イザヤ 17章

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(7、8節)

 本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分が作った考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。

「創造主なる主よ、私は、あなたに目を向けます。自分の考えではなく、聖書のことばに目を向けます。」

イザヤ 16章

「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」(5節)

 この世界の終りに、イエス・キリストは恵みによってこの世を治められるという預言です。完全な支配は、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、すでに、イエス・キリストの統治はこの世界に始まっています。死からよみがえられたイエス・キリストは今、天のみ座にあげられ、父なる神の右に座しておられます。「イエスは主」という時、私たちはこのイエス・キリストの統治を認め、告白しているのです。

今日は、主の日です。王の王、主なる主、我らの救い主、イエス・キリストに賛美と礼拝を捧げましょう!

イザヤ 15章

「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び失せた。ああ、一夜のうちに。キル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」(1節)

 モアブという地名は聖書の中で幾度となく登場します。有名なところでは、ルツ記のなかでルツが「モアブの女」、つまりモアブ出身であったことが記されています。イザヤ書15章は最初から最後までモアブに対する厳しい宣告が書かれていますので、読んでいると絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、そんなモアブ人ルツの子孫からこの後に救い主が誕生するのです。マタイの福音書の1章に、アブラハムからイエス・キリストまでの系図が出てきますが、わざわざ『ルツによって』と、記されています。暗闇から光へと導きだしてくださる主が、今日も私たちと共におられることを覚えつつ歩みましょう。

イザヤ 14章

「あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合
の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(13‐14節)

 この箇所は一般的にサタン(悪魔)について言及している箇所だと考えられて
います。創世記の最初、エバを誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するよう
になったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代
も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。権力に対する欲求は昔も今も変わ
りません。しかし、イエス様は、弟子たちの内にある権力への欲を見抜いてこう
言われました。
『あなた方の間でえらくなりたいと思う者は、皆に仕えるものに
なりなさい。』
そして自らそれを実行されました。私たちもイエス様にならう者
となりたいと思います。

イザヤ 12章

「あなたがたは喜びながら 救いの泉から水を汲む。」(3節)

 この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていた踊りの原型だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に祭司がギホンの泉から水を汲み、神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』

イエス様こそ、わたしたちの救いといのちの源泉です。

イザヤ 11章

「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもってよるべのない者をさばき、公正を持って国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」(3-4節)

 この節での『この方』とはその前後の文脈から見てイエス・キリストを指していることは明らかです。そして、今日示されている箇所は、まさにイエス様がその三年半の公生涯の中で人々に示されたものでした。イエス様は父なる神との時をなによりも喜ばれ、外見や人のうわさで人を裁くことはありませんでした。どんな人にも公正な態度を持ち、一見信仰深そうに見える律法主義に対しては厳しい態度で臨まれました。私たちはイエス様と正反対な態度に陥らないように注意していきたいと思います。

イザヤ 10章

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵
でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のよう
に、住民をおとしめた。』」(13節)

 イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されて
います。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書
は、ちょうど北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。
イザヤが活動していた南ユダ王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされ
ていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することがで
きます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしま
うのです。首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認
されています。どんな強国も栄枯盛衰していくように、全能者ではありません。
まことの神のみが、全能者です。

イザヤ 8章

「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(19節)

 霊媒や口寄せといったたぐいのものは、世界中に存在していますが私たちの住む日本において特に人々の関心が高いように感じます。神様がこれらを忌み嫌う理由は、生ける神ではなく、死人に伺いをたてようとする姿勢です。『民は、自分の神に尋ねなければならない』と記されていますが、私たちは問題の渦中で、誰に尋ねているでしょうか?祈りに導かれているでしょうか?聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

イザヤ 7章

「ところが、『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に
告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺し
た。」(2節)

 この当時、すでにイスラエルは北と南に分裂していました(北イスラエルと南
ユダ)。そして南ユダ王国に対して、アラム(シリア)と北イスラエルが攻めの
ぼるのですが、南ユダの首都であったエルサレムは陥落しなかったということが
ここでの内容です。つまり、南ユダがこの戦いに勝利をした、ということです。
にもかかわらず南ユダ王国(ダビデの家)の王も民もアラムと北イスラエルが同
盟を結んだといううわさを聞いただけで激しく動揺しました。こういうことは私
たちの人生にもよくおこります。敵を過大評価しすぎてしまうと恐れや不安で
いっぱいになってしまいます。問題を大きくしすぎないように、神の偉大さに目
を向けることができますように。

イザヤ 6章

 「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(8節)

 聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約2500年前、神様がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神様の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは

「ここに、私がおります。」

から始まります。神様はあまねく全地を見渡して、神様のために生きていく人を探しています。神様への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神様の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。