エゼキエル 5章

 「わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。」(13節)

  神様は私たちに熱心に語られているお方です。問題や試練にぶつからないと、なかなか私たちは気がつかない傾向がありますが、神様は確かに私たちに熱心に語られています。試練の中で真剣に祈りつつ、聖書を読む中で、聖書のことばが生き生きと私たちの心に突き刺す時、私たちは確かに熱心に神様が語られていることに気がつきます。だからといって、試練の時でなければ神様は熱心に語られていないというわけではありません。祈りつつ、聖書に向き合っているならば、神様が日々、熱心に語られていることに気がつくはずです。

「神様、あなたは今生きておられ、今、熱心に私たちに語られている神であることを感謝します。私たちの心の耳を開き、聞くことができますように。」

 

エゼキエル 4章

「それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。」(7節)

LBでは、最初の部分をこのように訳しています。
「とにかく、エルサレムの包囲の様子を実演して見せるのだ。」
エゼキエルの預言の特徴は、視覚に訴えるものでした。映像を言語化することが難しいように、そのためにエゼキエル書は難解です。プロテスタント教会は、神のメッセージを視覚化することに否定的でした。そのため、カトッリク教会で発展した美術なども、否定的に受け止められてきました。しかし、今日の箇所を素直に受け止めるならば、神のメッセージを伝えるために、視覚に訴えるもの、絵画や映像(映画や劇他)などのメディヤも積極的に活用していくことが聖書的だと言えます。もっとも、私たちは十字架という映像を預言的に掲げています。イエス・キリストの十字架のメッセージを見せています。

エゼキエル 3章

「その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」(4節)
 
 教会の説教壇というのは、神のみことばのとおりに語られるために存在しています。いわゆる「いい話」ではなく、現代に生きる私たちにとって言えば、「聖書の語っている通りに語る」ということです。それは単に文字通りというよりも、著者が意図したとおりに語るということです。聖書の解釈の仕方もいろいろあると言う方がいらっしゃいます。しかし、聖書の本当の著者である聖霊なる神が何を意図して語っているか、聖書を聖書に解釈させるならば、奇抜な解釈さえしなければ、いろいろ解釈することはできません。祈りつつ、しっかり学び、神が意図したように語ることが求められているということを心に留めることは大事なことだと思います。
「主よ、あなたが意図したとおりに聴けますように。」
.

エゼキエル 1章

「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」(1節)

 エゼキエルもまた、バビロンに捕囚された者の一人でした。しかし、約束の地ではない、そのバビロンの地で彼は神様の現実を体験したのです。バビロンは、ユダヤ人にとって汚れた地でした。人々の生活も乱れていました。こんな場所では、神様を体験することなどできないと思えるような地で、彼は、神様の現実を体験したのです。これは、とても大事な真理です。今日、私たちが行くどの場所でも、私たちは神様の現実を体験することができるということだからです。こんな場所と思えるような場所でさえも、神様は私たちに会ってくださるというのです。ですから、今日も、行くその場所その場所で、聖霊なる神様を歓迎しようではないでしょうか。

「主よ、今日私が訪れる、そのすべての場所に臨んでください。」

Ⅱテサロニケ 3章

「しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」(3節)

今、私たちは、この神様の約束をしっかり握り締めたいと思います。私たちが信じる神様は真実なお方、信頼できるお方、私たちを強くしてくださるお方です。パウロは別の箇所で次のように告白します。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

さらに、このお方は私たちを

「悪い者から守ってくださいます」。

パウロが

「ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。」(2節)

と祈りを要請しているように、戦いはあります。使徒ペテロもこのように言っています。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5:8,9)

恐れる必要はありません。主は守ってくださいます。

 

※ 本日の第二礼拝は、インドネシアのジョニー・ルンツランビ牧師がメッセージをされます。

Ⅱテサロニケ 2章

「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(2節)

キリスト教界の二千年の歴史において、終わりの日に関して混乱することが多々ありました。パウロがはっきり言うことは、振り回されてはいけないということです。この章に記されてるように、自分を『神』と自称する人々が世界中で現れています。彼らの特徴は、奇蹟を行ったり、不思議なことを見せ、人々を惑わすことだと言います。もし自分の信仰をこのような現象の上に積み上げてしまうならば、砂の上に建てた家のようにあっという間に流されてしまいます。パウロは言います。

「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」(15節新共同訳)

私たちの唯一の土台は聖書です。

Ⅱテサロニケ 1章

「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」(12節)

日本語が難しいのですが、直訳するとこうなります。
「あなたがたがイエスの中で、あなたがたの中で私たちの主イエスのみ名に栄光が帰せられるように」。
私たちがキリストの中にあっても、そして、キリストが私たちの中にあっても、いつも栄光をキリストに帰せられるようにという祈りです。実はこれが、イエス・キリストが十字架にかかられる前のゲッセマネの園での祈り(ヨハネ17章)でした。これは奥義の世界であり、私たちの知性を超えていますが、キリストは私たちの内におられると同時に、私たちはキリストの内にいます。この神の恵みの奥義によって、前節に出てくる「信仰の働き」、キリスト者として求められる神に栄光を帰す生き方となります。

Ⅰテサロニケ 5章

 「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」(15節)

使徒パウロは、ローマ書でもこう言っています。
「悪に負けてはいけません。かえって、善を行うことによって悪に打ち勝ちなさい。」(12:21LB)
使徒パウロは、ユダヤ社会のエリートでしたが、そのような社会的地位も、キリストを信じたことによって失った人物でした。失っただけではなく、彼はあらゆる嫌がらせを受けるようになるのです。しかし、彼は、彼らに対して仕返しをするどころか、彼らの救いを願い、祈り、福音を伝え続けました。その理由をパウロはこう言っています。
「そうです。主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、ほかものはみな、色あせて見えるのです。」(ピリピ3:8LB)

Ⅰテサロニケ 4章

 「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(17節)

パウロが書いていることを文字通り理解するならば、この世界の終わりに、イエス・キリストが再び来られて、その時、キリストを信じる者たちは天に引き上げられ(携挙され)、空中でキリストと会い、永遠にキリストともにいることになります。その日がいつになるかの言及はパウロはしません。それはイエス・キリストがはっきりとこうおっしゃられたからです。

「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」(マルコ13:32)

イエス・キリストのポイントは、「いつ帰ってきても大丈夫」という良い緊張感の中で生きていくということです。一日一日を、今日、天に引き上げられても感謝できるように、大切に生きていくということです。

Ⅰテサロニケ 2章

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(13節)

聖書は「神のことば」です。そしてこの神のことばは、当時のテサロニケの人々のうちに働いただけでなく、今も、私たちのうちに働いています。LBでは、
「これは事実、神様のことばであって、信じる者の生活を一変させるのです。」
と訳しています。神のことばは力があって、信じる者の生活を一変させるものだと聖書は言います。ですから、信仰をもって、聖書を読むだけでも意味があることだと言えます。神のことばは力があり、私たちのうちに働いているからです。