ミカ書 1:1-4:13

「ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。」(2:7)

「主がこれをがまんされるだろうか。」

と訳された文は、原文を直訳しますとこう訳せます。

「主の霊は制約されるだろうか」。

当時の北イスラエル王国の人々(ヤコブの家の意味)は、ミカの語る神からの預言を、たわごとと言い、語るなと言いました。彼らは、聖霊なる神の言葉を聞きたくないと言ったのです。ミカの時代の人々は、聖霊なる神の働きをコントロールし、制約しようとしました。今の時代も、聖霊なる神の働きを、自分たちが理解できる範囲内にコントロールし、制約しようとする人々がいます。聖書に出てくるような聖霊の働きは、聖書の時代にはあったけど、今は、もうないと言うのです。しかし、聖霊なる神を私たちの理解できる範囲内に制約する事は、誰にも出来ません。

2歴代誌 35:20-36:23

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(36:23)

歴代誌とマタイの福音書の類似性を指摘する聖書学者がいます。歴代誌もマタイの福音書も系図で始まります。そして、歴代誌もマタイの福音書も神が王に権威を与え、主の民に属する者に使命(ミッション)を与えるというところで閉じられています。もっとも、マタイの福音書で神が権威を与えたのは、王の王、神の御子、イエス・キリストです。そして、私たちの使命(ミッション)はエルサレムに神殿を建てることではなく、あらゆる国の人々を弟子として、キリストのからだである教会を建て上げる、神の御国をこの地上にもたらす働きです。

2歴代誌33:21-35:19

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」(34:21)

ヨシヤ王は神を熱心に求め、ないがしろにされていた神殿を修復し始めました。その時、放っておかれていた聖書を見つけました。そして、聖書の教えから遠くはなれた自分たちの姿に愕然としました。時代は繰り返します。中世の暗黒時代、マルチン・ルターは聖書を学ぶ中で、ヨシヤ王と同じように聖書の教えから遠くはなれた教会の姿に愕然とし、宗教改革が起こりました。いつの時代も私たちは問われます。聖書をないがしろにしていないでしょうか。聖書を読み、聖書を学び、信仰と人生の規範として聖書に生きることを心がけているでしょうか。聖書は誤りなき神のことばです。

2歴代誌 31:2-33:20

「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。」(32:7,8)

冷静に状況を分析することも大切なことですが、信仰を鼓舞することも大切なことです。問題を大きくすれば神は小さくなり、神を大きくすれば問題は小さくなります。ヒゼキヤの信仰は明確でした。

「そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。」(32:20)

歴史はこの結果を明確に伝えています。神は確かにアッシリヤ帝国からヒゼキヤ王たちを守りました。それは壁画や記録も証言しています。

2歴代誌 29:1-31:1

「また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。」(29:7)

南王国の問題の発端は、いけにえをささげることをやめてしまったことでした。信仰の危機は、ささげものを怠ることから始まります。今、私たちが求められているいけにえとは、動物を捧げることではなく、礼拝を捧げることです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

神に礼拝を捧げる姿勢は、私たちの人生の生命線です。なぜなら、人間は神を礼拝するために造られたからです。神を礼拝することが、人生に意味を与え、それが結果的に良いものを引き寄せます。すべての良いものは、神から来るからです。

2歴代誌 26:1-28:27

「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。」(26:16)

ウジヤ王は神を求めた間は栄えました。(5節参照)しかし、力をつけた彼は傲慢になってしまいました。祭司しか認められていない領域に、踏み込んでしまうのです。彼は自分の分を超えてしまったのです。使徒パウロは、こんなことを言います。

「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:3新共同訳)

チャレンジ精神も大事ですが、自分の分をわきまえるということも聖書的です。

「主よ。お与えください。チャレンジするべきことはチャレンジする勇気を。わきまえるべきことは謙遜に受け止める冷静さを。そしてそのどちらかを判別する知恵を、主よ、お与えください。」

ちょっと「谷」な感じ

単ペン大会が無事終わり、その後のもろもろの行事も終わり、気づけばもう八月も終わり。来週の日曜日から9月ですね。我が家では、長男も次男も人生の大きな岐路に立っているという現状に加え、教会が直面している厳しい状況に時々心がつぶれてしまいそうになります。ゆだねてもゆだねても、すぐに取り戻してしまう心配事。心配したってしょうがないじゃん、と言い聞かせつつ、繰り返し神様に委ねるという作業。海に浮かぶ木の葉のように翻弄される自分の気持ちに情けなくもなります。いま、私に必要なのは「主の御業を思い起こすこと」だと思います。どれほどの助けの中で、恵みの中で生かされてきたか。どれほどの困難を神様は乗り越えさせてくださったか。一つ一つを丁寧に思い返す時間が必要だと感じています。ちょっと「谷」な感じになっているわたしの心。みなさんはいかがですか?もし同じようなところを通っていると感じる方がいるなら、一緒に神様の恵みを思い起こしてみませんか。
(小山晶子牧師人)

2歴代誌 24:1-25:28

「アマツヤは神の人に言った。『では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。』神の人は答えた。『主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。』」(25:9)

アマツヤ王は戦いのために北イスラエルから十万人の勇士を百タラントで雇いました。しかし、神の人は彼らを一緒に戦いに連れて行ってはいけないと言います。それが銀百タラントを無駄にすることを意味したので、

「あの兵士に払った金が惜しい」(LB)

と泣き言を言います。神の人は言います。

「神様はそれ以上のものをあなたに与えることがおできになります。」

神は私たちに、より多くのものを与えるために私たちに手放すことを求められることがあります。私たちがもったいないとしがみつくならば、受けることができないものがあります。神様の助けは、比べられません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2歴代誌 21:4-23:21

「こうして、全集団が神の宮で王と契約を結んだ。そのとき、彼はこう言った。「ご覧のとおり、主がダビデの子孫について約束されたように、王の子が王となるのです。」(23:3)

神の契約は、ダビデ王とその子孫に結ばれたものでした。興味深いことは、どんなにダビデの子孫を途絶えさせようという働きがあっても神の特別な守りがそこにあったということです。祭司エホヤダはヨアシュを隠し、ダビデの子孫が途絶えることはありませんでした。そして、イエス・キリストが永遠の王としてダビデの子孫から生まれます。神の私たちに対する約束も消え去ることはありません。たとえすべてが終わってしまったかのように見えても、神は不思議な方法で継続してくださいます。だから聖書は言います。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)