1サムエル記 29:1-31:13

「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(30:6)

ダビデは人間的な思いで、ペリシテ人に身を委ねてしまい、イスラエルに敵対して戦いに出なくてはいけないというところまで追い込まれてしまいました。神の憐れみによって、彼らはイスラエルの敵とならずにすみましたが、自分たちの町はアマレク人の略奪にあってしまいました。彼の仲間たちはそんなダビデに愛想をつかし、彼を殺そうとしました。まさに、どん底をダビデは経験しました。しかし、ダビデはこのどん底の状態で神を見上げることができ、神からの力と導きを受けることができました。神は時として、私たちがどん底の状態に陥ることを許されます。私たちが神以外の何かに依存しようとする時、神は私たちが神以上に信頼しているものを取り除かれます。「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(口語訳)主によらなければ、私たちはどん底から立ち上がることはできません。

1サムエル記 26:1-28:25

「しかしダビデはアビシャイに言った。『殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。』ダビデは言った。『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。」(26:9,10)

ダビデは再びサウル王に復讐するチャンスが来ました。しかし、彼は自分の手で復讐することを選びませんでした。神の御手に委ねました。これが聖書の教える姿勢です。ローマ書12章にこう書いてあります。

「愛する皆さん。決して自分で復讐してはいけません。復讐は神に任せなさい。なぜなら、神が、『当然報復を受けなければならない人には、わたしが報復する』と言っておられるからです。」(19節LB)

特に神が油注がれた指導者を、私たちが裁くべきではありません。

「教師は、格別きびしいさばきを受ける」(ヤコブ3:1)

とあるように、生ける神の手の中にあるからです。

1サムエル記 24:1-25:44

「彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」(24:6)

サウル王はダビデを殺そうと捜していました。ダビデはサウル王を自分の手で殺すことができる機会が訪れました。しかし、ダビデはそうしませんでした。『砕かれた心の輝き(三人の王の話)』(あめんどう)という本の中で、その理由をダビデはこう語ります。

「彼がしたことをわたしが真似るより、殺されたほうがましだ。王のようにわたしがなるより、王に殺されたほうがよい。結局は彼をおかしくさせた手段を、わたしは選ばない。つまり、決して槍を投げない。憎しみをぶつける先を求めない。わたしは決して復讐しない。今もしないし、今後も絶対にしない。」

サウル王のように憎しみに動かされるなら、自分もまたサウル王のようになります。

1サムエル記 21:1-23:29

「それは何よりです。私に下さい。」(21:9)

箴言29章25節にこういう箇所があります。

「人を恐れるとわなにかかる。」

サウルを非常に恐れたダビデはゴリアテを倒した剣を、

「それにまさるものはない。それを私にください。」(協会共同訳)

と受け取ります。しかし、皮肉にも、剣を手にしたダビデに不安がつきまといます。ちいろば先生こと榎本師は言います。

「彼の心が神から物に移ったとき、神にではなく、物に平安の根拠を求めたとき、彼は不安のとりこになってしまったのである。」

箴言は続けてこう記します。

「しかし主に信頼する者は守られる。」

榎本師は言います。

「しっかりと神により頼もうとするとき、私たちは何ものをも恐れない。しかし、ひとたびその目がこの世の物に移り、ゴリアテのつるぎを『それにまさるものはない』と思うようになるとき、その日私たちは不安のとりこになってしまう。」

1サムエル 19:1-20:42

「彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と言われるようになった。」(19:24)

サウル王のダビデへの嫉妬は、ダビデ殺害への追撃と変わりました。ダビデは預言者サムエルがいるラマに行き、サウル王が自分にしたこといっさいをサムエルに話しました。ダビデに油を注いだのもサムエルですが、サウル王に油を注いだのもサムエルです。どんなに複雑な思いだったでしょうか。サウル王はその知らせを聞くと、殺害の思いに駆られてサムエルのもとに来ました。サウルを王として奮い立たせた同じ主の霊は、その終わりを示すがごとくサウル王に臨みました。サウル王が「着物を脱いで」ということは、王服を脱がされたということです。そして、サムエルの前に倒されました。彼は悪を行うことが出来ませんでした。同じ主の霊が私たちを守って下さいますように。

かなしいおしらせ

微笑ましいツバメ夫婦の巣作りの様子を書いたのはつい先週。日曜日には向かい合って眠っている様子にきっといよいよ巣作りも本格化するのだろうと期待して楽しみにしていました。ところが、月曜日の夜。ツバメ夫婦は帰ってきませんでした。どうしたのだろうと心配になり、火曜日の夜も様子を見に行ったら、オスだけが寂しそうに巣で眠っていたのです。それはそれは悲しい背中で、かける言葉もありませんでした。水曜日の夜も、木曜日の夜も一人ぼっちで眠っています。ツバメ夫婦に何があったのでしょう。巣作りが下手で愛想をつかされてしまったのかな。「あなたはひとりじゃないよ」と伝えてはみたものの、言葉が通じないですよね。ツバメになって励ましてあげたくなりました。でも、イエス様は実際にそうしてくださったんですね。私たちと同じ姿となって地上に来てくださり、滅びの穴から私たちを救い出してくださいました。ツバメを見ながら、神様の愛の深さを感じます。かなしいことに昨晩オスツバメもいなくなっていました。力になれず残念です。 (小山晶子牧師婦人)

1サムエル 17:38-18:30

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(17:47)

有名な少年ダビデとゴリアテの話です。ゴリアテは約三メートルの巨人でした。驚くことは、サウル王をはじめイスラエルの人々が非常に恐れたゴリアテを、少年ダビデは恐れなかったということです。ちいろば先生こと榎本師はこう言っています。

「私たちはここで純粋に神を信じる者と、現実に目を奪われて、神を見失っている者とを見ることができる。」

サウル王もイスラエルの人々も神は万軍の主と信じていたはずです。しかし現実に巨人ゴリアテを見た時、彼らの目は自分対巨人としか見ることができませんでした。ダビデもゴリアテを見ました。しかし彼は全能の神対巨人と見ることができました。その結果、神の力を体験しました。問題を透かして主を見ることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1サムエル記 16:1-17:37

「神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」(16:23)

ダビデは音楽家でした。彼が作った歌は詩篇に残されています。それらは神への賛美の音楽でした。興味深いことは、サウルが悪い霊に悩まされる時、ダビデの賛美の音楽が悪い霊を追い出したということです。賛美には力があります。悪霊は神への賛美が嫌いで、神への賛美に満ちあふれた場所に悪霊はいることができません。なぜなら神は、

「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)

さらに、サウルは賛美の中で「元気を回復」したとあります。口語訳では「気が静まり、良くなって」、新共同訳では「心が安まって気分が良くなり」、協会共同訳では「霊は休まり、良くなって」と訳しています。賛美は私たちに力も与えてくれます。普段の生活の中にも、賛美のCDなどを流すことをお勧めします。

1サムエル 14:24-15:35

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15:22)

メッセージ訳ではこう訳しています。

「神が求めているすべてはいけにえ(ショーのための空しい儀式)だと考えているのですか。神はあなたに聴いて欲しいのです。豪華な宗教的なプロダクションの上映ではなくて、普通に聴くことです。」

スポルジョンという牧師もこう言っています。

「グレゴリア聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。」

聖書のみことばに耳を傾けることはいけにえにまさります。

1サムエル記 13:1-14:23

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(13:11,12)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったことです。サウル王は神のみこころよりも、人目を気にしました。私たちも様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求めて祈る時間を確保する必要があります。