ヨハネ 6章

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。」(6:56)

イエス様は、ご自身を「いのちのパン」と呼ばれました。

最後の晩餐の時、イエス様はパンを裂き、弟子たちに与えて言われました。

これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。」(ルカ22:19)

聖餐式の時に、私たちはまさにパンをイエス様のからだとして食べます。

その意味の一つがまさにここにあります。

イエス様のうちにとどまるということです。

聖餐式の時、私たちはパンをイエス様のからだとして、ぶどうジュースをイエス様の血として飲みます。

このことを通して、私たちはイエス様の中にいることを覚え、またイエス様が私たちの中におられることを覚えます。

ヨハネ 5章

「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。」(5:25)

神の言葉には命を与える力があります。

世界のはじまりが神の言葉からはじまったように、神の子、イエス・キリストの声を聞くものは命を得ます。

イエス・キリストの声は、死人にまで届き、命を与えます。

私たちは今、イエス・キリストの声を聖書を通して聞くことができます。

イエス・キリストの声は、聖書を通して、世界中の人々が聞くことができます。

事実、イエス・キリストの福音を聞く者たちは命を体験しています。

だから聖書は言います。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10:17)

一人でも多くの人が、イエス・キリストの声を聞くことができるように、福音を宣べ伝えていくことができますように。

きょうからアドベント!

なんということでしょう。

きょうからアドベント(待降節)に突入です。

アドベントとはイエス様のご降誕を待ち望む期間。

毎年のことですが、この世の方が先にクリスマスツリーの点灯式を行っていることに若干嫉妬しながらも雰囲気を楽しませてもらっています。

ローマ帝国の圧政と傀儡王ヘロデの支配という不安定で暗闇の中にいるような時代にイエス様は人となって私たちの間に来てくださいました。

いまもコロナ禍で先が見通せず不安の中にいる私たちに、光を与えてくださっています。

皆さまはエルサレムキャンドルをご存知でしょうか?

両手にすっぽりと入るほどの大きさで色とりどりの絵が描かれています。

ろうそくに火を灯すと真ん中のろうそくが少しずつ溶けて、周りに描かれた絵が光を透かして美しい発色を楽しませてくれるのです。

「わたし」というそれぞれの人生のキャンドルに、イエス様のあたたかい愛の光が灯り、周りにいる方々を優しく照らしてくれるような、そんなアドベントとなりますように。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 4章

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(4:23)

神が求めておられるのは「礼拝者」です。

パッション訳では今日の箇所をこのように訳しています。

これからは、父なる神を礼拝することは、場所の問題ではなく、正しい心の問題となります。神は霊であり、霊と真理の領域で神を崇拝する誠実な礼拝者を神は望んでおられるからです。

神への礼拝は私たちの好みの問題ではありません。

LBでは、

正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です。

と訳しています。

神が望まれている礼拝者は、聖霊を認め、聖霊を歓迎し、聖霊に導かれて捧げる礼拝者です。

ですから、まことの礼拝者たちは何よりも聖霊を求めます。

神はそのような人たちを求めておられます。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 3章

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(3:5)

「神の国」と聞くと、現代人はすぐに死後の世界を想像してしまうと思いますが、少なくとも当時のユダヤ人教師、ニコデモは違ったと思います。

ローマ帝国の支配下にあった彼らは神が直接支配する「神の国」を待ち望んでいたからです。

しかしイエス様はエゼキエルの預言を示唆します。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」(エゼキエル36:25-27)

ヨハネ 2章

「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。」(2:21)

イエス様の時代の神殿は第二神殿と呼ばれます。

ソロモン王が建築した第一神殿はバビロン捕囚の時に壊されてしまいます。

バビロンから帰還したゼルバベルたちが再建したのが第二神殿です。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。」(20節)という話はヘロデによる改築工事の話です。

旧約聖書と新約聖書の間に、ハスモン王朝と呼ばれるユダヤ人たちが半独立を勝ち取った時代がありました。

その時から神殿はユダヤ民族主義の象徴となってしまったことです。

「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(16節)とイエス様が言われたのは、その場所は、本来、異邦人の庭と呼ばれるユダヤ人以外の人たちが祈るための場所だったからです。

第二神殿も七十年にローマ軍によって破壊されます。

本当の神殿は、神であり人であるイエス・キリストです。

ヨハネ 1章

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

「私たちの間に住まわれた」と訳された言葉は、「幕屋を張られた」という意味です。

旧約聖書の出エジプト記に、イスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒野を旅して約束の地へ向かったことが記録されています。

彼らが荒野を乗り越えることができた理由は、彼らの中心にはいつも、「幕屋」があったからです。

「幕屋」が意味したことは、彼らと共に神がおられるということでした。

出エジプト記にこう記されています。

旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」(出エジプト40:38)。

イエス・キリストは、これと同じように、私たちと共におられるため、私たちの幕屋となるべく、この地にお生まれになられました。

ルカ 24章

「そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」」(24:44)

ヘブル語の旧約聖書は三つの部分に分かれています。

モーセの律法(トーラー)と呼ばれる最初の五書。

ヨシュア記から列王記、イザヤ書からマラキ書までの預言者たちの書と呼ばれる預言書。

そして、詩篇に代表されるヨブ記から雅歌の諸書。

つまり、イエス様が言いたかったことは、旧約聖書が指し示しているのはイエス様のことであり、そして、その全てがイエス様にあって成就するということです。

具体的には46節以下でこのように言います。

次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』

ルカ 23章

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」(23:34)

イエス様は十字架の上で呪いの言葉を語るよりも、赦しを宣言されました。

そんなイエス様の姿は私たちの模範だと聖書は言います。

あなたがたのために苦しまれたキリストが見ならうべき模範となられました。

この方について行きなさい。

キリストは一度も、罪を犯したり、偽りを語ったりなさいませんでした。

侮辱されても、苦しめられても報復をせず、公平にさばかれる神にご自分をお任せになりました。

キリストは、私たちの罪をその身に負って、十字架上で死んでくださいました。

そのおかげで、私たちは罪から離れ、正しい生活を始めることができたのです。

キリストが傷つくことによって、私たちの傷はいやされました。」(1ペテロ2:21-24LB)

ルカ 22章

「主は振り向いてペテロを見つめられた。」(22:61)

ペテロはイエス様に言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(33節)

すべてのご存じのイエス様はペテロに言います。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(34節)

ペテロはイエス様が言った通り、「私はその人を知らない」とイエス様の存在を否定し、鶏は鳴きました。

驚くことは、この時、イエス様が振り向いてペテロを見つめられたということです。

その眼差しはどんな眼差しだったのでしょうか。

責めるような眼差しだったとも思いませんし、がっかりした眼差しだったとも思えません。

もし、そうだったらペテロは立ち上がれなかったと思います。

それは、忘れられないほど、憐れみに満ちた眼差しだったのではないかと思います。

イエス様は今日も私たちを見つめられています。