使徒 12:19-13:12

「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」(12:23)

ヘロデは民衆から、

「神の声だ。人間の声ではない。」

と称賛されて、いい気になっていました。神に帰さなければならない栄光を自分のものとしたヘロデは、結局虫にかまれて息が絶えてしまいました。イエス様は、イエス様を信じることができない理由をこう警告しました。

「互いにほめ合ったり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神からほめていただくことには関心がないのですから。」(ヨハネ5:44LB)

人々から称賛されるためではなく、神の栄光を現わすために人は造られました。栄光は神のものです。神は言われます。

「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(イザヤ48:11)

恥は我がもの、栄光は主のもの、すべての栄光を神に捧げることができますように。

イエス様のひつじ

いまデボーションでヨハネの福音書を読んでいます。10章のイエス様の

「羊は彼(イエス様)の声を知っているので彼についていきます。」

という言葉をここ数日ずっと黙想しています。「声」の重要性をとても感じているからです。きっかけはうちの猫たち。ちゅーるという猫用のおやつをあげる時わたしはちゅーるのコマーシャルの歌を歌っています。歌い始めの言葉だけで猫たちはものすごい勢いで私の周りに集合するのです。けれども最近、私が歌わないと同じ歌を歌っても猫たちが反応しないということに気付きました。息子たちや夫、実際のコマーシャルの音などで試してみたのですが、それらには全く無反応なのです。私の声だから、集まってくるのです。その猫たちの様子を見ながら、この聖書の箇所がさらに私にとって意味深いものとなりました。イエス様の声を知っている、とは他の声と迷いがまったくないということだと思ったのです。だから惑わされることもありません。そうなりたいなあと思います。何度も何度もイエス様の声を聴き続けましょう。(小山晶子牧師夫人)

使徒 11:19-12:19

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(12:5)

初代教会のリーダーの一人、ヤコブが殺され、もう一人のリーダー、ペテロも逮捕されてしまいました。当時の教会は、人に頼ることも、お金に頼ることもできませんでした。もちろん、権力に頼ることもできません。政治力もありませんでした。しかし教会は神に熱心に祈り続けていました。神は祈りを用いて奇跡を起こされます。聖書は言います。

「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。」(12:10)

問題は私たちを祈りの器に変えるためにあります。祈りがなければ鉄の門が開かれることはありません。事実、聖書は言います。

「そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」(12:12)

今日は主の日。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 10:23-11:18

「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」(10:44)

使徒ペテロは、自分が見た幻とユダヤ人ではないコルネリオの話を聞いて悟りました。ペテロは言います。

「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(34,35節)

そして、そのことを証明するかのごとく、聖霊が、ペテロが話し続けている時に、そこにいた一人一人にお下りになりました。

「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」(46節)

聖霊は、今も、神のみことばに真剣に耳を傾ける、神を礼拝するすべての人の上にお下りになります。

使徒 9:32-10:23

「すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(10:4)

コルネリオはユダヤ人ではありませんでした。しかし、彼は祈りの人でした。そして、御使いは明確に、彼の祈りは覚えられていると言いました。彼はまた、施しの人でした。御使いは彼の施しも覚えられていると言いました。聖書は、私たちは行いではなく、一方的な神の恵みによって救われると言います。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8,9)

しかし、それは、私たちの祈り、施しが無意味ということではありません。神は私たちの小さな祈りに答えられる神であり、私たちの小さな施しを用いられる神です。

使徒 9:1-31

「彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)

パウロは、キリスト教徒を迫害していました。ダマスコにある教会を迫害しに行く道の途中、イエス様がパウロに現れました。パウロが「あなたはどなたですか」と尋ねると、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えられました。パウロが迫害していたのは教会であり、キリスト教徒でした。しかし、イエス様は、ご自身を教会と同一視されました。教会を迫害するのは、イエス様を迫害するのと同じだと。教会は不完全な人間の集まりですから、問題がないわけではありません。しかし、イエス様はそんな欠けだらけの教会を、ご自分と同一視されました。ですから、地域教会を軽視することは、イエス様を軽視することと同じです。目に見える教会を愛することが出来なければ、目に見えない神を愛することはできません。

使徒 8:4-40

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

エルサレム教会に対する迫害が起こり、使徒たち以外のクリスチャンはみな、散らされてしまいました。しかし、そのような否定的な状況によって信仰を失うどころか、

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(4節)

と聖書は言います。戦後、日本に来た多くの宣教師たちは、中国から追放されたためにやってきました。一つの宣教の扉が閉ざされたことによって、新しい扉が開いたのです。宣教師たちは、散らされたその場所で、再びみことばを宣べ伝えました。神の働きはそのように前進します。目の前の扉が閉ざされた時は、新しい扉が開かれる時です。扉が閉ざされた時は終わりではなく、新しいことに神が召しているからかもしれません。マイナスは必ずプラスになります。

「どのような状況でも、どこに行っても、主のみことばを宣べ伝え続ける姿勢をもちつづけることができますように。」

使徒 7:44-8:3

「こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」」(7:56)

ステパノは

「聖霊に満たされていた」(7:55)

と聖書は言います。しかも、

「神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て」

とあるように、神秘的な体験までしています。ところが人々はステパノのことばに耳を傾け、悔い改めるどころか、耳をおおい、石を投げつけ殺してしまいます。しかし、ステパノは、そんな彼らを呪うどころか、

「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」

ととりなし、天に召されていきました。このステパノの姿に聖霊に満たされた人の姿を私たちは見ます。私たちは神がなされることのすべてを理解することはできません。しかし、この出来事が歴史上、非常に重要な転換点となったことは確かです。聖霊に満たされた人は、この地にキリストの愛を現わします。キリストの愛は憎しみの連鎖を打ち砕くことをステパノは証しました。

使徒 7:20-43

「『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。」(7:35)

モーセは指導者(リーダー)として、人々から拒まれた人でした。モーセは神の使命に生きようとしましたが、人々は彼を理解しませんでした。

「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。」(25節)

しかし、神はモーセを指導者としてお遣わしになりました。それでもなお、人々は、

「彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、」(39節)

と、モーセのリーダーシップを批判し続けました。神は大衆主義者ではなく、神の国はポピュリズム(大衆迎合主義)ではありません。大衆が求めることではなく、神のみこころが大切です。

動悸ふたたび

通院が始まってちょうど1年。
ずいぶん症状が良くなってきたということで今まで飲んでいた薬の量が半分になりました。けれども貧血の体質が良くなっていない、ということでサワイという薬が追加となったのですが、どうもその薬が合わないらしくとにかく体のあちこちが痒い。そのうえ動悸がするようになってきてしまいました。明日から飲むのをやめようと思っているのですが、一年前は寝ても覚めてもこういう状態だったので、ああ、あのころに比べてほとんど動悸がしない生活をしてこれていたんだなあと感謝の気持ちでいっぱいになりました。のど元過ぎれば、というかよくなってしまうとそんなことなかったのように生活をしてしまいますが、神様がどこから自分を助け出してくださったかを思い起こすときに幸せな気持ちになります。痛みや苦しみがなければ振り返って感謝する機会はもしかすると減ってしまうのかもしれません。
『わが魂よ。主をほめたたえよ。主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。』 (小山晶子牧師夫人)