エペソ 6章

「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」(6:19)

パウロは祈りの支援があってこそ、大胆に福音を語ることができることを知っていました。

使徒の働きはその後のパウロに関してこのようにまとめています。

「パウロは・・・少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:30,31)

神は私たちの小さな祈りを用いて大いなる御業を行われるお方です。

2022年も今日で終わりますが、皆様のお祈りを感謝します。

2023年も、私のためにも祈ってください。

福音の奥義を大胆に知らせることができるように。

語るべきことを、主のために大胆に絶えず語れるよう祈ってください。

エペソ 5章

「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」(5:17)

宮平望師はこのように解説しています。

「キリスト者は、単に『悪い』ものとは反対の良いものを悟るだけでなく、『主の思い』そのものを悟る必要がある。」

考えてみますと、私たちが判断する「良い」「悪い」は、結構、自分の好みが混入します。

文化的、時代的なものもあります。

ですから私たちは、自分のこだわりを主張するのではなく、「主の思い」、「神のみこころ」そのものを求める必要があります。

16節にあるように、「今は困難な時代」(LB)です。

だからこそ、私たちは考えもなしに行動するのではなく、神のみこころを祈り求める必要があります。

そのためにも、父、子、聖霊に、日々、満たされる必要があります。

日々、賛美の歌を歌う必要があります。

日々、感謝する必要があります。

エペソ 4章

「しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」(4:7)

神が一人一人を地域教会に招きました。

招いた一人一人に、それぞれにふさわしい恵みを与えていると聖書は言います。

そして、神がそれぞれに与えた恵みが地域教会を支えると言います。

教会を支えるために必要なものを、集められた一人一人に与えていると言うのです。

鎌野師はこのように言っています。

「教会を支えていくためには、様々な働き人という、神からの賜物が必要です。つまり、あなたの隣に座っている、あなたとは全く異なったあの人は、教会を支えるために、神が備えてくださった素晴らしい賜物なのです。それゆえ、『私とは全く違うあの人が教会にいる。それは神からの賜物だ。祝福だ』と喜び合える者となりたい者です。」

エペソ 3章

「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

自分が経験したこと以上のことを知ることは難しいことです。

ですから、パウロはキリストの愛を体験することができるようにと祈りました。

人はただ祈りを通して、神の臨在の豊かさを体験することができるからです。

キリストの愛、十字架の御業が祝福の扉を開ける鍵です。

人の知識をはるかに超えたということは、人は知り尽くすことはできないということです。

キリストの愛は生涯をかけて知り続けていくことということです。

私たちは皆、その途上であり、教会は互いに忍耐をもって、祈り合い、励まし合い、愛することを学んでいく場所です。

そのようにして、人知をはるかに超えたキリストの愛を互いに理解していきます。

エペソ 2章

「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」(2:18)

聖書は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、聖霊の働きによって、父なる神へ近づくことができると言います。

イエス・キリストが十字架にかかり死なれたことによって、障壁は取り除かれました。

誰でも今、大胆に、聖霊によって父なる神に近づくことができます。

修業を積む必要もありませんし、派手なアピールもする必要はありません。

ただ、「聖霊様、あなたを歓迎します」(Welcome Holy Spirit)、または、初期から祈られてきたように、「聖霊様、来てください」(Come, Holy Spirit)と祈り求めるだけでいいのです。

今は、聖霊の時代であり、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、誰でも、聖霊によって、父なる神の御前に近づくことができます。

生命のあり方の変化、人間自身の変革、それは、聖霊の働きなくしてありえません。

変化をもたらすのは聖霊です。

エペソ 1章

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(1:3)

聖書の神は父、子、聖霊の三位一体なる神です。

父なる神は、キリストにあって私たちを祝福してくださいます。

「すべての霊的祝福」というのは「物質的」な祝福との比較ではありません。

「世俗的」とか、「この世的」との比較でもありません。

キリストを信じる者の内に住んでくださる「聖霊なる神様」によってもたらされるあらゆる祝福という意味です。

フィー博士はこの祝福をこのように解説します。

「神の愛が贖いを始めます。キリストの死は歴史的に贖いをもたらし、聖霊は贖いを信者と信者の共同体の生活に適用します。」

「天上」は神の領域のことですが、神の臨在の中で、聖霊の祝福が解き放たれます。

ルカ 2:15-20

「そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。」(2:16)

有名なクリスマス・キャロルの一つは、「いそぎ行きて拝まずや」と歌います。

それは、今日の箇所の羊飼いたちの言葉であり、

「ぜひ急いで行って礼拝しよう」

という意味です。

「いつか行こう」と思っていると、行きそびれてしまうこともあります。

「善は急げ」とも言いますが、自分の用事よりも、イエス様を礼拝することを優先するというその姿勢が大切であることを、この羊飼いたちの姿から学ぶ必要があると思います。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)

とあるように、私たちはそのようにして神を体験します。

今日はクリスマス。

羊飼いのように「いそぎ行きて拝まずや」と、主イエス・キリストに共に礼拝を捧げましょう。

ルカ 2:1-14

「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)

クリスマスの日、イエス・キリストは宿屋ではなく、家畜小屋で生まれました。

なぜなら、「彼らのいる場所がなかったから」です。

神が人となって生まれるというのに、場所がなかったというのはなんという悲劇でしょうか。

しかし、今も多くの人たちの心には、イエス・キリストのいる場所がありません。

イエス・キリストは言われました。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)

このクリスマス、一人でも多くの人が、キリストに心を開くことができますように。

キリストのいる場所を設け、本物のクリスマスを体験することができますように。

ルカ 1:57-80

「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。」(1:80)

クリスマスを迎える前に、その道備えをしたバプテスマのヨハネの存在を覚えることは大切です。

バプテスマのヨハネは「年をとっていた」(7節)ザカリヤとエリサベツの子どもだったので、早い時期に、孤児となっていたと考えられています。

彼は「荒野にいた」とありますが、荒野で孤児を育てていたクムラン教団にいたのではと言われています。

クムラン教団は死海文書を記したグループで、エッセネ派という排他的な共同体と同一と考えられています。

いずれにせよバプテスマのヨハネはエッセネ派を離脱してますが、神が彼をその使命のために守り、育み、備えられたことは確かです。

幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。」(76,77節)

ルカ 1:39-56

「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」(1:41)

マリアは天使ガブリエルから親類のエリサベツの事を聞いて、

「山地にあるユダの町に急いで行った。」(39節)

とあります。

マリアはイスラエル北部の

「ナザレという町」(26節)

にいましたから、イスラエル南部のユダの町に行くのには、それなりの旅だったことがわかります。

マリアがエリサベツにあいさつをした時、エリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネは躍り、エリサベツは聖霊に満たされたと言います。

神の御言葉に従順して行動を起こす時に、神の祝福は満ち溢れます。

だから、エリサベツは言いました。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45節)

神の御言葉に生きる人は幸いです。

その人は、自分だけでなく、周りの人も満たします。