を与えない。かえって肥えた獣の肉を食らい、そのひづめを裂く。ああ。羊の群れを見捨てる、能なしの牧者。剣がその腕とその右の目を打ち、その腕はなえ、その右の目は視力が衰える。」(16,17節)

ここに出てくる牧者は、この世の終わりに登場する偽キリストのことと言われます。キリストに反対するのではなく、イミテーションです。多くの人が偽キリストによって養われていると感じますが、実質的には何もありません。黙示録で「致命的な傷」(13章)を受けるとありますが、どんな傷かが記されています。片方の腕が使えなくなり、右の目が見えなくなる。キリストを信じる者は、彼を見る前に天にあげられますが、地上に残されて、この預言の成就を見ましたら、キリストを見上げてください。

ゼカリヤ書 10章

「後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。」(1節)

イスラエルには雨季が二回あります。はじめの雨季は一〇月から一二月にかけてで、これを「前の雨」(ヤコブ5:7口語訳参照)と呼んでいます。もう一つの雨季は四月から五月にかけてで、これを「後の雨」と呼んでいます。この両方の雨季がこの地域の作物の収穫にとても大きな影響をもたらします。「後の雨」は、終わりの日に聖霊が人々の上に下られることを意味していると考えられています。まさに、

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」(ヨエル2:28)

旧約聖書の時代、聖霊は特定の人の上にのみ臨まれました。しかし、今、求めるすべての人に臨まれるという後の雨の時代に、私たちは生きています。ですから、この後の雨の時に、主に聖霊を求めましょう!

ゼカリヤ書 9章

「望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。」(12節)

キリストを信じる者は、キリストが再び来られる(再臨)という希望によって捕えられています。逃れられることはありません。いや、逃れたくありません。私たちが心から願っていることだからです。キリストが再び来られる時、苦しみも、悲しみも、戦いも終わります。キリストが平和と義をもって治められます。この希望に捕らわれている人に、神は倍返しを約束されています。たとえ今、損をしているように感じても、祝福が倍になって返ってくるというのです。私たちは希望が必要です。イエス・キリストのうちに希望をもつことができることは、幸いなことです。

ゼカリヤ書 8章

「万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」(23節)

この箇所はこの世の終わりにキリストが再び来られてから成就する預言の一つだと言われています。その日、もう中東問題はありません。同時に現代に生きる私たちにも意味があります。人々は、神がともにおられるということを聞いて、いっしょに行きたいとすそを堅くつかむと言います。キリスト教会の特徴は、

「教会はキリストの体であり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23新改訳2017)。

もし、人々が、神が教会に満ちておられるということを聞くならば、いっしょに行きたいとすそを堅くつかみ願うことでしょう。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。