pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

箴言 2:1-22

「正直な人たちは地に住まいを得、全き人たちは地に生き残る。しかし、悪しき者たちは地から断たれ、裏切り者たちは地から引き抜かれる。」(2:21,22)

箴言は、神が私たちに与えてくださったこの世における一般的な法則です。

この世の一般的な法則はこれです。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。悪人はせっかく幸運を手にしても失い、やがて破滅に至るのです。」(LB)

神との関係が正しくない時、私たちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされていても、心のどこかに隙間を感じます。

イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使います。

これは、

神とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?

という意味があります。

あなたと神との「シャローム」はいかがですか。

もし、告白していない罪があるならば、いま神に告白し、赦していただきもう一度神との正しい関係に入れていただきましょう。

箴言 1:20-33

「知恵は大通りで叫び、広場でその声をあげ、」(1:20)

知恵は大通りで叫び」とあるように、求める者は、誰もが見出すことができるものだと聖書は言います。

ユージーン・ピーターソンはこんなことを言っています。

箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。

私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。

私たちの髪の毛の数さえ知っているお方ですから。

ですから、家族生活の問題も、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱っています。聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。つまり、聖書は「大通りで」叫ぶ声とあるように、生活の現場に関わるものです。「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。」(7節LB)

わたしはというと

結婚以来初めてだと思います。

全くの一人ぼっち。

これまで何度も留守番の経験はしてきましたが完全に家に一人ということはありませんでした。

もっと淋しいのかと思いましたがいろいろとやらなければならないことがあり、しかも先週は実家の両親の顔を見に行ったりもしたため、あっという間に日曜日を迎えたという感じです。

現地からの報告では大塚牧師が体調を崩しているとのこと。

どうぞ回復のためお祈りください。

 さて、わたしはというと今晩から長男がオーケストラのオーディションのため戻ってくるとのこと。

「一人じゃ寂しいだろうから水曜までいてあげるよ」だそうです、、、。

木曜日には宣教チームが帰国予定なので、何というか、結局まるっきり一人という日がほとんどないままとなりそうな予感。

日々平安の中で過ごせるのは皆さまのお祈りに支えられているからだと思います。

あと4日、宣教チームが神様に導かれていること、やるべきことを全う出来るよう引き続きお祈りください。

今日は小山牧師の親しい友人である菅原岳先生がメッセージを取り次いでくださいます。

(小山晶子牧師婦人) 

箴言 1:1-19

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)

主なる神に対して健全な恐れの心を持つことは大切なことです。

知識はそこから始まると聖書は言います。

知識を神とする人々もいます。

知識を得ることが人生の目的という人もいます。

しかし、どんなに知識をもったとしても、まことの神に対する尊敬心がなければ、傲慢な人間を作ります。

聖書は言います。

「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」(Ⅰコリント8:1) 

まことの神に対する敬虔な恐れ、尊敬心、それが、人をへりくだらせ、謙虚さを与えます。

しっかりとこの土台に立った上での知識は、建設的なものとなります。

まことの神に対する敬虔な恐れがあるのならば、いつも神のみことばに耳を傾けます。

そして、神のみことばの指摘に喜んで自分自身を修正しようとします。

聖書を蔑む者、それが聖書が言う愚か者です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 13:18-25

「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」(13:20,21)

聖書の神は「平和の神」、「シャローム」の神です。

それは神が平和を与えられるお方であり、神と人との平和、人と人との平和をもたらすお方であることを示します。

ですから、イエス様は私たちの罪のために十字架で死に、葬られ、よみがえられました。

「これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。」(1コリ5:18,19)

ヘブル 13:9-17

「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」(13:15-17)

クリスチャンの義務が三つ挙げられています。

一つ目は霊的な義務であり、神に賛美と礼拝を捧げることです。

二つ目は道徳的な義務で、他者を助けることです。

三つ目は教会的な義務で、教会の秩序を尊重することです。

神はこのようないけにえを今求められています。

ヘブル 13:1-8

「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」(13:5)

使徒パウロは言いました。

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(1テモテ6:9)

金銭を愛する生活の問題は、それに縛られてしまうことです。

神よりも富を優先するならば、人は正常な価値観を失い、人生は崩壊していきます。

聖書はそれよりも、神が私たちを見放すことも、見捨てることもないことに満足するようにと言います。

それはまた、金銭を正しく管理することを意味します。

ある宣教師は貧しい学生を助け、こう言ったそうです。

「これはイエス様が与えてくださったものだから受け取りなさい。後に貧しい弟子ができたら、あなたがイエス様の代わりにあげればいいのです。」

ヘブル 12:18-29

「しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」(12:22-24)

これまでは、「…しようではないか」と勧められていましたが、ここで、「近づいている」という確信を与える励ましへと変わります。

なぜなら、その日が近づいているからです。信仰者は何が目標なのか、そのゴールが見えています。

それは、十戒が与えられたシナイ山ではなく、シオンの山です。

シオンの山はエルサレム神殿が建てられ、神を礼拝する場所でした。

つまり、私たちが近づいているのは「生ける神の都である天上のエルサレム」とあるように、すべての聖徒たちと共に主を礼拝する天のエルサレムです。

ヘブル 12:12-17

「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(12:14)

使徒パウロもこのように言いました。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)

平和を追い求めることと、聖さを追い求めることは、正比例します。

聖書は、祈りを怠り、聖められていない心から、争いが出てくると警告します。

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。」(ヤコブ4:1)

16節に出てくるエサウの問題もこの聖さと関係しています。エサウ症候群は、霊的なことを軽視し、肉的な欲望を満たすことに執着することです。

「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)

ヘブル 12:1-11

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」(12:1,2)

聖書は信仰生活を競走だと言います。

忍耐をもって走り続けようではありませんか

とあるように、競い合うという意味ではなく、走るべき道のりがあるという意味です。

そして、その道から逸れないために、

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい

と聖書は警告します。

イエス様から目を離さなければ、走るべき道のりを走り終え、かの日には、主が義の栄冠を授けてくださいます。