ルカ 19:11-44

「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(44節)

イエス様はエルサレムが滅びることを預言しました。事実、七〇年にエルサレムはローマ軍によって滅ぼされます。その原因は、人々が

「神の訪れの時を知らなかったからだ」

と言います。どうして、人々は神の訪れの時を認識できなかったのでしょうか?それは、彼らの期待していたものと違ったからです。彼らが描いていたメシア像は、ダビデのように軍事的にローマ(異邦人)の支配からイスラエルを解放してくれる救い主でした。しかし、イエス様は私たちの罪のために十字架にかかることによって、罪と死の力から解放する救い主でした。イエス様は武力による解放ではなく、愛による解放を説きました。敵に復讐するのではなく、愛するように説きました。憎しみに囚われているならば、神の訪れの時を認識することはできません。イエス・キリストにある解放を体験することができますように。

ルカ 18:31-19:10

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(19:10)

エリコの町の人は皆、ザアカイを嫌っていました。なぜなら、

「彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」(2節)

からです。取税人は、ユダヤ人のためではなく、ヘロデ王かローマ帝国のために税金を集めていたので、嫌われていました。取税人たちは、徴収する税金を割り増しして利益を得ていたので、ザアカイが金持ちであることに不快感を覚えていました。しかし、イエス様はそんなザアカイに声をかけました。

「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(6節)

イエス様を自分の人生の主として歓迎する人の人生は変えられます。イエス様第一とする時、人生の優先順位は変えられます。本当の救いは、王なるイエス様を歓迎することから始まります。イエス様の使命は、ただ苦しみ、十字架で死ぬだけではなく、そのことを通して、失われた人を捜して救うことです。

ルカ 18:1-30

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」(18:1)

イエス様が弟子たちに教えたことの一つは、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことでした。あきらめずに祈り続けることを教えたのはイエス様でした。ヘブル書にもこう記されています。

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救いだすことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7新改訳2017)

もっとも、聞きいれられた究極的な祈りとは、

「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)

という祈りのことかと思います。あきらめずに祈り続ける中で、私たちの祈りの方が変えられることがあります。失望せずに祈り続けることによって、聖霊なる神様が私たちの心に働いてくださいます。ですから、祈り続ける必要があります。

ルカ 17:11-37

「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)

神の国とは神の統治、神が支配されることを意味します。イスラエルの人々は神の統治を待ち望んでいました。いつになったらローマの支配を終わらせ、神が支配するイスラエルの独立をもたらすのかとイエス様に尋ねたのです。彼らにとってメシアとは神の国をもたらす軍事的な救世主だったからです。しかしイエス様は言われました。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」(20節)

神の支配は軍事的にもたらされるものではないと言われました。それよりも、互いの間に神の支配を認めることによって神の国は現わされていると言いました。私たち一人一人が、天で神のみこころが行われているように、この地で神のみこころに生きようとする時に、神の国は、私たちのただ中にあります。

ルカ 16:19-17:10

「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』」(16:29)

「モーセと預言者」という表現は、明らかに聖書を指しています。それで、リビングバイブルではこう訳しています。

「それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきだ。」

金持ちとラザロのたとえ話は単なる天国と地獄の話で片づけるべきではありません。私たちはラザロの存在を見ぬふり、知らぬふりをすることはできません。このたとえ話の金持ちのように「生きている間、良いものを受け」(25節)ることだけを求める自分中心の人生が、死後の世界だけではなく、今の世にも滅びをもたらします。私たちは死後の世界だけでなく、今の世にも、神の御国をもたらすために生かされています。私たちは聖書が教えていることを聞くべきです。

今日は主の日。主に、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 16:1-18

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」(15節)

イエス様の当時の宗教指導者たちに対する言動はとても辛辣でした。LBではこう訳しています。

「あなたがたは、人前でいかにも上品でうやうやしい態度をとっています。しかし神は、あなたがたの悪い心をお見通しです。いくら人の目をごまかし、称賛を受けても、神には憎まれるのです。」

聖書は、はっきりと言います。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)

心に関して聖書はこう言っています。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

心は守らなければなりません。私たちの心に何を入れるかも気を付ける必要があります。

ルカ 15:1-32

「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」(17節)

放蕩息子の転機は、

「何もかも使い果たしたあと」(14節)、

「豚の世話」(15節)

をしていて、

「我に返ったとき」(17節)

でした。

彼はきっといろいろな人から忠告を受けていたと思います。彼は聴く耳がなかったんだと思います。しかし、惨めな生活を送る中で、ふと、

「我に返った」

と言います。

私たちの疑問は、どうしたら放蕩息子や放蕩娘が我に返るかだと思います。

アウグスティヌスの母親、モニカの祈りを通りして、アウグスティヌスは我に返りました。祈りの子は滅びません。放蕩息子、放蕩娘が、我に返ることができるように祈りましょう。祈りの子は滅びません。

ルカ 14:15-35

「宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。」(17節)

伝道は、

「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。」

と招くことと似ています。教会の主日礼拝は、主を祝うことですから、盛大な宴会でもあります。問題は、残念ながらこのたとえの人々のように招きを断る人がいるということです。それに対する主の答えは、

「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。」(21節)

ということです。私たちは大通りに出て行って、イエス・キリストの宴会に人々を招くように遣わされています。それらの人々は、問題を抱えているかもしれません。しかし、

「この家がいっぱいになるように」(23節)

教会がいっぱいになるように、私たちは人々を連れてくるように遣わされています。

ルカ 13:31-14:14

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14:11)

神は「バビロン捕囚」という裁きをこのように表現しています。

「神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。」(エゼキエル21:26)

神は、世の中をひっくり返すことを通して裁かれると言いました。イエス・キリストの十字架はまさに世の中をひっくり返しました。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:6)

聖書は私たちにへりくだるように教えます。へりくだり、人々に仕える者が高くされるというのが神の国の原則です。

ルカ 13:1-30

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」」(13:18,19)

からし種が、空の鳥が枝に巣を作るような木になると言うのは誇張表現です。しかし、神の国はそのように超自然的な生長をするというポイントがあります。

「教会は必ず成長する」

という信仰はこのみことばにあります。もっとも、ここに出てくる空の鳥は一般的に否定的な事柄として解釈されます。教会が成長すると同時に、様々な問題の巣ができることもイエス様は忠告していたと言われています。世界的に見ても、日本の教会だけがなぜか成長していないように見えますが、神の御言葉は真実です。必ずイエス・キリストの教会は成長します。