ルカ 8:19-39

「イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」」(8:25)

ある牧師は、

「この記事の第一義的な意味は、嵐を静めることを通しイエスが自然界を支配している主である点を明らかにすることにある。」

と言います。私たちは、イエス・キリストが天においても地においてもいっさいの権威が与えられていることを認識する必要があります。イエス様がお命じになれば、すべてのものは従うことを体験する必要があります。人にはできないことも、神にできないことはないということを体験的に知る必要があります。弟子たちがイエス様を起こしたように、私たちはあきらめずに祈る信仰が求められています。

ルカ 8:1-18

「また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」(8:2,3)

イエス様は十二人の男たちとだけ行動していたわけではありません。彼らを世話した女性たちも一緒でした。その女性たちは、暗い過去をもった人もいれば、明るい過去をもった人もいました。育ちも違いました。彼女たちは無報酬でしたが、献身的に支えました。彼女たちの共通点は、イエス・キリストに愛され、受け入れられ、赦されたことに感謝していたということです。自分がイエス・キリストに愛され、受け入れられ、赦されていることを感謝しているならば、他者を愛し、受け入れ、赦す人生に生きるようになっていきます。

今日は受難日。イエス様の十字架の御業を覚えたいと思います。

ルカ 7:36-50

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(7:47)

今日の箇所は、新共同訳の方が分かりやすいと思います。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」

「多く愛したから、多く赦された」ではなく、「多く赦されたから、この人は多く愛しました」という意味です。オンヌリ教会のハ先生が、生前、ラブソナタでこんなことを言っていました。「罪をやめることよりも大切なことがある」。私は通訳が間違ったのかなと正直思いました。その後、こうおっしゃられました。それは、「イエス様ご自身に来ることです」と。「その時、わたしはあなたを変える。あなたの人生を新しくする。いやし、あなたの人生の本当の目的を与え、あなたの人生に喜びを与える。あなたの人生に新しいはじまりを与える。」

ルカ 7:11-35

「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。」(7:22)

私たちは、とかく、見えていないもの、聞こえないものに心が奪われやすいと思います。

「どうして、こういうことが起こらないのだろうか?」

「この教会ではどうして、あの教会に起こるようなことが起こらないのか?」

「どうして、私には、あの人に起こるようなことが起こらないのだろうか?」

「隣の芝は青い」と言いますが、イエス様は、「あなたが今、見ていること、聞いていること、」即ち、

「起こっていないことではなく、今、起こっていることに目を留め、耳を傾けるように」

と私たちに語っています。なぜなら、イエス様が

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)

と言われたように、今も、イエス様は、私たちひとりひとりの人生に働かれているからです。

ルカ 6:37-7:10

「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。」(6:47)

ある神父がこんなことを言っていました。

「キリスト教に出会っても、キリストに出会っていない人もいる。

キリスト教の中にいても、キリストに出会ったことのない人たちの集まりにもなりうる。」

「それを行なう」ということにだけ焦点を合わせてしまうならば、そうなる危険があります。キリスト教文化は広めても、キリストがいないということがあり得ます。イエス様はまず、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き」とおっしゃられました。自分の理想をキリストに押し付けるのではなく、キリストのもとに行き、キリストに聴く姿勢が必要です。イエス・キリストとの個人的、人格的な関係が何よりもまず必要です。

ルカ 6:12-36

「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(6:12)

イエス様は山に登り、神に祈りながら弟子たちを選ばれました。イエス様が、選ばれた人々は、はっきりいって、それにふさわしいとは、決して呼べない人たちでした。「イエス様、あなたは確かですか?本当に、祈られて決められたのですか?」と言いたいようなメンバーでした。実際、彼らは、イエス様を見捨てて、逃げてしまったような人たちでした、人生の中で、私たちはいろいろな決断に迫られることがあります。しかし、祈って、祈って、祈って決断したことであるのならば、万事を益としてくださると約束された神に信頼して安らぐことができます。商品ならばクーリング・オフができますが、人生にはできないことが多々あります。イエス様がそうであったように、大事な決断をする前には、「祈って、祈って、祈って決断する」という方法は、聖書が進めている決断方法です。

ルカ 5:33-6:11

「イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。」(6:3)

「読まなかったのですか」という表現が意味していることは、「あなたがたの聖書解釈は間違っている」ということです。安息日というのは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、禁止事項で人々を縛るために与えたわけではないということです。ここで、ダビデが例として出てきているところにも意味があります。神はダビデを

「わたしの心にかなう者、わたしの意志に完全に従う者だ」(使徒13:22LB)

とおっしゃられました。つまりダビデは神の真意を理解していたから、律法に縛られることなく行動することができたというのです。

今日は主の日。神の真意を理解できるように、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 5:17-32

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(5:17)

イエス・キリストがこの地上でなされた働きの一つは、

「主の御力をもって、病気を直しておられた」

ということです。ルカの福音書を書いた、ルカと言う人は、お医者さんでした。(コロサイ4:14参照)ですから、特に、キリストが病気を癒されたということに興味があったのだと思われます。興味深いことに一般の人よりも医者の方が「神のいやし」に興味があるようです。いやしの伝道集会に、有名な病院の医者の方がおられてびっくりしたことがあります。しかし考えてみますと、日夜「病気を治す」ことに心を注いでいるのですから、興味があって当然なのかもしれません。神は今も、いろいろな方法で病気を癒されます。

ルカ4:38-5:16

「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」(5:5,6)

ペテロは何もしなかったわけではありません。夜通し働きました。だから、もう無理だと思ったのです。しかしペテロは、自分の考え方を優先しないで、

「でもおことばどおり」

と、イエス様に従い行動したときに、神の栄光を見ました。私たちはやらない理由を考えることは得意です。ペテロが、「プロの私たちが、夜通し働いてダメだったのですから、無理ですよ」と切り捨てたとしても、私たちは当然だと思います。「でも」、ペテロが、イエス様の「おことばどおり」網を下ろしたから、神の力を体験することができました。私たちは「でもおことばどおり」という信仰が必要です。

ルカ4:14-37

「イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」」(4:21)

4章18,19節はイエス様のこの地上における目的宣言文と言われます。これらの目的がイエス様が来られたことによって実現したと言われました。5つの目的があります。

第一番目は、「貧しい人々に福音を伝える」ため。

第二番目は、「捕らわれ人に赦免を告げる」ため。

第三番目は、「盲人に目の開かれることを告げる」ため。

第四番目は、「しいたげられている人々を自由にする」ため。

第五番目は、「主の恵みの年を告げ知らせる」ため。

イエス・キリストは、今も、聖霊なる神様の力をイエス・キリストを信じる者たちに注いでくださって、一人でも多くの人が、神に立ち返ることができるように、この恵みの年を宣言して欲しいと願っておられます。