1コリント 12:1-26

「さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」(12:1)

使徒パウロが

「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」

と言う箇所は、今も混乱しています。イエス・キリストの再臨(Ⅰテサロニケ4:13)、イスラエル(ローマ11:25)に関する箇所も同じ表現が用いられています。「御霊の賜物」とは、聖霊が与える賜物のことです。

「知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力」

とあるように超自然的な賜物のことです。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」(31節)

とあるように、私たちは熱心に御霊の賜物が与えられるよう求める必要があります。ただ、

「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」

1コリント11:2-34

「食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。」(11:21)

コリントの教会は食事会をもっていました。しかし、貧富の差から生じる愛のない行為が横行していました。この箇所でパウロは、教会における食事会の本当の目的を思い出すように言います。単に自分の食欲を満たすためならば、家で食べればいいとまで言います。貧しい人たちと分かち合うことができない食事会ならば教会で行うべきではないと言うことです。大事なことは、キリストの愛、十字架型の生き方を実践することであり、互いを思いやることです。イエス様は多くの人と共に食事をすることを楽しまれました。イエス様は自分の時間、食物を分かち合うことを楽しまれたのです。私たちは他者を満たすことによって、自分も満たされるということを忘れてはいけません。

1コリント 10:14-11:1

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(10:31)

ウエストミンスター小教理問答書に、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

とあります。私たちの人生の根本的な原則がここにあります。私たちは、神の栄光のために生きています。

「神に栄光を帰す」

これが私たちの存在目的です。もし、何であれ神に栄光を帰すことができるのであれば、私たちは堅い岩の上に立っています。私たちが、人生の中で、すべきかすべきでないか悩んだときに、これが基準になります。

「私はこのことを、神の栄光のために行うことができるだろうか?」

私たち、栄シャローム福音教会の目的は、

「私たちの必要に唯一答えることができる、今、生きておられるイエス・キリストを指し示すことを通して、神に栄光を帰すこと」

です。

1コリント 9:19-10:13

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(10:13)

パウロは信仰生活における様々な試練を出エジプトのストーリーから語ります。

「これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪をむさぼることのないようにするためです。」(10:6新改訳二〇一七)

四つのことが挙げられます。

1.「偶像礼拝者になってはいけません。」

2.「みだらなことを行うことのないようにしましょう。」

3.「キリストを試みることのないようにしましょう。」

4.「不平を言ってはいけません。」

しかし、このような誘惑、試練に直面する私たちに素晴らしい約束があります。

「神は真実な方です」

1コリント 9:1-18

「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」(9:16)

「福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(14節)というのは、伝道者が生活のために働いてはいけないという意味ではありません。パウロが言いたいのは理想的には福音の働きから生活の支えを得ることですが、生活の支えを得れないならば、自分で働いてでも福音を宣べ伝えるということです。なぜなら、福音を宣べ伝えることは、どうしてもしなければならないことだからです。イエス・キリストの教会で働く者は、当時のギリシャ哲学者たちとは違い、高額な授業料を支払える人たちのためだけではなく、すべての人に神のみことばを教えなければならないからです。

1コリント 7:36-8:13

「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(8:1.2)

自分は何でも知っていると思ったら、

「知らない」

という知らなければならないことも知っていないと聖書は言います。知識を蓄えることは大切なことですが、知識が人を高ぶらせるのもまた事実です。問題は、自分の知識のゆえに、自分の判断がいつも正しいと思ってしまうことです。しかし、聖書は知識よりも、愛の方が大事だと言います。

「自分の知識がどんなに重要に思えても、教会を建て上げるためにほんとうに必要なのは愛です。」(LB)

聖書は言います。

「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」(8:3)

私たちが知っていることよりも、神に知られていることの方が重要です。私たちは知識ではなく、神の愛によって行動することが求められています。

『世界の美しい鳥』より

わたしは生き物が大好きです(ただし虫意外)。幼いころ好きだった番組は「野生の王国」。ヌーの群れの移動やライオンの狩りの姿にわくわくしましたし、小学生の頃はいつも近所のどぶ川にフナやザリガニを取りに行ったり、どこかに子猫がいないかと竹藪の中にある物置の下を覗いてみたり。
先日教会学校でマタイの福音書6章を学びました。『空の鳥を見なさい。』とのイエス様のお言葉に、見てみよう!ということになり、ネットで検索していたら見たことのない鳥が沢山出てきました。その中でもひときわ目を引いたのが南アフリカ南部で撮影された“ライラックニシブッポウソウ”という鳥。頭は緑、口元はオレンジ、胸はピンク、腹部から足元にかけてはターコイズブルーの毛で覆われた何とも愛らしい鳥です。この鳥を見ただけでただただ神様ってすごい!と教会学校の子どもたちと一緒に感動していました。疲れているとき、一般恩寵の中にあらわされた神様の偉大さに目を向けることは枯れた心に水がどっと流れ込むように私たちを潤してくれるのだと思います。神様ってやっぱりすごい!(小山晶子牧師夫人)

1コリント 7:17-35

「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」(7:32)

イエス様は言われました。

「…御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない…」(マタイ13:22共)

世の思い煩いが、私たちの人生を実らせないようにします。それで聖書は何度も、

「思い煩わないように」

と言います。思い煩いが私たちの目をキリストから離させるからです。いろいろな思い煩いがありますが、31節にはこうあります。

「この世の魅力的なものに接する機会の多い者たちは、その機会を正しく利用し、おぼれることがないようにしなさい。現在あるがままの世界は、やがて過ぎ去るからです。」(LB)

「私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」(35節新改訳二〇一七)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

1コリント 7:1-16

「以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。」(7:6)

コリント人への手紙は、手紙であり、規則書ではありません。一世紀の地中海沿岸地域の人々が抱えていた問題に対して、ここでパウロは牧会的助言をしています。重要なポイントは、

「一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」(7節新改訳二〇一七)

パウロは助言をしつつも、神が与えたライフスタイルが人それぞれにあることも認めています。助言をする側は、神がそれぞれの人生に関わられていることを認めて、自分の助言を押し付けないように気をつける必要があります。助言を聴く側も、神から与えられた自分の賜物があることを認めて、助言に振り回されるのでなく、神のみこころを自ら求める姿勢が必要です。