ダニエル書 5:17-6:28

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(6:10)

「習慣は第二の天性」と言われますが、ダニエルは、いつも神の前に祈り、感謝していました。この時、ダニエルは八十八歳ぐらいだったと言われます。彼は、何があっても、この習慣を止めることはしませんでした。なぜなら神との関係こそが、彼の人生の強さであり、安定の基だったからです。たとえそれが死を意味しても、彼はこの習慣を隠すことさえありませんでした。ある牧師は、一日十五分で人生は変わると言います。五分聖書を読み、五分読んだ箇所を黙想し、五分祈る。このような聖なる習慣を身につけることは、私たちの力となります。この後、ダニエルはライオンの穴に投げ込まれますが、奇跡的な守りを体験します。聖書はその理由をこう記しています。

「彼が神に信頼していたからである。」(23節)

ダニエル 4:19-5:16

「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」(4:34)

ネブカデネザル王は一時期、理性を失っていました。彼が

「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(30節)

と傲慢になっていたところ、神は彼から理性を取り去り、彼は動物のようになってしまいました。一定の期間が終わり、彼が天に目を上げ、神がすべてを治めているという事実を認識した時、理性が戻りました。もし、私たちが自分が成し遂げたこと、自分に栄光を帰そうとするならば、それらが私たちをおかしくさせます。しかし、もし、私たちの目を天に向け、ただ神を礼拝し、賛美するならば、理性は戻ってきます。

ダニエル 3:13-4:18

「そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」」(3:24,25)

神は時として私たちを火のような試練の中を通ることを許されます。ペテロの手紙第一には

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」(4:12新改訳二〇一七)

とあります。しかし、火は私たちを縛る縄を焼くだけです。もっとも素晴らしい祝福は第四の者の存在です。受肉前のキリストだと言われます。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が共におられます。

ダニエル 2:24-3:12

「しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。」(2:28)

ダニエルは自分ではなく、神がネブカデネザル王に示されたことを明確にします。ダニエルは、この機会を利用して自分の王国を築こうとはしませんでした。また、夢のポイントも、人間の王国は衰退し、神の王国は永遠に確立するということでした。確かに、歴史を見ても、すべての人間の王国は衰退しました。ローマ帝国も、徳川幕府も、そして、自分の王国も…。神の王国のために成されたものだけが永遠に続きます。私たちは、自分がしていることではなく、神がされていることに視点を変える必要があります。ネブカデネザルの夢は、人間がすることではなく、神がされることに中心を動かすことを目的としています。

ダニエル 1:1-2:23

「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(1:17)

少年たちに与えられた能力が、どこから来たかを覚えることは重要なことだと思います。私たちの能力は、すべて神から来ます。身につけるための努力をする必要がないという意味ではありません。しかし、身につけることができるその環境でさえも神が与えてくださったと考えるならば、あたかも自分の力だけで成し遂げたかのように傲慢にはなれません。(神が与えてくださった環境を感謝し、神の栄光のためにその能力を身につけるために努力することは当然大切なことです。)もし、神からの賜物だと認識することができれば、神にお返しするという意識は当然のことと思います。与えられた能力を、神の栄光のために用いているでしょうか。すべての栄光を神に捧げるため、神は私たちに能力を与えてくださいます。

エゼキエル 47:1-48:35

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(47:9)

この川の源泉は1節、

「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。」

つまり、神の臨在から流れてくる水だと言います。イエス様はこう言いました。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:38,39)

神の臨在はキリストを信じる者たちが集まって礼拝を捧げるその場所に現されます。主は賛美を住まいとされます。ですから賛美が満ち溢れるそのただ中で、いのちの川、聖霊の川が流れます。賛美の時間はただ歌を歌っているわけではありません。

バラが咲いた

今年の母の日に購入した、とても香りのよいバラのことを以前ここでも書いたと思うのですが、秋も深まった十一月も後半にさしかかり、地植えにした苗木からなんと大輪の花が咲いたのです。たった一輪ですが、それはもう見事な大きさとかぐわしい香り。すでに目いっぱい花弁は開いてしまったので日曜日には散ってしまっているかもしれませんが、みなさんにも見ていただきたかったなあと思います。ただ、このバラ、とてもとげが多いのです。しかも小さなとげが花びらの際まであるため、うっかり花を寄せて香りをと思ったらぷすぷすと指に刺さってしまいなかなかの痛さでした。小さな庭の何気ない日常ですが、神様の恵みによって与えられている日々の中で聖書の御言葉を思い起こしています。『栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ神はこれほどに装ってくださるのだからましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。』 (小山晶子牧師人)

エゼキエル書 45:1-46:24

「主の前にはいって来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通ってはいって来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分のはいって来た門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。」(46:9)

「はいってきた道と、出て行く道とは違うのである。帰るときは、来たときとは違う道から帰ることである。礼拝することは神に出会うことであるから、人生観や、世界観が変わってこなければならない。神によって変えられるのである。」(榎本保郎師)

つまり、礼拝するとは、キリストに出会うことであり、来た時と帰る時は変えられるものだというのです。

「しかし、だれでも罪に背を向け、主のほうに向く時、その覆いは取り除かれます。」

「そして、主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。」(Ⅱコリ3:16,18LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 43:1-44:31

「今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。」(43:9)

神殿が意味することは

「彼らの中に住む」

という神の臨在であり、それが、イスラエルの人々が失ったものでした。彼らが神の臨在を失った原因は、神以外のものを神としたことでした。神がどのようなお方か、私たちは聖書を通してのみ明確に知ることができます。ですから、もし、聖書のみことばよりも権威をもつものがあれば、キリストの教会であっても、神の臨在を失う可能性があると言っても過言ではありません。聖書のみことばよりも権威をもつものは、取り除かなければなりません。私たちは、何よりも神の臨在を優先させなければなりません。
「主よ、聖書のみことばを感謝します。
聖書こそ、私たちの信仰と生活の唯一の規範です。

主が、私たちの中に、永遠に住まわれますように。」

エゼキエル 41:1-42:20

「彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。」(41:4)

エゼキエルは、幻によって再建すべきエルサレムの神殿の設計図をいただきました。それは、漠然としたものではなく、非常に詳しく、壮大なものでした。ところがエゼキエルはこの時、捕囚されて、バビロンにいたのです。彼らの状況はそれどころではありません。しかし、神殿は、私たちの可能性の上に建てるものではなく、神の設計図に従って建てるものです。私たちが今建て上げていくべき神の神殿は、教会です。Ⅰコリント3:16には「あなたがたは神の神殿」とあります。教会は私たちの可能性の上に建てるものではありません。私たちは、自分たちの状態がどのようであっても、神の設計図に従って、建て上げていく必要があります。私たちが願うような、私たちが考えるような教会像ではなく、神の設計図に従って建てられなければなりません。