ヨシュア記 1:1-2:24

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(1:9)

恐れや不安に対する聖書が処方する特効薬は、神の臨在です。神がともにおられるという事実が、私たちを恐れや不安から解放してくれます。ダビデ王も、そのことをよく理解してこう歌っています。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)

神の臨在が恐れと不安を取り除いてくださいます。復活されたイエス様が、天に戻られる前に恐れと不安の中にいた弟子たちにこう約束されました。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

彼らは恐れや不安が来たらいつも、このみことばの約束を宣言していたのではないでしょうか。

イースターにたまご  

「イースターにたまご」とタイトルを書いて変換したら「イースター煮卵」となってしまい思わず吹き出してしまいました。そう、きょうはイースター。イエス様の復活を記念し、喜び、お祝いする特別な日曜日です。毎年イースターエッグを作って一つづつ皆さんに持ち帰っていただいていますが、もちろん今年も準備しています。フイルムを蒸気で張り付ける時に少しコツが必要ですが、ぴったりと卵に張り付いて綺麗に出来上がる瞬間がマジックみたいで楽しんでいます。皆さんの顔を思い浮かべながら一つ一つ慎重に作業を行っていますので是非忘れずお持ち帰りくださいね。ゆで卵からはヒヨコが孵ることはありませんが、イエス様は不可能と見えたであろう完全な死からよみがえられました。真っ暗闇だと思われたあの日、イエス様は勝利をとられました。目の前の状況が暗闇のように感じている時こそ、私たちは神様がどれほど偉大なお方であるかを体験することができるチャンスです。そのことを心に留め、今週も歩んでいきましょう。
(小山晶子牧師婦人)

申命記 33:1-34:12

「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」(33:27)

申命記はモーセの歌(32章)と祝福(33章)の二つの詩で閉じられます。これらの詩は、救いというのはただ単に神について考えることでも、神について話すことでもないということを教えます。私たちは、実際に神のいのちに生きることが求められています。日々の生活の中で、神のみこころに生きることは、困難を覚えることもあれば、失望することもあります。しかし、モーセは言います。聖書の神は「昔よりの神」、時空間に縛られないお方であり、このお方が「住む家」、私たちを守ってくださると。私たちの下には、「永遠の腕」があると。今日はイースター(復活祭)です。イエス・キリストは死の力を打ち破り、よみがえられました。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。」(1コリ15:56)

死も終わりではありません。永遠の御腕が私たちを下から支えています。

共に主に礼拝を捧げましょう!

申命記 31:30-32:52

「これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」(32:47)

モーセはモーセの歌を歌い終えると人々に命じました。

「今日与えた律法をすべて心に留め、子どもたちに教えなさい。この律法は、ただ意味もなくことばを並べてあるのではなく、あなたがたのいのちそのものです。」(46,47節LB)

榎本師は言います。

「私たちは聖書の言葉を読むとき、ともするとその言葉を人の言葉と同じように思いやすい。あまり信じ込んで損をすることがないようにと、たえず距離をおきやすい。しかし、そのような者にとって、神の言葉はすでに神の言葉ではないのである。(中略)自分に語られた言葉を信じて帰るときに、神の言葉がいのちの言葉であることを発見することができるのである。」

みことばに生きるならばいのちの言葉であることを発見します。

申命記 30:11-31:29

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(31:8)

約束の地を前にしてモーセは言いました。

「主が味方だから、恐れてはならない。主はいつも先頭に立ち、途中で見放すことも見捨てることもなさらないのだ。」(LB)

モーセは百二十歳になり、神から約束の地に連れていくことができないと言われました。もう先頭に立つことはできないと。モーセにしてみれば、志半ばと言いますか、途中で見放しているような、見捨てているような感じだったのかもしれません。モーセは、自分ではなく、神に人々の目を向けさせます。人ではなく、神に目を向けることができなければ約束の地に入ることはできません。なぜなら、モーセではなく、神が彼らの先に進まれ、彼らと共におられるからです。神は彼らを見放すことも見捨てることもないからです。

申命記 29:1-30:10

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(29:29)

神はすべてのことをお示しになっているわけではないと言います。隠されていることがある、神だけがご存知のことがあると言います。聖書に明言されていないグレーゾーンがあります。それで、教会が民主化(世俗化)すると混乱が起こります。神のみこころは、人の思いを超えた所にあるからです。議論を積み重ねるのではなく、祈りを積み重ねなければ、教会は衰退します。もちろん聖書にはっきり示されていることがあります。聖書に明言されていることに関しては聴従することが求められています。イエス・キリストを信じるならば救われる、永遠のいのちがあるというのは、明言されています。私たちは、神の国の福音に生きていく責任があります。

申命記 28:15-68

「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、」(28:58)

28章は祝福とのろいの箇所です。祝福の道も、のろいの道も、私たちが選び取るものだと聖書は言います。イスラエルの民は、神のみおしえを守らず、文字通りこの章に記されているのろい、捕囚を体験しました。

「主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。」(36節)

イエス様の時代のパリサイ人たちは、ローマ帝国の支配下にあるということは、今もこののろいの中にあると解釈し、聖書のみおしえのすべてのことばを守り行うように人々を教えているつもりでした。イエス様は彼らの偽善を指摘しただけでなく、自ら十字架にかかられることを通して律法を成就されました。ですから今、キリストを信じることが祝福を選ぶことです。

申命記 26:1-28:14

「あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。」(26:5)

イスラエルの人々は、何か特別な存在だったわけではありませんでした。彼らの父祖は「さすらいのアラム人」でした。彼らはヨセフを通してエジプトに下り、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。彼らはエジプト人に虐げられ、神に助けを叫び求めました。神は彼らを省みられました。

「そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。」(8,9節)

謙遜に自分の人生を振り返り、神に感謝と礼拝を捧げることができるように証をすることは大切なことです。

申命記 23:1-25:19

「しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。」(23:5)

神はのろいを祝福に変えてくださるお方です。イエス・キリストを信じる者は、のろいを心配する必要はありません。ヨセフの人生が良い例です。彼は言いました。

「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20協会共同訳)

神は悪を善に変えるお方です。ですから、恐れる必要はありません。

「あなたに対して造られる武器は、どのようなものであれ役に立つことはない。裁きの時、あなたと対立する舌がどのようなものであれ、あなたはこれを罪に定めることができる。これが主の僕たちの受け継ぐもの、私から受ける彼らの正義である-主の仰せ。」(イザヤ54:17協会共同訳)

ちいさなぽち

4、5日前から舌の奥にぽちっと小さな粒ができています。小さいのに触れると割と痛くて熱いものを食べても痛むのです。以前なら大して気にも留めなかったかもしれませんが、義兄が舌癌で大きな手術をしたこともあり早めに病院に行った方がいいかな、と悩んでいます。昨日義兄のお見舞いに行ったとき、そのことを相談してみました。症状が小さいうちに、早めに診察に行った方がいいよ、と筆談用の紙に目いっぱい図解も入れながら一生懸命話してくれました。診察は痛かった?と聞いたところ「容赦なくチョキチョキ切られた」とのこと。病院へ行く勇気がほんの少ししぼみましたが、あと一週間痛みが残るようなら行ってみようと思います。体験した人の言葉にまさる説得力のある言葉はないなあと思いました。死への恐怖を体験し、その中でも神様の言葉を握りしてめていた義兄の姿に、これから神様が彼に与えておられる役割の大きさを感じています。皆様のお祈りを心から感謝します。続けて義兄と義兄家族のためにお祈りください。何よりも力になります。 (小山晶子牧師婦人)