ルカ 8章

「イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」」(25節)

弟子たちは、イエス様と共に、湖の向こう岸に渡りました。イエス様が

「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」

と言われたからです。しかし、その道の途中で突風が吹き下ろしてきて、水をかぶって危険になりました。それで、弟子たちは眠っていたイエス様を起こして言いました。

「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」

するとイエス様は起きて風と荒波をしかりつけ、風も波も治まりました。

イエス様のみことばに従順して、イエス様と共に歩んでいても、突風が吹くことがあり得るということだと思います。しかし、イエス様が導かれたならば、イエス様が最後まで導いてくださることを信じる必要があります。

今年も一年間、今日まで導かれたことを感謝します。

明日は、13時半より、新年礼拝です!

 

ルカ 7章

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(7節)

百人隊長は、自分がひと言命令するだけで、部下が動くのだから、神の御子のひと言が、どれだけ影響力があるのか、よく、理解していました。それで、イエス様に、「ただ、おことばをいただかせてください」と言いました。イエス様は、そんな百人隊長の信仰をほめられました。私たちも、この百人隊長のような信仰が必要です。聖書の本当の著者は聖霊なる神様です。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

百人隊長のように、聖書のみことばに対する信仰をもつならば、生ける神の現実を体験することができます。

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)

ルカ 6章

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(36節)

聖書の神はあわれみ深いお方です。そして、私たちにもあわれみ深くあることを求められます。具体的には次節以下にこのように書いてあります。

「人のあら捜しをしたり、悪口を言ったりしてはいけません。自分もそうされないためです。人には広い心で接しなさい。そうすれば、彼らも同じようにしてくれるでしょう。」(37節LB)

「また、自分の目に大きなごみが入っているのに、どうしてほかの人の目の中にある、小さなちりを気にするのでしょう。自分の目の大きなごみで、よく見えもしないのに、どうして『あなたの目にごみが入ってるから、取ってあげよう』などと言うのでしょう。偽善者よ。まず自分の目のごみを取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、ほかの人の小さなごみを取ってあげることもできるのです。」(41,42節LB)

ルカ 5章

「そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」」(31、32節)

イエス様が招かれるのは、正しい人ではなく、罪人だと言います。自分は大丈夫という人ではなく、問題を抱えている人を招いて、その思いを変えるために、イエス様は来られて、ご自身の 教会を建てられました。ですから、教会は完全な人の集まりではありません。それぞれ、様々な問題を抱えつつも、聖霊に内側から変えていただく場所です。私たちはイエス様が招かれている一人一人に尊敬をもって接する必要があります。神の目には一人一人は高価で尊いからです。もっとも大切なことは、まことの医者、イエス・キリストが必要という自覚です。

今日は今年最後の主の日。主を歓迎し、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 4章

「主の恵みの年を告げ知らせるために。」(19節)

イエス様が故郷のナザレの会堂で開かれた箇所はイザヤ61章でした。

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、」(1、2節)
ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルの人々にとってみれば、

「神の復讐の日を告げ」

という部分は大切な一節だったと思います。

しかし、イエス様はあえてその手前で

「書を巻き、係の者に渡してすわられた。」(20節)

と聖書は言います。

イエス様のメッセージは、復讐の日のメッセージではなく、恵みの年のメッセージでした。

だから聖書は言います。

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

「あなたの恵みのメッセージを語り続けられますように。」

ルカ 3章

「ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(16節)

ヨハネの人生ははっきりしていました。ヨハネはイエス様を指し示すことを人生のテーマにしていました。「バプテスマ」という言葉は浸すという意味があります。ヨハネは自分は水に浸すことしかできないが、イエス様は聖霊と火とで人々を浸すことができる力のある方だと言いました。ヨハネの人生は教会のあるべき姿を示しています。まず第一に、一人でも多くの人が、イエス・キリストを信じて、水のバプテスマ(洗礼)を受けることができるように仕えていくことです。そして、ヨハネがそうであったように、自分たちではなく、「力のある方」、イエス・キリストを指し示すことです。

ルカ 2章

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)

天使たちは「この方こそ主キリストです。」と言いました。この表現を聞いたユダヤ人の羊飼いたちは、それが何を意味していたか、すぐ理解できたと思います。すべてのユダヤ人は、「主キリスト」を待ち望んでいたからです。「キリスト」は、イエス様の名字ではなく、ユダヤの言葉で「メシヤ」と呼ばれるタイトルです。イエス様が生まれる数百年前に、イザヤという預言者が、この「メシヤ/キリスト」についてこう預言しました。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ9:6)

イエス・キリストは、この後、十字架にかかり、死ぬことによって、神の王国を打ちたてられました。

今日はクリスマス。イエス様のご降誕を感謝します。

ルカ1章

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(45節)

神に不可能なことはありません。ですから、神が語られたことは必ず実現すると信じきって生きるという姿勢はマリアだけでなく、私たち一人一人にも大切です。神のみことばである聖書には、たくさんの約束が記されています。それらの一つ一つを必ず実現するとしっかりと握り締めることは大切なことです。もちろん、その実現を見るのには時間がかかります。マリアもイエス様を胎に宿して出産するのには時間がかかりました。九ヶ月以上はかかったはずです。しかし、神の時は必ず訪れます。私たちが想像しているほどその日は遠くはありません。

今日は、クリスマス・イブ。まさに、神が語られたことが実現した日です。不可能が可能となった日です。イエス様のご降誕を感謝すると同時に、聖書のみことばが真実であることを覚えたいと思います。

マルコ 16章

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(20節)

イエス様は十字架にかかられ、私たちの罪をあがなうために死なれましたが、三日後に死の力を打ち破りよみがえられました。そして、「天に上げられて神の右の座に着かれた。」(19節)つまり、イエス様は今生きておられます。イエス様は弟子たちに出て行って福音を宣べ伝えることを命じられましたが、聖書ははっきりと「主は彼らとともに働き」と書いてあるように、イエス様は今生きておられ、一緒に働いてくださるお方です。福音を伝えようとする時に、実は、イエス様が一緒に働いてくださると言うのです。ですからイエス様の現実を感じる一番いい方法は、福音を伝えることです。福音を伝えていく中で、共に働いてくださるイエス様の現実を体験します。このクリスマスの時、一人でも多くの人に伝えることができますように。

マルコ 15章

「キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」(32節)

人々は、どうしてイエス様が十字架にかかられていたか理解しませんでした。あれだけ多くの奇蹟を起こされたイエス様がどうしてつけられたままか考えもしませんでした。イエス様を十字架につけていたのが、釘ではなく、私たちに対する愛であったことを。そして、自分たちの思い通りに動いてくれない神は信じられないと言いました。私たちも、同じようなところがあるのではないでしょうか。また、「こうしたら信じてやる」という言葉にも私たちは惑わされないように気をつける必要があります。イエス様はそのような求めに対しては、反応をされず、聞き流さました。私たちもそのような人のことばに操られるのではなく、神のみこころを行うことに心を留めていく必要があります。