ルカ 15章

「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(15:32)

放蕩し帰ってきた弟のために祝宴を設けた父に対して兄は言いました。

「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」

兄は弟とは呼びませんでした。

それに対して父は「おまえの弟は」と正されます。

「何を言っている。わたしの息子であると同時に、おまえの兄弟ではないか!」

長男は次男を除外しようとしましたが、父はもう一度、次男を長男に受け入れるように和解を勧めます。

ある学者(フィー)はこう言います。

「父および失われた息子と喜びを共有しないなら、自分を正しいと考えている人は自分が正しくないことを明らかにしているのです。」

父なる神が受け入れた人を、神の民は喜んで受け入れるものだと言うことです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 14章

「宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。」(14:17)

毎週の主日礼拝は、ある意味で、キリストの宴会に招かれているようなものです。

私たちは、招待客との交わりも楽しみますが、何よりも招待者の臨在を楽しみます。

しかし、この箇所にもありますように、招待に応じるかどうかは一人一人に委ねられています。

自分の都合を優先すれば、他の人が体験しても、自分はその機会を失ってしまいます。

神は恵みに溢れていますが、神の招きに応じずに祝福だけを求めても体験することはできません。

神は招きに応じなかった人を無理強いするのではなく、

「急いで町の大通りや路地に出て行って、」(21節)

へりくだらされ、必要を感じている人たちを招くように主のしもべに命じています。

私たちは、主日礼拝に人々を招く使命があります。

主はすべての人を招待しています。

ルカ 13章

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」」(13:18-19)

イエス様は、自分がしている神の国の働きは、小さなからし種に似ていると言いました。

それはたとえ小さく見えたとしてもやがて生長し、木になるような働きだと。

また、パン種のように、一見、効果がないように見えるけども、全体をふくらませるような働きだと。

一人の人が癒やされること、

一人の人が解放されること、

一人の人が救われること、

それは決して小さなことではありません。

神の国はそのように広がっていきます。

私たちは神様が導かれているその人が癒され、解放され、救われるように、心を注ぎ、祈っていきたいと思います。

ルカ 12章

「五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。」(12:6,7)

アサリオンは当時の一日分の労賃の十六分の一に値します。

五羽の雀がと言う意味は、一羽では値がつかないと言う意味です。

イエス様は人間と雀の価値を比較しているのではありません。

人間が一羽の雀の価値を認めていないように、残念ながら、人から無価値と見なされることがあります。

神がそんな一羽の雀にも価値を認めているように、神の目には私たち一人一人は「高価で貴い」と言っているのです。

私たちの髪の毛の数さえも知っている、気にかけてくださっている神は、私たちを愛し、大切に思っておられます。

ですから、恐れる必要はありません。今は、信仰の時です。

ルカ 11章

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(11:20)

「神の国」は「神の主権が行使されている領域」を指します。

ですから、悪霊が追い出されている現実は、神の主権が行使されていることを表します。

「イエス様の御名」によって祈ることに意味があるのは、「神の国」がすでに、この地に来ているからです。

もちろん、完全な神の国となるのは、この世の終わり、イエス様が再臨されてからの話です。

しかし、イエス様がこの地に来てくださり、十字架で罪の呪いに勝利されたがゆえに、神の国はすでに来ています。

ですから、私たちは神の国の力がこの地に解き放たれるように祈ります。

神の癒しの力が解き放たれるように祈ります。

「神の国があなたがたのところに来ている証拠」(LB)として、神は御業を表して下さいます。

ルカ 10章

「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(10:42)

イエス様を家に迎え入れることの意味をマルタは誤解していました。

彼女はイエス様のメッセージを耳にすることさえしませんでした。

もてなすことを優先したからです。

そして、妹のマリアが聴き入っていたことに文句を言いました。

イエス様の答えは、

必要なことは一つだけ、

それは、

わたしの足元に座って、

みことばに聞き入ること。

それを取り上げてはいけない

イエス様はマルタを愛していました。

マルタの働きも認めていたと思います。

しかし、本当のもてなしは、イエス様のメッセージに耳を傾けることでした。

神が求めているのは奉仕者ではなく、礼拝者です。

信仰は聞くことから始まります。

祈りなくして奉仕はありません。

奉仕することも大切ですが、礼拝を捧げ、御言葉に耳を傾けることがまず優先すべきことです。

ルカ 9章

「しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。」(9:55)

イエス様は「叱る」ことがありました。

8章24節では、風と荒波を叱りつけられました。

4章41節では悪霊どもを叱りました。

もっとも、9章21節も原文では同じ単語ですが、新改訳2017では「戒め」と訳しています。

ですから、感情的に叱っているということではなく、その行為を終わらせる目的で真剣に話すと言う意味です。

イエス様は、弟子たちの次の発言に表される姿勢を終わらせようとしました。

「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)

ユダヤ人と対立関係にあったサマリア人が、イエス様を受け入れなかったことに対して、弟子たちは感情的になり、「滅んでしまえ」となったのです。

このような姿勢は終わらせなければなりません。

イエス様は、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

ルカ 8章

「イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」」(8:25)

弟子たちはイエス様と共に、湖の向こう岸に渡りました。

イエス様がそう言われたからです。

しかし、その途中で突風が吹き下ろしてきて、水をかぶって危険になりました。

それで、弟子たちは眠っていたイエス様を起こして言いました。

「先生、私たちは死んでしまいます。」

イエス様が起きて風と荒波を叱りつけると静まりました。

イエス様のみことばに従順し、イエス様と共にいても、突風が吹くことがあり得ます。

今直面している試練は、神の御心に反しているからではなく、生きているからかもしれません。

イエス様が導かれたならば、最後まで導いてくださいます。

共におられるイエス様を信頼しましょう。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 7章

「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」(7:7)

百人隊長は自分がひと言命令するだけで部下が動くのだから、神の御子のひと言がどれだけ影響力があるのかをよく理解していました。

それでイエス様に、

「ただ、おことばを下さい」

と言いました。

イエス様はそんな百人隊長の信仰をほめられました。

私たちも、この百人隊長のようなみことば信仰が必要です。

「神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。」(創世記1:3)

と聖書が言うように、神の言葉は無から有を生じさせる権威があります。

聖書の本当の著者は聖霊なる神様です。

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

百人隊長のように、聖書のみことばに対する信仰をもつならば、生ける神の現実を体験することができます。

ルカ 6章

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」(6:45)

聖書は「心」の重要性を強調します。

「何よりも、あなたの心を守りなさい。は生活全体に影響を与えるからです。」(箴言4:23)

健康食品に気をつける人も、心の健康には気をつけない人が多いと思います。

「心の良い倉」とあるように、私たちの心には「良い倉」と「悪い倉」があるようです。

すなわち、心に良いものを蓄えているか、悪いものを蓄えているかと言うことです。

私たちは自分の心を無防備にして、何でもかんでも取り込まないように気をつける必要があります。

自分の心に悪いものであるならば、見ないことを選ぶべきです。私たちは心を守る必要があります。

恐ろしいことに、

「心に秘めたことが、ことばになってあふれ出るからです。」(LB)