pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

2列王記 16:10-20

「彼は、宮の中に造られていた安息日用の覆いのある通路も、外側の王の出入り口も、アッシリアの王のために主の宮から取り除いた。」(16:18)

主の宮は、主のために造られているはずなのに、「アッシリアの王のために主の宮から取り除いた」と言います。

神を恐れることを忘れたアハズ王は、人を恐れるようになります。

教会も、人間中心になってしまうならば、何のために存在しているのか分からなくなってしまいます。

教会がいつも優先すべきは、神であり、神の御言葉である聖書です。

人々が望むことを優先してしまうならば、神の宮とは呼べなくなってしまいます。

アハズ王は、聖書ではなく、ダマスコにある祭壇に似せたものを作らせました。

聖書の御言葉よりも、この世のやり方を取り入れていくならば、それはもう教会とは呼べません。

聖書が信仰と生活の唯一の規範です。

2列王記 16:1-9

「アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物としてアッシリアの王に送ったので、」(16:8)

危機の時に誰に助けを求めるかが、その人の信仰を表します。

アハズ王はアッシリアに助けを求めました。

また、私たちが何に自分の経済を注ぎ込んでいるかがその人の信仰を表します。

アハズ王は神殿の財宝をアッシリア王に注ぎ込みました。

その結果、アッシリア王は彼の願いを聞き入れ、シリアと北イスラエルの連合軍を打ち破ります。

しかし、ユダの国はアッシリア王国の支配の下で苦しめられることとなります。

要するに重要なことは、信仰の対象です。

神以外のものに信仰を持つならば、一時的な解決が得られるかもしれませんが、結局、より大きな問題を抱えることとなります。

ただ神に信仰を持つことが大事です。

2列王記 15:27-38

「そのころ、主はアラムの王レツィンとレマルヤの子ペカを、ユダに対して送り始められた。」(15:37)

主がシリアと北イスラエルの連合軍を送ったという意味は、信仰のテストとして神が許可されたということだと思われます。

実際、この出来事はイザヤ書7章で取り上げられています。

預言者イザヤは、主に信頼しないアハズ王に言います。

「あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない。」(イザヤ7:9)

残念ながら、アハズ王は預言者イザヤの言葉に耳を傾けずにアッシリアに助けを求め、結果的にアッシリアに自らも苦しめられることとなります。

聖書は言います。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

2列王記 15:13-26

「ヤベシュの子シャルムは、ユダの王ウジヤの第三十九年に王となり、サマリアで一か月間、王であった。」(15:13)

10節に「ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。」とあるように、シャルムは謀反によって、権力を手にしました。

しかし、シャルム自身も、謀反によって、王位を奪われます。

彼の統治は1ヶ月間だったと言います。

傲慢になったネブカデネザル王に、天使はこのように言いました。

「いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」(ダニエル4:32)

栄枯盛衰と言われるように、この世の権力は過ぎ去っていきます。

歴史が教えるように、どんなに最強に見えた人も国も滅んでいきました。

暴力が最終的に世界を支配することはありません。

最終的には神のみこころが行われます。

ですから、私たちは謙遜になる必要があります。

2列王記 15:1-12

「主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。」(15:5)

アザルヤは、歴代誌ではウジヤという名前で呼ばれています。

列王記では、何があったか詳しく記されていませんが、歴代誌には詳しく記されています。

「しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。」(2歴26:16)

ウジヤ王は祭司たちの言葉に耳を傾けることなく、祭司しかしてはいけないことをしました。

そのために、ツァラアトに冒された者となったのです。

聖書は繰り返し語ります。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:5,6)

2列王記 14:17-29

「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」(14:25)

有名なヨナ書はこのように始まります。

「アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。」(ヨナ1:1)

明らかに、今日の箇所に出てくるヨナとヨナ書のヨナは同一人物です。

ヨナは北イスラエルで活躍した預言者だったことがこの箇所から垣間見ることができます。

また、イスラエルの領土の回復を語った、愛国心の強かった預言者であったと考えられます。

そう考えると、北イスラエル王国を滅ぼすことになるアッシリア帝国の首都、ニネベに行って、悔い改めのメッセージを語ることは、死んでも嫌なことだったことが分かります。

しかし、神のみこころはすべての人が悔い改めて、救われることです。(2ペテロ3:9参照)

桃の香り

甲府カルバリ純福音教会の方から桃が届きました。

「規格外で売り物にならない桃ですがたくさん頂きましたので、失礼とは思いましたが香りを楽しんでください」との手紙が添えられ、箱を開けると桃の甘い香りが部屋いっぱいに広がり、幸せな気持ちになりました。

早速剥いて食べてみると完熟ならではの非常に強い甘みと滴るほどのジューシーさ!

何よりも私たちを覚えて桃を送って下さったこの方の愛を感じ、嬉しい気持ちで満たされました。

来週の日曜日、小山先生とエリヤスとアニーはこの甲府の教会に奉仕へ行くことになっています。

栄シャロームの礼拝は坪井永城先生(大和カルバリーチャペル副牧師)がメッセージを取り継いでくださいます。

初めて坪井先生にお会いする方も多いと思いますが、気さくでエネルギッシュな先生ですので是非楽しみにしていてください!

祈りつつ備えていきたいと思います。

また、日曜日の早朝甲府へと出発する小山牧師一行のためにもお祈りください。

桃の香りを携えて無事に戻ってくることができますように。

(小山晶子牧師夫人)

2列王記 14:1-16

「モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。」(14:6)

アマツヤ王は「主の目にかなうことを行った」(3節)とあります。

それは、当時の世界の常識ではなく、聖書に基づいて決断していたことから分かります。

ところが、エドム人との戦いに勝利したことによって傲慢になってしまいます。

彼はエドム人の神々を自分の神々として礼拝し始めます。

そのことを忠告するために神が遣わされた預言者に、彼は言います。

「われわれはおまえを王の助言者にしたか。やめよ。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。」(2歴25:16)

聞く耳のない王に預言者は言います。

「私は、神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこのことを行い、私の勧めを聞かなかったからです。」

聖書は警告します。

「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」(黙示録2:7)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう!

2列王記 13:14-25

「それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」(13:18)

ヨアシュ王は矢をとって、地面を打ちました。

1回、2回、3回、そして、止めました。

古代の戦いというのは1、2回で決着がつくようなものではありませんでした。

1回目ははじまり。

2回、3回は、相手を後退させる程度です。

5回、6回戦って、やっと決着がつくことができました。

つまり、ヨアシュ王が、3回で、地面を打つのをやめたというのは、勝利するまで戦い続けるのはしんどいから、自分が生きている間はなんとかやり過ごせればと考えたということだと思われます。

エリシャはヨアシュ王の「こんなものでいいや」という姿勢に怒ったということです。

私たちの祈りの手の上には、主の御手がのせられています。

あきらめずに地面を打ち続ける、祈り続ける信仰生活を、歩んでいきましょう!

2列王記 13:1-13

「しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。」(13:4)

士師記と同じサイクルがここでも繰り返されます。

イスラエルの民は罪を犯し続けます。(2節)

神は、シリアの王、ハザエルがイスラエルを攻めるのを許されます。(3節)

しかし、エホアハズ王が主に願ったので、神は「一人の救う者」を与えます。(5節)

「それにもかかわらず」イスラエルの民は悔い改めず、罪を行い続けます。

エゼキエル書で、神は民にこのように言います。

「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば─。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(18:23)

神は「エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた」と言います。

神は悪しき者の死さえも喜ばれません。

すべての人が悔い改めて生きることを願われています。