ハバクク書 3章

「主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」(2節)

ハバククから信仰の姿勢を学ぶことができます。彼は神がユダを裁くためにどうしてバビロンを用いられるか、理解することができませんでした。しかし、彼は信仰の祈りをしました。

「主よ、それを行ってください。」

私たちが理解できないこと、把握することができないこと、それはたくさんあります。

「しかし、主よ、それをしてください。」

と神に信頼して祈ることが大事です。神は間違えることはありません。またハバククは、

「あわれみを忘れないで下さい」

とも祈りました。つまり、

「神様、あなたの御業を行い続けてください、でも、あわれみを忘れないで下さい。」

と。そしてハバククは言います。

「私は主を喜びます。」(17節LB)

これが信仰です。

ハバクク書 2章

「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(4節)

神の南ユダ王国に対する取り扱いの方法は、バビロン帝国によるバビロン捕囚でした。ハバククには、それを受け止めることができませんでした。

「ユダの人々は悪いけれど、バビロンの人は、もっと悪いではないですか」

と。しかし、神はハバククにただこう言いました。

「悪者は自分だけを信頼して失敗する。だが正しい人は、わたしを信頼して生きる。」(LB)

神は

「わたしを信頼しなさい」

とおっしゃられます。

「自分だけを信じるように」

と教える人がいますが、その生き方は失敗すると聖書は警告します。ギリシア語訳の聖書は、興味深いことに、こう訳しています。

「正しい人はわたしの信実によって生きる」(LXX)。

つまり、個人の

「信心深さの問題」

ではなく、

神の信実(イエス様の十字架の御業)

のゆえに、神が与えてくださる信仰によって、私たちは生きていくことができると言います。

ハバクク書 1章

「驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」(5節)

預言者ハバククは、南ユダ王国に生きた預言者でした。彼は、南ユダ王国で起きている悪に心を痛め、神が何もされないことに、悩んでいました。しかしそんなハバククに、神は言います。

「わたしは生きて働いている。わたしがこれからあなたの時代にしようとしていることをあなたが知ったら、あなたは肝をつぶすだろう。」

私たちは、神が何もされていないように見えて不安を覚えることが多々あります。しかし神は確かに働かれています。私たちが想像も出来ない方法で、神は行動されています。それは、

「自分の目で見なければ信じられないようなことだ」(LB)

と言います。

「主よ、あなたが今生きておられて、私たちの思いをはるかに超えたところで働かれているお方であることを感謝します。すべてを理解することはできませんが、あなたの御業がなされますように。」

ナホム書 3章

「あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい。あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ。」(19節)

聖書の時代にもいじめの問題がありました。いじめる側の論理は、聖書的には通じません。神はいじめられている社会的弱者の叫びを聞かずにおれない方だからです。神はこうおっしゃられます。

「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」(出エジプト22:21-23)

私たちは

「しいたげられている人たちの悲しみを思いやりなさい。」(ヘブル13:3LB)

と親切にすることを命じられています。

ナホム書 2章

「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。」(13節)

ローマ8:31にこういう箇所があります。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」

イエス・キリストを信じて、神の味方となるか、それとも敵となるかは、私たち一人一人の選択です。もちろん、神はすべての人に神の側に立って欲しいと願っています。そもそも、地獄も人のために造られたわけではありません。イエス様も、こうおっしゃられています。

「わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイ25:41)

つまり、地獄は悪魔とその使いたちのために用意されたものです。もちろん、神に並ぶものはいません。神は絶対者です。悪魔はあくまでも堕落した天使の長であり、神と対等ではありません。しかし、神に反抗した悪魔とその使いたちに神は必ず裁きを下されます。私たちはどちらに立っているでしょうか?

ナホム書 1章

「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」(7節)

ナホム書は、アッシリヤ帝国の首都、ニネベに対する裁きの宣告の書です。ですから、全体的に裁きのことばが続くのですが、その中で、突然今日の箇所が登場してきます。それほど、私たちが心に留めておくべきことだからだと思います。神様の裁きの中にあってさえも、私たちが覚えるべきことが三つあります。それは、まず第一番目に、神様は「いつくしみ深い」(良い・GOOD)お方。第二番目に、私たちの苦難の日のとりでとなってくださるお方。そして、第三番目に、主に身を避ける者たちを知っておられるお方、気にかけてくださるお方です。私たちが理解できないことはたくさんあります。しかし、分からないことのゆえに、分かっていることを手放す必要はありません。

ヨハネの手紙 第二

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(9節)

私たちの信仰の土台はいつも聖書である必要があります。行きすぎをして、聖書以外のものを読み込むということはとても危険なことです。聖書に書いてあることよりも大事な教えがあるというならば、それは、

「神様をないがしろにしている」(LB)

ことだと聖書は言います。「聖書は、誤りなき神の言葉である」と信じ、この教えのうちにとどまる人にこそ、

「御父も御子もおられます」(新共同訳)。

いつの時代も、聖書の教えと異なるものを聖書を利用して教える人たちがいます。ですから、私たちはいつも、バック・トゥー・ザ・バイブル、聖書に戻ることが大切です。その判断のためには聖書全体の流れを理解することが重要です。

今日は主の日。共に主を賛美し、礼拝を捧げましょう!

ミカ書 7章

「あなたの石垣を立て直す日、その日、国境が広げられる。」(11節)

ミカ書を書いた預言者ミカは、イザヤ書を書いた預言者イザヤと同時代の預言者です。預言者ミカも預言者イザヤも、神に背を向けたイスラエルの民に裁きを宣言し、その後、神が奇跡を行なわれることを預言しました。この箇所では、やがて神がもたらせようとしているイスラエルの繁栄の約束が記されています。しかし、その日は、どういう日かと言いますと、

「石垣を建て直す日」

であると言います。「石垣」というのは、ご存知のように、重い石を一個一個、コツコツと積み上げていかなければできません。つまり、神様の祝福というのは、コツコツと、誠実に、神と共に歩む中で与えられるものだということです。石垣の石は、石であれば何でもいい訳ではありません。文脈にある「信仰の石」、「赦しの石」、「望みの石」を積み上げていきましょう!

ミカ書 6章

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(8節)

何が良いことで、何を神が求めておられるかが記されています。

第一番目は、公義を行うこと。

神は義なる神ですから、私たちが不正をすることを望まれません。

第二番目に、誠実を愛すること。

「誠実」と訳された英語の単語は、「信仰が満たされる」(faith-ful)と書きます。「信仰に生きること」と「誠実に生きる」ことは、コインの裏表です。

第三番目は、へりくだって神と共に歩むこと。

もっとも、神の方がへりくだり、人となり、私たちと共に歩んでくださいました。神の御子、キリストの十字架のゆえに、キリストを信じる者は、生ける神と共に人生を歩むことができます。自分の力で何でもできると傲慢にならず、へりくだって神と共に歩むことができますように。

ミカ書 5章

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(2節)

預言者ミカは、紀元前八世紀ごろの預言者です。つまり、キリストが生まれる八〇〇年以上も前から、キリストはベツレヘムで生まれると約束されていたのです。さらに、キリストがベツレヘムで生まれることは、永遠の昔からの定めだと言います。ベツレヘムで生まれるキリスト方は、永遠の昔から存在されるお方だと言うのです。ヨハネは言いました。「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)つまり、キリストは、誰かが創造した被造物ではなく、最初から存在される三位一体の子なる神なのです。キリストは十字架の上でイスラエルの支配者になりました。ですから十字架に掲げられた罪状書きは「ユダヤ人の王」でした。