哀歌 1:12-17

「これらのことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたからだ。敵に圧倒されて、私の子らは啞然とする。」(1:16)

 エレミヤは涙の預言者と言われます。

ただ、哀歌は共同体的です。

個人的な嘆きが、共同体の嘆きに組み込まれています。

これは哀歌だけでなく、聖書的です。

個人的な苦しみを共同体として共有することは聖書的です。

聖書は言います。

「泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15)

共に泣くことを通して、この苦しみが何かを意味するものであることを人は共有します。

しかし、「私の魂を心配してくれる人が周囲に一人もいない場合」(MSG)、苦しみは意味を失ってしまいます。

苦難に対処するための聖書的な方法は、個人的なものを、集団的なものに変換することです。

ですから教会として、祈祷課題を挙げて共に祈り合うことは互いに重要なことです。

父帰る

実家の父が洗礼を受けることになりました。

およそ2年ぶりの帰省、コロナの影響もあり父の入所している施設に行くのは今回が初めてでした。

母と直接会うのも3年ぶり。

母らしい規則正しい生活の様子を見て安心しました。

初日、宝殿駅から直接施設に行き15分という限られた時間の中ではありましたが近況を語り合い、最後は手を握って祈ることができました。

その時の、父が祈る姿勢やアーメン、と力強く応答する姿にいつもとは違う柔らかくてオープンな空気を感じていました。

これまでは頑なで神様にも心を開かない。

でも聖書の知識や価値観はある、という状態で、わたしが信仰の決断を促しても拒否する父でした。

けれども次の日の面会で母が

「信仰を持って洗礼を受けたら?」

といつものように問いかけると父が

「そうさせてもらおうと思う」

と。

あまりにも自然に応答したので私たちの方が驚いて聞き返してしまいました。

父のこの日のためにどれだけ多くの人が祈ってきてくれたんだろう。

自分の人生に主の主権を受け入れた父の顔は輝いて見えました。ハレルヤ! 

(小山晶子牧師人)

哀歌 1:1-11

「ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。」(1:1)

哀歌のヘブル語のタイトルは、一節の最初の一文字をとって「ああ」です。

これは預言者エレミヤのエルサレムの陥落に対する嘆きです。

「ああ、どうして。にぎやかな街だったのに、ゴーストタウンになってしまった。」

彼は四〇年間、人々に神に立ち返るようにメッセージし続けました。

しかし、人々は彼の言葉に耳を傾けることなく、エルサレムは陥落しました。

哀歌は、一章から四章まで、アクロスティックと呼ばれる、アルファベト詩になっています。

ヘブル語のアルファベットは二十二個しかありません。

二十二個使ったら終わりです。

つまり、悲しみも苦しみも、永遠ではない、必ず終わりがあるということです。

永遠なのは神の愛とあわれみだけです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

テトス 3:1-15

「また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。」(3:2)

神の民のあるべき姿を聖書は明確に述べています。

「侮辱しない、争わない。 神の民は大らかで礼儀正しくあるべきだ。」(MSG)

神は一人一人を異なる人格として造られました。

ですから、互いの違いを認めることは大切なことです。

少なくとも、互いに礼儀正しく接することはできます。

イエス様は言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35新共同訳)

神の民は、キリストの愛によって共に生きることを学ばなければなりません。

それが福音宣教となります。

そのためには、私たちは信仰をもって天を見上げ、愛をもって外を見る必要があります。

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4:32)

テトス 2:1-15

「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」(2:13)

「祝福に満ちた望み」とは、この世界の終わりにイエス・キリストが再び来られる(再臨)ことです。

聖書は言います。

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ペテロ3:9,10)

キリスト教会は2千年の間、キリストが再び来られることを信じて歩んでいます。

少なくとも、2千年前よりも今は、その日に近い時に生きています。

まだ、その日が来ていない理由は、神がだれも滅びることを望まないからです。

だから、福音を伝え、人々が救われることは、神のみこころです。

テトス 1:1-16

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。」(1:9)

今年のリーダーシップカンファレンスの中でアルファのニッキー先生が混合主義(シンクレティズム)の危険性に言及していました。

こちらからメッセージを聞けます。英語です。)

私たちが伝える福音は変わらない聖書のメッセージです。

イエス・キリストのメッセージです。

その時代に応じて包装紙は変えても、中身は変えてはいけません。

私たちは聖書の御言葉をしっかりと守っていなければなりません。

教会は聖書の健全な教えに反対する教えには断固とした態度をとる必要があります。

2サムエル24:15-25

「その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「上って行って、エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」」(24:18)

「アラウナの打ち場」、それは滅ぼす御使いが手を引いた場所でした。(16節)

その場所に祭壇を築くことをダビデは命じられました。

それは、礼拝はすべての人に、王にも要求されているということです。

ダビデが「費用もかけずに、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはない。」(24節)と言ったように、代価なしの礼拝は価値のないものとなってしまいます。

ダビデは正当な代金を払ってその地を買い、いけにえを捧げました。

後日、この場所に神殿が建てられます。

聖書は言います。

主が、この国のための祈りに心を動かされたので、イスラエルへの主の罰は終わった。」(24:25)

2サムエル 24:1-14

「さて、再び主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と。」(24:1)

人口調査をしたことがどうして罪なのか明確に記されていません。

報告が軍事力という観点からされていることから、王の傲慢さの罪だと考えられています。

神よりも兵力に頼ろうとする不信仰な態度が罪とされたと考えられます。

もっとも、「ダビデをそそのかして」とあることから、その背後に民の罪を指摘する学者もいます。

民の罪のゆえに、民を罰するために、ダビデを動かしたというのです。

いずれにせよ、罪は罰を免れることはありません。

だから、イエス・キリストは人となり、十字架にかかり、死ぬ必要がありました。

「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:3)

2サムエル 23:13-39

「三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、」(23:16)

ダビデの勇士たち三〇人のリストです。

ダビデの活躍の背後にはこれらの勇士たちの存在がありました。

偉大な説教者の背後にも、ダビデの勇士たちのような祈りの勇士たちの存在があります。

E.M.バウンズは言います。

「真の使徒的説教者は、自分の伝道に完全な成功をもたらすために他の信仰深い人々からの祈りが必要であることも、パウロの例から分かります。彼は、神の聖徒たちからの助けを必要として、熱く懇願しました。(中略)彼は彼らの祈りがどうしても必要でした。」

祈りは霊的な戦いです。

また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」(エペソ6:19)

部屋の主はだれか

先日は4年ぶりにノリさんとバービーさんと再会。

わたしたち夫婦にとっては20年来の友人でもあります。

お二人には、うちの息子たちと歳の近い娘さんが二人います。

お互いの近況を話していた時、子どもたちが巣立った後の部屋の状態のことで大いに盛り上がりました。

我が家の息子たちは最後まで二人部屋だったのですが、次男は特にリモートでの授業続きだった大学入学から2年間をカーテンをほぼ開けることなく薄暗い部屋でアナグマのような生活をしていました。

ですから息子たちの部屋は薄暗い日当たりの悪い部屋、湿気が強い部屋という印象で、なるべく入らないようにしていました。

ところが二人ともいなくなりカーテンを開けて大掃除をしていたところ、ここがうちで最も日当たりが良く一日中明るい部屋だということがわかったのです。

今はカーテンを開け、窓を開けて夫が書斎として気持ちよく使っています。

賛美と光が溢れる部屋。

同じ部屋がここまで変わるものなのかと驚いています。

私たちの心の部屋も、誰が住んでいるかで全く違うものになると思います。みなさんの心の部屋の主はだれですか?

(小山晶子牧師人)