Ⅰサムエル 29章

「すると、ペリシテ人の首長たちは言った。『このヘブル人は何者ですか。』」(3節)

ペリシテ人アキシュと共にイスラエルとの戦いに出てきたダビデたちを見たペリシテ人の首長たちは言いました。「これらのヘブルびとはここで何をしているのか。」(口語訳)ペリシテ人は神に敵対していた人々で、ダビデたちがいるべき側ではありませんでした。ダビデは人間的な思いで敵の中に身を委ねてしまいました。榎本師はこう言っています。「よく日本の社会運動家の先駆者はほとんどキリスト者であったと言われる。ところが、彼らのほとんどは教会にあきたらず、教会から出て行った。・・・出て行った彼らはどうであったか。今日の社会運動界を見るとき、彼らやその流れをくむ者のほとんどはもはやその指導力を失い・・・キリスト者は頑固なまでキリスト者であるところに今日におけるキリスト者の存在の意義がある。」

「いつもキリストの側に身を置くことができますように。」

Ⅰサムエル 28章

「それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、」(6節)

サウル王の問題の一つは待つことができなかったということです。一番最初の失敗も、サムエルを待つことができなかったことから犯してしまいました。今回も、主が何も答えてくださらないと待つことができずに、占いに走ってしまいます。サウルはいつも自分で何とかしようと、神の時を待つことができませんでした。それが彼を滅びの道へと進ませてしまいました。ジョン・ビュンウクという牧師はこんなことを言っています。「苦難の時、それは、私たちが危機を味わう時です。その時、私たちがすべきことは神様の導きを待つということです。苦難の場所に私たちが置かれるその時こそ、神様の導きを求め、忍耐する時です。すべての人々が、そこでひれ伏して祈るべきなのです。」

「焦らずに待てますように」

7月の日曜日 JULY Sundays

1Ⅰサムエル28章 「心の中の隠された怪物(モンスター)」小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式

8日Ⅱサムエル5章 「三度目の正直??」小山英児牧師

9時、10時半、18時

15Ⅱサムエル7章 「神は何をされた、何をしてる、何をする?」 小山牧師

9時、10時半、18時

22Ⅱサムエル23章 「神の勇士とは?」小山英児牧師

9時、10時半、18時(英語礼拝 w/ジョンT宣教師)

Worship Service in English with JohnT Worm at 6pm. 同時通訳あり)

29ガラテヤ1章 「恵みと平安(聖霊に導かれて生きるとは?)」小山牧師

9時、10時半、18時

※  アルファ・コース(キリスト教基礎講座・毎週日曜日12:45から)開催中!

  興味のある方は教会(sakaeshalom@ttmy.ne.jp)に、ご連絡ください。

Ⅰサムエル 27章

「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。』」(1節)

ダビデの失敗は、神ではなく、自分自身に語りかけたことです。結局、彼は混乱して、間違った結論を出してしまいます。彼は敵の陣地で暮らすことを決断してしまうのです。聖書は言います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(ピリピ4:6共)私たちは「すべてのこと」を誰かでも、自分でもなく、まず、神に打ち明けることが大事です。神以外のところにまずもっていくので混乱します。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(同7節口)

Ⅰサムエル 26章

「しかしダビデはアビシャイに言った。『殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。』ダビデは言った。『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。」(9、10節)

  ダビデは再びサウル王に復讐するチャンスが来ました。しかし、彼は自分の手で復讐することを選びませんでした。神様に委ねました。これが聖書が教えている姿勢です。ローマ書12章にこう書いてあります。「愛する皆さん。決して自分で復讐してはいけません。復讐は神様に任せなさい。なぜなら、神様が『当然報復を受けなければならない人には、わたしが報復する』と言っておられるからです。」「悪に負けてはいけません。かえって、善を行うことによって悪に打ち勝ちなさい。」(19、21節LB)特に神が油注がれた指導者を、私たちが裁くべきではありません。生ける神の手の中にありますから。

Ⅰサムエル 25章

「今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たち
の主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこし
まな者ですから、だれも話したがらないのです。」(17節)

ナバルという非常に裕福な実業家がいました。彼は「けちで頑固で、行状もよく
ない」(3節LB)人物でした。彼の一番の問題は、誰も彼と話したがらない、
つまり、彼に『聞く耳がなかった』ということです。CNNの名司会者で有名
だったラリー・キングはこんなことを言っています。「私は毎朝、自分にこんな
風に言い聞かせている。『今日、私が口にすることは、私には何も教えてくれな
い。だから、もし何かを学ぼうとするなら、私は人の話にじっくりと耳を傾けな
ければならない』と。」「我以外皆師」という姿勢は、私たちが「ナバル化」し
ないために重要です。今日、自分に、聖書の御言葉に対する聞く耳があるでしょ
うか?

Ⅰサムエル 24章

「彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」(6節)

 サウル王はダビデを殺そうと捜していました。ダビデはサウル王を自分の手で殺すことができる機会が訪れました。しかし、ダビデはそうしませんでした。有名なジーン・エドワーズ師の『砕かれた心の輝き』(三人の王の話)の中で、その理由をダビデはこう言っています。「彼がしたことをわたしが真似るより、殺されたほうがましだ。王のようにわたしがなるより、王に殺されたほうがよい。結局は彼をおかしくさせた手段を、わたしは選ばない。つまり、決して槍を投げない。憎しみをぶつける先を求めない。わたしは決して復讐しない。今もしないし、今後も絶対にしない。」サウル王のように憎しみに動かされるなら、自分もまたサウル王のようになります。

Ⅰサムエル 23章

「ダビデは言った。『ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。』主は仰せられた。『彼らは引き渡す。』」(12節)

 ダビデは、自分たちのいのちをかけてペリシテ人と戦い、ケイラの人々を救いました。その知らせを聞いたサウル王がダビデを捕まえにケイラに来ることになりました。常識的に考えると、自分たちを救った英雄を裏切るようなことはしないと思ってしまいます。ダビデの賢かったことは、たとえそう見える状況であっても神に尋ね求めたということです。神様はケイラの人々が裏切ることを伝えたので、ダビデは逃亡することができました。祈り求める必要がないほど答えが明白な時ほど、私たちは気をつける必要があります。自分で勝手に結論づけずに、たとえ順調に見えても、常に主に祈り、主の御言葉を待ち望む姿勢が大切です。

「主よ、今日は主の日。どんな時でもあなたに祈り、礼拝できますように」

本日の第三礼拝(18時から)は英語礼拝です。JohnT宣教師のメッセージです。

 

Ⅰサムエル 22章

「また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」(2節)

  ダビデのもとに集まってきた人たちは、問題を抱えた人、不満を抱いていた人たちでした。しかし、彼らがダビデの勇士となります。ハワイのコデイロ先生はこんなことを言っています。「私たちの周りには、若いパウロや短気なペテロや自信のないテモテのような、あるいはプリスキラやマルタ、ルデヤのような人たちが大勢います。しかし、ドリームリリーサーの心を育てない限り、私たちがこうした人々に目を留めることはありません。こうした偉大な可能性を持った人たちは、しばしば見栄えの悪い包みにくるまれていたり、格好の悪い箱に入っていたりします。彼らは問題だらけのように見えますが、ドリームリリーサーはそのような包み紙の中にあるものを見通すことができるのです。」

Ⅰサムエル 21章

「それは何よりです。私に下さい。」(9節)

 箴言29章25節にこういう箇所があります。「人を恐れるとわなにかかる。」サウルを非常に恐れたダビデはゴリアテを倒した剣を、「それにまさるものはない。それをください。」(新共同訳)と受け取ります。しかし、皮肉にも、剣を手にしたダビデに不安がつきまといます。榎本保郎師は言います。「彼の心が神から物に移ったとき、神にではなく、物に平安の根拠を求めたとき、彼は不安のとりこになってしまったのである。」箴言は続いてこう記されています。「しかし主に信頼する者は守られる。」ダビデはこの経験から詩篇34篇を書きました。「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。」(4節)榎本師は言います。「しっかりと神により頼もうとするとき、私たちは何ものをも恐れない。しかし、ひとたびその目がこの世の物に移り、ゴリアテのつるぎを『それにまさるものはない』と思うようになるとき、その日私たちは不安のとりこになってしまう。」