マルコ 16章

「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

復活されたイエス様は弟子たちに、

全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

と命じられました。

「福音」という単語は元来、皇帝の即位を知らせる知らせのことです。

新たな支配者の到来を告げ知らせるものです。

ですから、全世界に出ていき、私たちはイエス・キリストの支配の到来を告げ知らせるように命じられているということです。

私たちは地の果てまで、神の御国、神の統治を告げるようにと命じられているのです。

それは、キリストの十字架の死、葬り、復活によって示されます。

そして、イエス様は言われます。

わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(17,18節)

マルコ 15章

「そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(15:34)

イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉の一つとして記録されているのが、

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。

これは、詩篇22篇の最初の一節です。

詩篇は当時の讃美歌であり、これを聞いたユダヤ人は22篇全体を思い起こしたと思われます。

22篇はこのように閉じられます。

彼らは来て、生まれてくる民に、主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」(22:31)

つまり、神に見捨てられたかのように見えるこの十字架に神の義が行われていたのです。

それは、「私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)という救いの御業です。

誰でもイエス様を信じる者は救われます。

マルコ 14章

「そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。」(14:14)

最後の晩餐は、過越の食事であった事がイエス様の発言から分かります。

聖餐式の原点が過越の食事であったこともこの箇所から明白です。

過越の食事はエジプトの奴隷生活から神がイスラエルの民を贖い出してくださったことを覚える日です。

それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。」(出6:6,7)

イエス・キリストの十字架は、私たちの過越のため、罪の支配から贖うためでした。

G(ジー)はどこへいった?

8月も終盤となり、夏を惜しむかのように蝉の大合唱が夜遅くまで響き渡ります。

ようやくほっとできる気温となった先週水曜日の夜遅くに、Gは何の前触れもなく英児先生の前に現れました。

「うわああ」というおよそ夜更けには出さない声を聞いて驚き、様子を見に行こうとした次の瞬間、彼は「ジョシュ!ジョシュ来て!」となぜかうちの猫の名前を連呼。

「大きなゴキブリがいる!」というので、慌ててゴキジェットを探して渡そうとしましたが、英児先生は床で寝そべっていたジョシュを素早く抱え、事件現場へと戻っていきました。

結局、まったくハンターの血が騒がなかったジョシュはすぐまた戻ってきて床に寝そべり、仕方なくゴキジェットをGがいそうな場所に噴霧しまくることしかできず不安の中で一夜を明かすことになってしまいました、、、

それにしてもなぜ英児先生はゴキジェットではなくジョシュを信頼したのでしょう、、、

今度是非聞いてみたいものです。

小山夫妻の夏物語、いかがだったでしょうか?

神様から与えられた日々を楽しみ、恵みを数えながら今週も歩んでいきましょう!

(小山晶子牧師夫人)

マルコ 13章

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。」(13:8)

13章は「小黙示録」と呼ばれる終末についての教えが記されています。

この世の終わりのしるしとしてイエス様があげたのは、偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、あちこちで地震があり、飢饉も起こるということです。

まさに、今の世相を現していると言っても過言ではありません。

しかし、私たちが理解すべきことは、これらは「産みの苦しみの始まり」、すなわち、「新しい天と新しい地」(黙示録21章)が誕生する始まりだということです。

もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」という新しい時代が来るという始まりです。

イエス様が私たちに伝えていることは、人に惑わされないように気をつけること、そして、その日がいつ来ても大丈夫という生き方を心がけることです。

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

マルコ 12章

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」(12:24)

「思い違い」と訳された言葉は、「だまされる」とか、「迷わされる」「惑わされる」という意味があります。

つまり、「聖書」と「神の力」を知らないと、私たちは惑わされてしまうと言うのです。

ある牧師は、解決をイエスに求めて、一生がかりで食いついていく読み方が鍵だと言います。

必死で聖書を読むならば体験するものだと。

しかし、「聖書学」という学問の世界にいる人たちが必ずしも「私の神」という体験をしているわけではありません。

どうしてでしょうか。

今日の箇所のイエス様の発言から考えるならば、人は聖書を読むだけでなく、神の力を認める必要があるからだと思います。

聖書の神は偉大な神、無力な神ではありません。

人にはできないことも、神にできないことはありません。

私たちを見出し、いのちを与える神です。

マルコ 11章

「そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」」(11:17)

「強盗」と訳された単語は、「盗人」というよりも「過激な国粋主義者」に対して使われていた言葉でした。

イスラエルの国は、世界の光として用いられるために選ばれたはずでした。

ところが、誤った選民思想で、世界を啓蒙するどころか、裁いていました。

神殿はあらゆる民のために天と地が重なり合う場所のはずでした。

ところが、イエス様の時代の人たちは、イスラエルの人以外の人を除外する場所となっていたのです。

実際、イエス様が追い出したその売り買いをしていた場所は「異邦人の庭」と呼ばれるユダヤ人以外の人たちのために設けられた礼拝の場所でした。

イエス様は「あらゆるの民」の祈りの家のはずだと既存の神殿を断罪されました。

今、キリスト教会が「あらゆるの民」の祈りの家です。

マルコ 10章

「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」(19:13,14)

子どもたちがイエス・キリストのもとに行くことを妨害し叱った弟子たちに対してイエス様は、「憤った」と言います。

私たちは、一人でも多くの人が、イエス・キリストのもとに行くことが出来るためにこの地に存在しています。

たとえ、それが、わきまえを知らない子どもたちであったとしても、その人たちがイエス様のところに行くことを妨げることは、イエス様が憤られることだと言います。

私たちは自分の思い込みや、自分のモラル、基準ではなく、主がどう思っておられるかということを優先すべきです。

自分の基準で他者を判断すべきではありません。

マルコ 9章

「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。」(9:8)

今の日本の問題は「3ダケ主義」だと言われます。

3ダケ主義とは、「今だけ、金だけ、自分だけ」。

自分の目先の利益と保身しか考えず、周りのことも、将来のことも考えていない姿勢を指します。

ペテロが見えていたのは、「今だけ」でした。

幕屋を建てるという発想も、目先の利益という意味で「金だけ」に相当します。

また、自分のことしか見えなくなっていたのですから、ペテロが「自分だけ」になっていたことは事実です。

神はそんなペテロの3ダケ主義を打ち破りました。

イエス・キリスト以外何も見えなくしたのです。

そうして、やっと、ペテロは周りが見えるようになりました。

CSルイスは言います。

「私がキリスト教を信じるのは、太陽が昇ったのを信じるのと同じです。それを見ることができるからというだけでなく、それによって他のすべてのものを見ることができるからです。」

マルコ 8章

「するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」」(8:29)

「キリスト」は、イエス様の名字ではありません。

また、「神」という意味もありません。

旧約聖書が書かれたヘブル語では、「メシア」と訳される言葉です。

イエス様の時代の人々が、「キリスト」と聞いて連想したのは「イスラエルの真の王」です。

「ダビデ王家の最後の後継者」です。

政治的で危険を伴う表現です。

当時、ガリラヤ領主だったヘロデ・アンティパスが一番脅威に感じていた言葉です。

ですからこの「名称」は公の場所で口にしてはいけない秘密にする必要がありました。

ペテロ自身がどのぐらい理解していたかはよく分かりませんが、この信仰告白を通して、すべてのものがはっきり見えるようになります。

つまり、メシアは「神の全世界的な支配をもたらす者」なのです。

旧約聖書に記されたイスラエルの物語を完成されるお方なのです。