黙示録 5章

「すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」」(5:5)

巻き物は6章で封印が解かれます。

18章に至るまでの全体がこの書に含まれていたことでした。

19章から22章までは、この巻き物の封印を解いた結果が記されています。

つまり、この黙示録の中心に、この巻き物があり、この巻き物を理解しないと、ただ多くの騒動が起こり、最後はうまくおさまったというくらいしか分からなくなってしまいます。

巻き物は、単に裁きを意味するのではなく、この地の所有権を証明する権利証書を意味しています。

完全な人であり、完全な神であるイエス・キリストだけが、人類の罪のために十字架で死に、死の力を打ち破ってよみがえられたので、この権利証書を開くことができます。

ユダ族から出たししという表現は、創世記49:9,10に記されるメシヤ預言です。

黙示録 4章

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」」(4:8)

4章は天上の場面です。

天では神への賛美が永遠に捧げられています。

天使たちが賛美の中で、

「聖なる、聖なる、聖なる」

と三回繰り返している理由は、神は父、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神だからです。

イザヤ書6章でも同じように天使たちが

「聖なる、聖なる、聖なる」

と三回繰り返しているのはこのためです。

有名な讃美歌66番はこの神学理解が土台となっています。

「聖なる、聖なる、聖なるかな、

み手のわざなる ものみなは、

三つにいまして 一つなる

神の大御名 ほめ奉らん」

三位一体なる神をほめたたえます!

すごい時代です

先週木曜日のHOP理事会において初めて現地とのオンライン交流を行いました。

それにしてもすごい時代になりましたね。

インターネットの普及によってバングラデシュの、しかも全くメインの都市でもない場所と、リアルタイムでやり取りができるなんて。

英児先生が最初HOPを訪問した6年前は電話もインターネットもほぼ無理だったことを考えると、バングラデシュ自体も急速に変化しているのだと思います。

それにしてもHOPの子どもたちの笑顔に励まされました。

小学二年生の子どもたちに「何が一番楽しいですか」と聞いたところ「勉強」「食事」との返事が。

食べることができること、学ぶ機会が与えられていることがどれほど感謝なことかをよくわかっているようでした。

イエス様を信じ、真剣に課題に取り組む子どもたちはバングラデシュの未来です。

これからも出来る限り支えていきたいとの想いを新たにしました。

わたしたちの主にある家族であるHOPの子どもたちを、これからもどうぞよろしくお願いします。

(小山晶子牧師夫人)

黙示録 3章

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)

キリスト教は宗教ではなく関係であると言われます。

食事を共にするというのは、親しい交わりを意味しています。

生ける神、世の光、キリストは、私たちとの親しい交わりを望んでいますし、私たちも必要としています。

賛美を捧げる中で、祈り、聖書を読み、キリストのからだである教会の交わりを通して、日々、キリストとの関係を築き、私たちは満たされ、養われ、導かれ、成長していきます。

しかし、このキリストとの関係が失われるならば、この3章に出てくるラオデキヤの教会のように生ぬるい状態になってしまいます。

キリストは、私たちの心のドアをノックされます。

心の扉を開けて、キリストを日々歓迎しましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

黙示録 2章

「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(2:10)

「十日の間、苦難にあう」という意味は、文字通り十日間ではなくて、特に定まっていない期間を現す時、「長く継続する期間」を表すときに使われました。

しかし同時に、十という数字は終わりがあることも意味します。

私たちは今、このような生活がいつ終るのだろうか、限りなく長く続くように感じているところだと思います。

しかし、イエス様は、私たちの苦しみの先にあるものを見なさいと言うのです。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

黙示録 1章

「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。」(1:10)

「主の日」は、イエス・キリストが復活された日曜日のことです。

教会ではこの日を特別な日、礼拝の日として定めて、必死で守ってきました。

主の日にヨハネは御霊に感じ、イエス・キリストの声を聞きました。

もちろん、毎日、聖霊を感じることができます。

毎日、主の声を聞くことができます。

しかし、主の日は特別です。

イエス・キリストは、教会を象徴する金の燭台(12節)の真中から語られたとあります。

地域教会のただ中に、イエス・キリストはおられ、語られるということです。

地域教会は世界の希望です。

なぜなら、教会の真中にイエス・キリストがおられ、今も聖書のみことばを通して語られているからです。
神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(8節)

ユダ

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3節)

信仰生活に戦いはあります。

異端と呼ばれる教えが狡猾に入ってきて、私たちを信仰の道から脱線させようとするからです。

この手紙の中で問題になっていた人たちの特徴を16節に見ることができます。

彼らはいつも不平を言うだけで、ただ欲望のままに歩んでいます。どんな悪事でも平気で行い、大口をたたき、彼らが少しでも人をほめるとすれば、相手から何かをもらおうという魂胆がある時だけです。」(LB)

また、19節にもこのようにあります。

彼らはこの世の悪を愛し、人々をあおりたてて議論をしかけ、分裂させます。彼らの心の中には、聖霊が住んでおられないのです。」(LB)
パスワードは「ありがとう」です。

3ヨハネ

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(2節)

この箇所は「三拍子の祝福」と呼ばれます。

一、たましいの幸い。

二、すべての点で幸い。

三、健康。

これらのために祈ることは大切です。教会は互いの祝福のために祈り合う所だからです。

時々、すべての点で幸いを得ていない人、健康でない人は何か問題があるから、信仰が足りないからと、考える方がいますが、そうとは限りません。

使徒パウロもテモテも、肉体的に健全とはいえませんでした。

問題を抱えていましたが、信仰に問題があったわけではありません。

使徒パウロはこう説明しています。

私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリ12:9,10)

2ヨハネ

「私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。」(1節)

私たちは愛されていることを聞く必要があります。

聖書ははっきりと、私たちは愛されていると言います。

私たちは愛されていることを知る必要があります。

イエス様はご自身を「真理」(ヨハネ14:6)と呼ばれました。

ですから、「真理を知っている人々」とはイエス・キリストを信じる人たちということです。

イエス・キリストを信じる人々は互いに愛し合うことが命じられています。

私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。」(6節)

イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たち」(7節)とは、霊肉二元論を主張した異端です。

霊的なものは優れていて、物質的なものは劣っていると考えたので、キリストが人(肉)となったはずがないと主張しました。

キリストが人となられたことを信じることは、目の前の人たちを大切にすることです。

1ヨハネ 5章

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(5:14)

祈りというのは、自分の思いをこの地上に実現させるための道具ではありません。

祈りは、神の思いを共有し、この地上に神のみこころを実現させるための道具です。

イエス様は、この地上でこのように祈られました。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)

祈りは、神が私たちに願いを起こさせ、神のみこころをこの地上にもたらせるものです。

だから使徒パウロは言いました。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

神は、私たちの祈りを用いて、神の御国をこの地にもたらされます。

だから、何事でも神のみこころにしたがって願うことには意味があります。