エペソ書 1章

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)

一年の終わりを迎えるにあたって、改めて「教会とは何か?」、心に留めたいと思います。

まず、第一に教会は

「キリストのからだ」

です。「頭」はキリストです。教会は同好会やクラブとは違い、「頭」であるキリストのみこころを行なう集まりです。ですから、「頭」であるキリストのみこころを求めて、祈りつつ、聖霊に導かれて歩む集まりです。神のことばである聖書が最高権威です。

第二に、教会は、

「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」

です。イエス・キリストの臨在が満ちていることが教会を教会とします。神は「賛美を住まいとする」と聖書は言いますから、賛美に満ちている集まりです。キリストが「わたしがわたしの教会を建てる」とおっしゃられたことを覚えつつ、教会のために祈りましょう。

※ 今年一年、共に主の御言葉に耳を傾けることができ、感謝します。主の御名を賛美します。来年もよろしくお願いします。
本日のSSCは23時より年末祈祷会。祈りをもって一年を閉じ、祈りをもって一年をはじめます。
明日(元日)は、13時半より新年礼拝。共に、主に礼拝を捧げることをもって一年を始めましょう!

2列王記 25章

「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」(30節)

列王記の最後の章は、バビロン帝国によるエルサレムの包囲、陥落という悲劇が記されているのにも関わらず、最後の節は、何か希望を与えてくれます。ネブカデネザル王の死後、エビル・メロダク王は、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、親切にし、厚遇しました。

「王は、エホヤキンが生きている間中、毎日の生活費を支給したのです。」(LB)

榎本師はこの箇所に関してこんなコメントをしています。

「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。そのときヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受けとめながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望をもって生きることができるのである。」

2列王記 24章

「彼は主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。主の告げられたとおりであった。」(13節)

バビロン帝国のネブカデネザル王によるバビロン捕囚のことがこの章に記されています。私たちの疑問の一つは、どうしてバビロンの軍勢は簡単に神の神殿を破壊することができたかということだと思います。エゼキエル書11章にその理由が記されています。

「主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。」(23節)

つまり、ユダの国の人々の罪のゆえに、神の臨在はすでに神殿から去っていたと。神の臨在を失った神殿には意味がありません。Ⅰコリント3章にはこう記されています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(16節新共同訳)

教会も愛を失い、神の臨在を失うならば、何の意味もありません。

2列王記 23章

「王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。」(2節)

ヨシヤ王は人々を集め、神のみことばを読み聞かせました。そして、このみことばの読み聞かせが、この章に出てきているヨシヤ王の宗教改革をもたらせました。神のみことばが人々をまことの礼拝へと導いたのです。神のみことばにはそのような力があります。神のみことばは私たちをまことの礼拝へと導いてくれます。聖書は言います。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

私たちは神のみことばである聖書のメッセージをまず聞く必要があります。信仰は、聞くことから始まります。

2列王記 22章

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」(11節)

聖書のみことばは、私たちに行動を求めます。聖書は言います。

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

ヨシヤ王は神のみことばに対して真剣だったので、みことばを聞いた時、心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、主の前で泣きました。そして、祭司たちに命じました。

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。」(13節)

神はそんなヨシア王の姿をご覧になっていました。

今日は今年最後の主の日。私たちも神のみことばの前に襟を正し、みことばに応答していくことができますように。神の前にひりくだり、主のみこころに心を留めることができますように。

2列王記 21章

「また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(6節)

ヒゼキヤ王の息子、マナセは、神を捨てていわゆるオカルトに走ってしまいました。オカルトの問題は、まず、神の怒りを引き起こすものであるということです。そして、それらは悪霊問題と関連し、人々を束縛していくということです。ですから、使徒の働きの中で、使徒パウロたちの伝道によって以下のような出来事が起こったことが記されています。

「また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」(使徒19:19)

彼らは単に不要になったからそのようなオカルトの本を処分したのではなく、それらのものから解放されるためでした。

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5:9)

2列王記 20章

「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。」(5節)

ヒゼキヤ王は重病でした。そんなヒゼキヤ王に神は「あなたの家を整理せよ。」と言われました。この時、ヒゼキヤ王は三九歳だったと言われています。彼は顔を壁に向けて祈りました。3節を見ると、彼は

「大声で泣いた。」

とあります。神はそんな涙の祈りに答えられました。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。」

神は私たちの祈りを聞き、涙も見られるお方です。ですから、イエス様はこの地上でこう祈られました。

「キリストはこの地上におられた時、死から救うことのできるただひとりの方に、うめきと涙とをもって祈られました。」(ヘブル5:7LB)

2列王記 19章

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(14,15節)

エルサレムはアッシリヤの軍勢に囲まれ、ヒゼキヤ王は行き詰まりました。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」

ヒゼキヤ王は、問題を神の前に持っていきました。そして神は、預言者イザヤを通して彼に語り、実際、彼らを守られました。聖書の神は今生きて働かれ、祈りに答えられるお方です。インマヌエル!

※ 本日のSSCは19時よりキャンドルサービス。主のご降誕を共にお祝いしましょう!メリー・クリスマス!

2列王記 18章

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(4節)

荒野を旅していたイスラエルの民が、民数記二一章で、神にぶつぶつ文句を言い始めた出来事が記されています。神が彼らをマナで養っていたのに、彼らは言いました。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5節)それで神は燃える蛇を送り、多くのイスラエルの人々が蛇に噛まれて死にました。モーセは、神が命じられたように一つの青銅の蛇を作り、人々がその青銅の蛇を見上げると、生きました。しかし、イスラエルの人々は、今度はその青銅の蛇を礼拝するようになっていました。神の約束に対する信仰が彼らをいやしたのであって、青銅の彫像物がいやしたわけではありません。道具を崇めていないでしょうか。

※ 本日、JR港南台駅 高島屋前で、キャロリングを行います。

2列王記 17章

「彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。」(34節)

17章は北イスラエル王国の滅亡について記されています。神に背を向け続けた北王国は、アッシリヤ帝国に滅ぼされ、アッシリヤ帝国に連れ去られてしまいます。そしてこの北王国、すなわちサマリアの町々には他国の人々が移住させられました。移住した人々は、神を礼拝する方法を教えられます。しかしそれは、形式的なものだったことが記録されています。信仰生活も、気をつけないと以前からの風習を踏襲するだけの形式的なものに陥る可能性があります。私たちは神が何と語られているか、真剣に、一人一人が神のみことばである聖書に耳を傾け、生ける神に出会う必要があります。伝統や伝承の継承ではなく、生ける神との出会いが求められています。