pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

マルコ 15:33-47

「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(15:38)

「神殿」は天と地が重なる場所です。

しかし、当時の「神殿」はあるべき姿を失っていました。

「神殿」を利用して、祭司長たちは、自分たちの考える「正しさ」
でイエス・キリストを十字架につけたのです。

そして、十字架は神殿の幕を裂きました。

神殿の役割は、今、起こった十字架の御業によってとって代えられたということです。

今からは、生ける神の臨在の中への道は、神の御子、イエス・キリストの死を通して、すべての人に開かれたということです。

マクグラス教授はこの様に説明しています。

「十字架は、神とはこのようなものであるに違いない、とか、神とはこのような関係で会えるだろうというような先入観を捨てて、ゴルゴタの丘で神に会うようにと、促します。」

マルコ 15:24-32

「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」(15:31,32)

神の御子に対する恐ろしいほど上から目線の態度に人間の傲慢さを見ます。

自分たちの思い通りに動いてくれたら信じるというのです。

人はどこに神を探すべきでしょうか。

自分が見たい場所、自分が選んだ場所に神を探しても見出すことはありません。

多くの人は、自分が考えるように、自分が望むように、神を見出すことができないので、神は不在だと結論づけます。

それがこの時イエス様の十字架を見ていた祭司長や律法学者たちです。

人は「神はこうあるはずだ」という自分が作りあげた枠組みを外して、神が人に与えられた場所に目を向けなければなりません。

マルコ 15:16-23

「それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」(15:20)

キリスト教のロゴは十字架です。

しかし、それは処刑の道具でした。

ローマ人は、権力を保持し、帝国内の秩序を維持するための手段として十字架を用いました。

受刑者たちが苦しみ死んでいく様子をわざと公共の場でさらし、抑止力としたのです。

十字架刑はユダヤ教においては神の呪いを意味しました。

「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」(申命記21:23)

とあるからです。

要するにイエス・キリストは十字架にかかり、のろわれた者となる必要がありました。

聖書は言います。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)

だから使徒パウロは言います。

「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが」(1コリ1:24)

春一番

春一番が吹き荒れた先週。

それと同時にかたく閉じていた教会の梅の蕾が少しずつ変化し始め、毎日眺めては楽しんでいます。

「春一番」とは季節が冬から春へとかわる時期(立春を過ぎてから)に、初めて吹く暖かい南よりの強い風のことだそうで、関東では昨年より2週間早かったそうです。

ジェニーも本格的に目覚めたようでいつもの餌を食べ始めました。

冬の間家の中に水槽を入れていましたが、先週半ばから外に出していますのでまた是非覗いてみてやってください。

そしてこの時期といえば確定申告、、、。

もうそんな時期かと時の流れるスピードに少々慄きつつ、月末までの提出を目指してがんばります。

卒業し社会人として新たな一歩を踏み出す人、進級する人など大きな変化を控えている方々にとってはテイクオフする前の大切な時期でもあります。

しっかり助走をつけて翔けますようにとわたしたちも祈ります。

聖霊さまの助けをいつも求めながらあゆむ日々でありますように。

嵐吹き荒れるような日々の中でも信仰の翼を広げて聖霊の風に乗ることができるよう祈ります。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 15:1-15

「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

イエス様が沈黙されたのには理由がありました。

それは、イザヤ書53章に出てくる「苦難のしもべ」です。

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(7節)

イエス様はご自身をこの「苦難のしもべ」として示されました。

その姿は、バラバと比較することによって際立ちます。

バラバは典型的なユダヤ人の反逆者でした。

彼は暴力によって、ローマ帝国を破ることによって、神の国をもたらすことを心に決めていた人でした。

イエス様は暴動を扇動することもなく、静かに、私たちを救うために、十字架にかかって死ぬことによって、神の国をもたらされました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 14:66-72

「するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」(14:72)

ペテロはこの時まで、イエス様の忠実な弟子でした。

それがこの時、もろくも崩れたのです。

実は、四福音書すべてに、このペテロの惨めな姿が描かれていています。

それは、「本当は、信仰はここから始まる」と訴えているかのようです。

もちろん、それに気づいて始まる人もいますし、ついに始まらない人もいます。

自分の弱さ、欠けを見せつけられ、自分に絶望し、どっと泣き崩れたその時、この時、同時になされたイエス様の宣言が生きてきます。

「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

泣き崩れたペテロだからこそ、立ち返ることができました。

マルコ 14:53-65

「そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」」(14:62)

このイエス様の発言は、二つの聖書のみことばが結び付けられたものです。

「主は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」」(詩篇110:1)

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」(ダニエル7:13)

どちらの箇所もメシアに言及しています。

イエス様は、この二つを組み合わせることで、明確な宣言をしています。

イエス様は自らが、権威の座、すなわち、全世界に君臨する天の御座において神の右に座していることを主張したのです。

神のご自身の全世界に対する主権を、主張したのです。

マルコ 14:43-52

「イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。」(12:48)

イスカリオテのユダ、そして、当時のユダヤ人たちの誤解は、彼らが剣や棒を持ってきたところに如実にされます。

それは、イエス様が断固として拒んできた革命的指導者としてのメシア像でした。

イエス様は抵抗することなく捕らえられることによって、最後まで彼らのメシア像にのることはありませんでした。

イエス様の真意はマタイの福音書に明確です。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」」(26:52-54)

マルコ 14:32-42

「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」」(14:32)

この箇所は有名なゲッセマネの祈りの箇所です。

ライト師はこんなことを言います。

「クリスチャンの祈りは、二つに割れた断層の境目に立って祈るようなものである。それは、両側から引っ張られる二本のロープの端をつかみ、必死で結ぼうとするかのように、ゲッセマネの園でひざまずき、天と地を結びつけようと、生みの苦しみでうめくイエスによって形作られている。」

ゲッセマネの祈りでイエス様が苦しまれた理由は、神の領域である天と、私たちが生きるこの地を結び付けるためだったと言います。

イエス・キリストを信じるということは、このイエス・キリストによって結び付けられた天と地が重なり合う地点で生きることに召されているということです。

天と地が重なり合う地点は、ある意味、ゲッセマネの園のような場所です。

※ 教会暦では今日は灰の水曜日。今日からレント(受難節)が始まります。

 

マルコ 13:22-31

「そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。」(14:26)

イエス様はこの後何が起こるかご存じでした。

この後に大きな試練が待ち受けていると知っていたら、私たちならば何をするでしょうか。

イエス様は賛美の歌を歌ったと聖書は言います。

過越の食事における締めくくりの賛美の歌は詩篇一三六篇でした。

この賛美の歌には少なくとも3つのポイントがあります。

第一に、神に感謝すること。

第二に、神が良いお方であるということを認めること。

第三に、神の真実が永遠であることを認めること。

イエス様はこれから起こる大きな試練の前に、神が良いお方であると、神の真実が永遠だと、神に感謝し、賛美の歌を歌ったのだと思われます。

つまり、賛美の歌を歌い続けること、それが、イエス様が試練に立ち向かうためになされたことだったというのです。

「歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」(聖歌498)