マタイ 20章

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(20:28)

初代教会の讃美歌と言われる「キリスト賛歌」は、今日のイエス様の言葉を言い表しています。

「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:5-9)

キリストに倣って、仕える人生を生きるように聖書は私たちにチャレンジしています。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 19章

「イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」」(19:21)

多くの財産を持っていた青年の

「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16節)

という質問に対して、イエス様は十戒と隣人愛を引用します。

青年が

「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」(20節)

という質問に対して、イエス様は青年の欠けていた部分を指摘します。

青年は自分の欠けを認めて、イエス様に従うこともできたはずです。

しかし、彼は

「悲しみながら立ち去った。」(22節)

と言います。

この青年とは対照的に取税人ザーカイは自分の財産を施しイエスに従ったことが記録されています。(ルカ19章)

「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(26節)

マタイ 18章

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(18:20)

新型コロナの影響もあって、集まることに注意が必要なことは確かです。

しかし、イエス様の名に置いて集まっているところに、イエス様もその中にいるという約束を私たちは忘れてはいけないと思います。

イエス様の臨在ほど大切なものはありません。

もちろん、イエス様はいつも共におられます。

しかしイエス様は、イエス様の名において集まるところには、その中にいると約束されました。

ですから、キリスト教会は、共に集まることを大切にします。

聖書は言います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)

マタイ 17章

「しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」(17:27)

イエス様が神殿税を納めたという内容です。

イエス様は神の御子であるがゆえに、神殿税を支払う義務はないということを確認した上で、ユダヤ人たちをつまずかせないために納めたことが記録されています。

本質以外は寛容であれという原則をここに見ることができます。

本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって。

ということです。

マタイ 16章

「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」(16:21)

使徒ペテロが

あなたは生ける神の子キリストです。」(16節)

と信仰告白し、イエス様がこの信仰告白の上に

わたしはわたしの教会を建てます」(18節)

と宣言された時、イエス様はご自身の十字架の受難を予告しました。

これは熱烈な政治的メシア待望の中にいたユダヤ人たちには理解できない内容でした。

信仰告白をしたペテロもこのことを理解せず、イエス様をいさめたために、「サタン」と叱責されます。

十字架なくして冠なし、(No cross, No crown)

イエス様の十字架の御業無くして、救いの恵みはありません。

だから教会はキリストの十字架を高く掲げます。

マタイ 15章

「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(15:14)

イエス様のパリサイ人たちに対する態度ははっきりしていました。

冷たく感じますが、「放っておきなさい」とイエス様は言われました。

聖書は言います。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(ヤコブ3:1)

教える立場にある人はより厳しいさばきを受けます。

盲人が盲人を案内することにならないように、私たちは謙遜に聖霊なる神様を教師として歓迎する必要があります。

マタイ 14章

「イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(14:27)

弟子たちはイエス様に促されて舟に乗り込み、先に向こう岸に向かっていました。

しかし、強い向かい風と大波に悩まされました。

主のみこころに従っているからといって向かい風を体験しないとは限りません。

大波に悩まされているのは、神のみこころに逆らっているからとは限りません。

大事なのは、そんな弟子たちのところにイエス様が来られたことです。

しかし弟子たちはイエス様を幽霊だと言って取り乱したとあります。

そんな弟子たちにイエス様は言われました。

しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」。

今は恐れの時ではありません。信仰の時です。

信仰と恐れは、互いに相容れません。

信仰は恐れを消し、恐れは信仰を消します。

目の当たりにする嵐のような状況に取り乱すのではなく、「わたしだ。」と言われるイエス様を信仰によって認識できますように。