ネヘミヤ記 13:23-31

「私の神よ、どうか彼らのことを覚えていてください。彼らは祭司職を汚し、祭司職とレビ人たちの契約を汚したのです。」(13:29)

ネヘミヤが祭司職を汚していると言った理由は、

「大祭司エルヤシブの子エホヤダの子の一人は、ホロン人サンバラテの婿であった。」(28節)

ということです。

サンバラテという名前は2章に出てきます。

「ホロン人サンバラテと、アンモン人でその部下のトビヤは、これを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の益を求める者がやって来たからである。」(2:10)

要するに、サンバラテは神の働きを妨害していた異邦人でした。

大祭司が、神の働きを妨げている異邦人と婚姻関係を結んだのは、政治的な理由だったのだと思われます。

この世の価値観に振り回されることなく、神の御心に生きることが、指導者の責任です。

教会が神の御心を第一とすることができるように、お祈りください。

背中が、、、

痛い。

どうやら筋を違えたようです。

息をするのも痛い。

下を向くのも痛い。

横になるのも痛い。

寝返りのたびに痛くて目が覚める。

原因はわかっています。

単純に重いものを無理して持ったから。

できると思ったのですが自分のキャパを正確に把握できていなかったようです。

重いもの、だけではなく様々な場面でこの失敗をしてきた人生でもあります。

その度に謙遜にさせられますが主の御手にすがりつつ歩んでいきたいと願います。

こんなわたしでも、主よ、知恵を与えてくださいと祈らされるのですから国のリーダーなら尚更のことだと思います。

今回自民党の総裁に選出された石破さんは4代目のクリスチャン。

わたしの記憶が正しければプロテスタントのクリスチャンが総理総裁になるのは40年以上前の大平正芳さん以来だと思います。

現職の総理が亡くなり、しかも棺に十字架があしらってあったことは幼かったわたしの記憶に今も鮮明に残っています。

石破さんにも私たちが想像もできないような孤独とご苦労があると思いますが、主が力を与え国の舵取りをする知恵を豊かに与えてくださるよう祈ります。

(小山晶子牧師夫人)

ネヘミヤ記 13:10-22

「私の神よ、どうか、このことのゆえに私を覚えていてください。私が神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行いを、ぬぐい去らないでください。」(13:14)

「レビ人の分が支給されていなかったために、務めに当たるレビ人と歌い手たちが、それぞれ自分の農地に逃げ去っていた」(10節)

と言います。

問題の根底にあったのは、トビヤという人物に、レビ人と歌い手たちに支給するために物資を保管する場所をあてがっていたという政治的な理由からでした。

この世の常識を教会に持ち込む時、教会は本来の機能を失います。

レビ人たちや歌い手たちは、礼拝をするために欠かせない人たちです。

しかし、この世の常識で、取るに足りない存在と考えられ、蔑ろにされてしまったのだと思われます。

ネヘミヤは礼拝を第一にしました。

彼は誰からも理解されなくても神に認められることを願いました。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

ネヘミヤ記 13:1-9

「その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。」(13:1)

ルツ記のルツはモアブ人でした。

彼女は神の集会に加わり、ダビデの先祖の一人となります。

したがって、ここで指摘されている内容は民族の問題ではありません。

ルツは言いました。

「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)

ここで問題になっているのは、アンモン人トビヤのようにエルサレムに住んでいながら、自分たちの伝統的な神々に忠誠を誓う人たちは、神(ヤハウェ)の共同体の完全な一員になれないということです。

実際、トビヤは穀物の捧げ物を保管すべき場所を占領し、神殿の機能を妨げていました。

教会も信仰者でない人が運営するならば同じような問題が起こり得ます。

教会は、神の御言葉に従って運営されなければなりません。

ネヘミヤ記 12:31-47

「次に、ゼカリヤの兄弟たちシェマヤ、アザルエル、ミラライ、ギラライ、マアイ、ネタンエル、ユダ、ハナニで、神の人ダビデの楽器を持って続いた。学者エズラが彼らの先頭に立った。」(12:36)

学者の後を賛美奉仕者たちが続いたという記述は私たちに大事なことを教えます。

賛美と神学は対立するものではなく、相互補完的なものです。

健全な神学のない賛美はただの歌となってしまいます。

賛美のない神学は寝学となり死学となってしまいます。

ネヘミヤ記全体にこのバランスが描かれています。

J.I.パカー先生は神に栄光を帰さない神学はないと言っていました。

すべての栄光は、父、子、聖霊の三位一体なる神に。

神を讃えよ。全ての祝福は神から流れてくる。

神を讃えよ。全ての被造物よ。

神を讃えよ。全ての天の軍勢よ。

父、子、聖霊を讃えよ。アーメン。

ネヘミヤ記 12:22-30

「エルサレムの城壁の奉献式に際して、彼らはあらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。」(12:27)

イスラエルの民が何もしなければ、エルサレムの城壁を再建することはできませんでした。

神が何もなさらなかったのならば、城壁は築かれませんでした。

ですから、民は感謝の歌を歌う理由がありました。

ネヘミヤの役割は、城壁の再建でした。

そのためにエルサレムまではるばるやってきました。

ですから、城壁の奉献式がなされることは、彼にとっても大きな節目だったと思います。

ただ、ネヘミヤは自分の功績をアピールするようなことは言いませんでした。

神の恵みの御業であると確信していたからだと思います。

「恥は我がもの、栄光は主のもの」と言われますが、主の栄光だけがこの地を覆いますように。

ネヘミヤ記 12:1-21

「また、レビ人では、ヨシュア、ビヌイ、カデミエル、シェレベヤ、ユダ、マタンヤで、感謝の歌を受け持っていたのはマタンヤとその兄弟たちであった。」(12:8)

バビロンから、ゼルバベルとヨシュアと一緒に帰ってきた祭司とレビ人たちのリストが記されています。

名前が並べられているところに、突然、

「感謝の歌を受け持っていた」

という記述が入ります。

彼らは帰還してから感謝の歌を歌い始めたのでしょうか。

それとも、バビロンに捕囚されていた時も、感謝の歌を受け持っていたのでしょうか。

記述されていないので、想像の域を越えることはありません。

ただ、もし、捕囚地でも感謝の歌を歌い続けていたとするならば、私たちに対する大きなチャレンジになります。

良い時だけでなく、悪い時も、感謝の歌を歌い続けるならば神の奇跡を見ることになります。

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。(中略)すると突然、大きな地震が起こり、」(使徒16:25,26)

ネヘミヤ記 11:22-36

「農地がある村々で、ユダの子孫の一部が住んだのは、キルヤテ・アルバとそれに属する村々、ディボンとそれに属する村々、エカブツェエルとその村々、」(11:25)

エルサレムの外、農地がある村々に住むようになった人たちのリストが記されています。

中世の教会の問題は、「聖俗分離」という理解だったと言われます。

宗教的なものは神に属しますが、その他の世俗的なものは神に属さないという理解です。

プロテスタントの万人祭司主義は、このような「聖俗分離」の考え方に一石を投じました。

世俗的なものは悪いものという考え方は短絡的です。

キリスト者の歩みは、人生の公的領域に広げられていくものです。

ですからイエス様は、神のみこころが天で行われているように、この地に行われるように、「御国が来ますように」と祈るように教えられました。

ネヘミヤ記 11:10-21

「また、ミカの子マタンヤ。ミカはアサフの子のザブディの子である。マタンヤは祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者、バクブクヤはその同族の副指導者であった。また、シャムアの子アブダ。シャムアはエドトンの子のガラルの子である。」(11:17)

エルサレムに住んだ祭司とレビ人たちのリストが記されています。

その中のマタンというレビ人の仕事を、このように表現しています。

「祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者」

祈りの時は、感謝の歌を歌う時です。

感謝を捧げる時です。

感謝のない祈りの時はありません。

聖書は言います。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません。」(1テサロニケ5:16-19)

聖霊様によって、すべてのことを感謝し、絶えず祈り、いつも喜ぶことができますように。

汗が

人生でこんなに頻繁に頭から汗をかく日が来るなんて考えもしませんでした。

波のように訪れるその時間は携帯扇風機のお世話になりっぱなしです。

それでふと思いました。

猫のジョシュは汗をかかないのだろうか?

亀のジェニーは水の中で生活しているから汗は想像できませんが猫は暑い日に暑い部屋で寝ているので不思議に思いました。

汗で体が濡れていたことはこれまで見たことがないので少し調べてみました。

驚くことに気温の変化で全身に汗をかく生き物は人間と馬(馬は運動や緊張で)ぐらいだそうです。

おお、やはり人間は特別なのだと感激していたら「汗をかく機能がからだに備わったのは、猿から人に進化する過程でのこと」ですって。

いやいや、神様がそう造られたのだと信じる方がよほど簡単だと思いますが、、、

タイムリーにもあるクリスチャンの心臓外科医が書いた『あなたがどこから来たのかわかる本』が増補改訂版でつい最近出版されました。

興味のある方はお貸しします。

さて、猫に関してですが汗をかくのは鼻と足の裏の肉球のみだそうです。

汗ひとつとっても神様の創造のわざを讃美せずにはいられません。
(小山晶子牧師夫人)