ガラテヤ書 5章

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされ
てしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そう
すれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(15,16節)

ガラテヤの教会は、偽教師の問題がありました。彼らは使徒パウロの使徒職を疑
わせ、パウロが語る恵みの福音を否定し、旧約聖書に記された律法を守らなけれ
ば救われないと教えました。その結果、ガラテヤの教会の内部でパウロの側に立
つ人々と、偽教師の側に立つ人々で対立が起こりました。しかし、パウロは戦う
ことを勧めませんでした。パウロが与えた解決策は、聖霊によって歩むことでし
た。聖霊なる神様に動機付けられ、聖霊なる神様の導きに生きることでした。自
分がどう思うか、自分がどう感じるかと言った自己中心的な欲望に導かれるので
はなく、聖霊なる神様の導きを求めて生きるということでした。「聖霊様、導い
てください。」

ガラテヤ書 4章

「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(7節)

放蕩息子は、子供でなくても、お父さんの使用人の一人であったとしても幸せだということに気づきました。すばらしい主人に仕えることができる奴隷は幸せです。ですから、私たちは神の奴隷でも幸せです。しかし、キリストを信じる者は、奴隷ではなく、子としてくださると言うのです。「神の子」というアイデンティティは、私たちの人生を変えます。神の子として、その特権に感謝して生きているでしょうか?神の子として、その意識をもって一日一日を尊厳をもって生きているでしょうか?何よりも、神の子として、神様を「お父さん」と呼ぶことができるとは、何とすばらしい祝福でしょうか!「天のお父様、イエス様の十字架の御業のゆえに、私を子供としてくださったことを感謝します。神の子としてあなたに喜ばれる生き方ができますように。」

ガラテヤ書 3章

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(3節)

クリスチャンになる唯一の方法は、イエス・キリストを自分の救い主として心に歓迎することです。それ(信仰義認)はまた、聖霊なる神様の働きだと聖書は言います。宗教儀式を積み重ねたり、修行を積むことによって救われることはありません。新興宗教が教えるように、何かをすることによって救われるというのは、聖書が教えている内容ではありません。もし、人間の努力で何とかなる内容ならば、わざわざ神の御子、イエス・キリストは、十字架にかかり死ぬ必要はありませんでした。ですから大事なことは、聖霊なる神様を歓迎し、聖霊なる神様の導きに生きるということです。イエス・キリストを人生の王として認め、神の国の国民として生きることです。

「聖霊なる神様、歓迎します。」

ガラテヤ書 2章

「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(16節)

誰も自分の努力によって義と認められるような、「救いにふさわしい人物」になることはできません。神の基準に達することは誰にもできません。多くの人は自分の悪い行いと良い行いを天秤にかけて、良い行いが勝れば義と認めてくれるということを信じ込んでいますが、聖書にはそんなことは書いていません。逆に、「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。」(イザヤ64:6口)とあります。良い知らせは、私たちは、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(信仰義認)のです!

ガラテヤ書 1章

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(17節)

アラビアとは、パウロにとっての退修の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神様との時間をとるならば、それがアラビアとなります。日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の霊に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。「主よ、あなたとの時間をとります。臨んでください。」

Ⅱサムエル 24章

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24節)

ダビデは神様に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。この場所に神殿が建てられることになります。アラウナは、無料でその場所を提供することを進言します。ただで手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし、彼は言います。「いやいや、ただで受け取るわけにはいかん。ぜひ、売ってもらいたい。神様に、何の犠牲もはらわず、完全に焼き尽くすいけにをささげたりはできんのでな。」(LB)ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲の伴わない、いけにえはありません。神様は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

Ⅱサムエル 23章

「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」(2節)

 ダビデは、詩篇の詩を書いている時、神様が自分を通して語られていることに気づいていました。イエス様もそのことを認めています。

「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』」(マルコ12:36)

神様は今も、聖霊によって書かれた聖書のことばを通して、私たちに語られます。語る時に働かれた聖霊なる神様は、キリストを信じる者の内に住まわれ、聞く時にも働いてくださいます。聖書は言います。

「あなたがたはキリストによって聖霊が注がれている、だからあなたがたはみな真理を知っている。」(Ⅰヨハネ2:20TEV)

「聖霊なる神様、あなたを私の教師として歓迎します。今日も聖書のみことばを通して私にお語りください。いのちのみことばを与えてください。」

Ⅱサムエル 22章

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(30節)

ある注解書でこう訳しています。「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越
えることができる。(WBC)」ダビデは、「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び
越えることができる」と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな
壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁に
ぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒な
ら大丈夫ということを確信していったのだと思います。数年前に召されたリッ
チ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。
「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、
むしろ本当は欲しくない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁
にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱの
ように揺らいでるから。」

Ⅱサムエル 21章

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(1節)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、「特別に時間をかけて祈りました」(LB)。これがクリスチャンのあるべき姿勢だと思います。すべての問題を、何かに関連付ける必要はないと思います。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神様はソロモン王にこう言いました。「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)私たちは神様の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求める必要があります。誰が悪いかと犯人さがしをするのではなく、主の前にへりくだり祈る人が必要です。

Ⅱサムエル 20章

「そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。ダビデはアビシャイに言った。」(5,6節)

 ダビデは、自分に反乱したアブシャロムの軍団長、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命しました。反乱者であっても、ダビデの息子であったアブシャロムをヨアブが殺害したため、ヨアブを避けたのだと考えられます。しかし、アマサは三日のうちに軍を召集する命令をうけたのに、間に合いませんでした。そのため、ダビデはヨアブの弟、アビシャイに任務を与えます。アマサがどうして間に合わなかったのか、理由は記されていません。しかし、チャック・スミス師は、この箇所からこんなことを言っています。「神が命じられたならば、すぐ行動を起こすことは大事なことです。もし、神があなたに何かを語ってるなら、今それをしましょう。」

「主よ、あなたの語りかけに応答することができますように。」