使徒 20:1-38

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(35節)

「受けるよりも与えるほうが幸いである。」

というイエス様の言葉は、福音書の中には見つけることができません。そもそも、福音書には、すべてのイエス様のことばが記録されているわけではありませんから、不思議なことではないと思います。(ヨハネ21:25参照)使徒パウロがこのみことばを覚えていたのは、当時の教会では当たり前に覚えられていたからだと思われます。大和カルバリーチャペルの玄関には、「私たちは与えるために生きている。私たちは与えることが大好きだ。」という英語のサインが飾られています。与える幸いを知っている人は祝福されます。与えていく時に、さらに与えるものが与えられます。与える人生は幸いです。

使徒 19:14-41

「ところで、集会は混乱状態に陥り、大多数の者は、なぜ集まったのかさえ知らなかったので、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいた。」(19:32)

群集心理の恐ろしさは、今も昔も変わりません。パウロを陥れようと始まった集会には、「なぜ集まったのかさえ知らなかった」人たちさえいました。いわゆる憂さ晴らしで集まっていた人たちもいたからです。彼らは扇動者に乗せられ、ますます大混乱に陥ります。37節で町の書記官がパウロたちに非がないことを明確にしていますが、人は群衆になると正当な判断が下せないことがあります。マスコミに煽られないように、私たちは日々、神のみことばに耳を傾け、適切な判断力を祈り求める必要があります。

使徒 18:9-19:13

「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」(19:9)

パウロがイエス・キリストを伝える所はどこでも人々は反対しました。彼は打たれ、牢に入れられ、石打にされました。彼は

「弱々しく、おずおずと、震えおののきながら」(Ⅱコリント2:3LB)

コリントに行きました。そんな彼にイエス様は語られました。

「恐れないで語り続けなさい。わたしがあなたとともにいるのだ。」

恐れへの処方箋は、神の臨在の認識です。イエス様が共にいるという事実を認識する時、私たちはもう一度立ち上がることができます。主は言われます。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)

使徒 17:22-18:8

「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。」(17:29)

聖書がはっきり語っていることは、人間が造ったものが神と同じと考えることはあり得ないということです。金や銀や石などの像と同じものと考えること自体が的外れです。また、人間が自分勝手に作り上げた神像も的外れです。神は神であり、人は聖書を通してのみ神がどのようなお方かを知ることができます。パウロははっきりとこう伝えています。

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(30,31節)

使徒 17:1-21

「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(21節)

アテネ人の問題は、何か耳新しいことばかり求めていたことでした。このようなアテネ人症候群はいつの時代にもどこの場所にも起こりえます。神が何を語ろうとしているのか知りたくて聖書を勉強するのと、何か耳新しいことを聞きたくて聖書を勉強するのとでは雲泥の差があります。そのような危険に関してパウロはこのように言及しています。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうのよい話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。」(Ⅱテモテ4:3LB)

キリスト教界においては、「耳新しいこと」は注意する必要があります。約二千年間の間に気づかないようなことは、ほぼあり得ません。私たちは謙そんに、「耳新しいこと」ではなく、聖書の真理のみことばに耳を傾ける必要があります。

使徒 16:16-40

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(25節)

ピリピの町で宣教活動をしていた使徒パウロとシラスは、捕らえられ、何度もむちで打たれ、牢に入れられ、足に足かせを掛けられました。それはまさに人生の真夜中のような状態でした。そんなパウロとシラスが、真夜中ごろにしたことは、祈りつつ賛美の歌を歌うことでした。彼らは悲しんだり、不平不満を言うよりも、暗い牢を礼拝堂へと変えてしまいました。主に焦点を当てれば当てるほど、問題は小さくなっていきました。賛美の歌を歌う時、私たちの思いは、私たち自身から、主に焦点を変換させます。そして、賛美に満ち溢れた場所に神の力は解き放たれます。パウロとシラスを縛っていた鎖は解け、牢は開きました。神の奇跡の力を体験したいのであれば、私たちはすべてのことを感謝し、賛美の歌を歌うべきです。

こころをさわがせず

先週水曜日、ショッキングな連絡が入りました。御殿場純福音キリスト教会の牧師婦人・中見はるみ先生が天に召された、という知らせです。笑顔でご挨拶くださっている姿が思い出され、いまだに実感がありません。中見透先生をはじめご家族、教会の皆様の悲しみを思うと言葉もありませんし、TPKFイーストの中で数少ない牧師婦人の一人でもありましたのでこれからのことを考えると不安が押し寄せてきます。
イエス様はご自分の『死』が目の前に来たことを悟った時、弟子たちに言われました。

「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。」

「あなた方は互いに愛し合いなさい。」

ご自分が十字架への道を歩むときがすぐそばまで来ていたこの時、イエス様だって平気であったはずがありません。しかしイエス様の言葉と行動は愛に満ちたものでした。わたしの心は動揺し、悲しみ、ふさいでいますがイエス様の置かれていた状況を覚えつつ、御言葉をかみしめたいと思います。(小山晶子牧師夫人)

使徒 16:1-15

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。」(16:9)

パウロとシラスは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられ、自分たちが立てていた計画を変更しなければなりませんでした。彼らは聖霊の導きに従える柔軟性を持っていました。その後、パウロはマケドニヤ人の幻を見ます。キリスト教のヨーロッパ宣教は、ここから始まります。神は今も、幻を見させるだけでなく、様々な方法で私たちを導かれるお方です。今、目の前の扉が閉じられているのは、別の所に新たな扉が開かれているからかもしれません。神は道のないところに道を作られるお方です。私たちは聖霊の導きに対して柔軟である必要があります。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 15:22-41

「そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。」(15:39,40)

パウロとバルナバが対立し、別行動をしたという内容は、初代教会の歴史の汚点のように感じてしまいます。しかし、実際は、神の国の働きの拡大へとなりました。バルナバとマルコの働きが、その後、どうなったかに関して、使徒の働きには出てきません。しかし、対立の原因となったマルコに関して、使徒パウロは後ほど、こう言及しています。

「こちらへは、マルコも連れて来てください。彼に頼みたいことがあるのです。」(2テモテ4:11LB)

マルコは初代教会において重要な存在となり、後に、マルコの福音書を執筆するようになります。対立したり、別行動をとることになることは悲しいことですが、神はマイナスに見えることを用いてプラスにするお方です。