pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

創世記 34:1-35:29

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。」(35:18)

ヤコブの妻のラケルは、たいへんな難産だったので、生まれた子をベン・オニ、「私の苦しみ(悲しみ)の子」と呼びました。ところが父親のヤコブは、ベニヤミン、「私の右手の子」と名づけました。新共同訳では「幸いの子」と訳しています。ラケルは「苦しみの子」だと言ったのに、ヤコブは、「それは違う。幸いの子だ。」と言ったのです。私たちはヤコブの信仰に学ぶ必要があります。ヤコブは苦しみは幸いに変わると告白したのです。誰が何と言おうと、私たちも信仰をもって宣言しましょう。「私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。」(ローマ8:28LB)

創世記 32:1-33:20

「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」(32:31)

ヤコブは神の御言葉を握って、約束の国に戻ってきました。しかし、自分がだました兄のエサウに殺されると恐れていました。ヤボクの渡しのところで、家族を渡した後、ヤコブは自分だけそこに残りました。ヤコブはそこで「ある人」(受肉前のキリストと言われます)と格闘します。ヤコブの自我(エゴ)があまりにも強かったため、「その人」も彼を負かすことができません。それで、ヤコブのもものつがい、すなわち、関節をはずしました。彼は片足を引きずらなければならなくなりました。もう誰からも逃げられなくなってしまったのです。どう見ても負けたのはヤコブの方ですが、神はヤコブが勝ったと言い、彼を祝福しました。神の祝福は、自我が砕かれることによってもたらされます。それが、たとえ足をひきずる人生を意味していたとしても。

創世記 31:1-55

「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。』」(31:3)

神はヤコブに約束の地に戻るようにおっしゃられました。叔父のラバンも、ラバンの息子たちも、ヤコブに対して悪口を言い始めていました。しかし、彼は居心地が悪くなったから帰ることにしたのではなく、神のみことばが来たから帰ることを決断しました。これは大切なことです。神が私たちにみことばを与えない限り、私たちは信仰の冒険に踏み出すべきではありません。しかし神のみことばが与えられたならば、自分の感情ではなく、神のみことばに従って、信仰の冒険に踏み出すべきです。神が私たちを導かれる時、神は必ず私たちが立つことができる聖書のみことばも与えてくださいます。聖書は言います。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

創世記 29:1-30:43

「彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。」(29:35)

ヤコブは父をだまし、兄をだまし、憎まれたため、叔父の家に逃走しました。しかし今度は、ヤコブの方が叔父にだまされます。彼は蒔いた種を刈り取ります。(ガラテヤ六・七参照)彼は叔父の次女、ラケルと結婚するために叔父のもとで働きました。しかし、長女のレアと結婚させられてしまいます。ヤコブは結局、両方と結婚します。(注・聖書は一夫多妻制を肯定していません。マタイ一九章・Ⅰテモテ三章参照)ここに悲劇が起こりました。レアは、ヤコブに愛されていないことを知り、努力しました。悲劇ですが、その状況の中で彼女が最終的に主をほめたたえる(ユダの意)ことを選ぶ姿に教えられます。ヤコブの墓に葬られたのはレアです。ユダの子孫からキリストが生まれます。賛美することを選ぶことから奇跡がもたらされます。

うーさみさみ

皆さんは「半日村」というお話をご存知ですか。毎日こうも厳しい寒さが続くと、私はこの「半日村」の『うーさみさみ。これから半日村の話をしようと思うんだが、そう思っただけで身震いが出る。この村はえらく寒い村なんだ。』という始まりを思い出します。山があるせいで日照時間が極端に短く、作物にも健康にも被害が出ているこの村で一人の男の子が立ち上がり、土を運んで山を動かす、というお話です。最初は馬鹿にしていた村人も協力し始めて目的を成し遂げていく様は、当時小学2年生だった私に鮮烈な印象を与えました。信仰生活もこれと似ていると思います。主の御心を掴んで立ち上がり、こつこつと与えられた働きを続けていくならば、やがてそれが周りの信仰者へと伝染し、大きなうねりとなってゆく。自分の背中を見せる、ということでもあると思います。わたしたちはまだクリスチャンでない家族に、友人に、子どもに、どのような背中を見せているでしょうか。と書きながら私自身反省ばかりなのですが、良き模範となるために努力したいと思います! (小山晶子牧師婦人)

創世記 27:1-28:22

「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。」(28:16)

ヤコブは不安の中、石を枕に横になりました。そこで、天のはしごを見、天使が上り下りしているのを見ました。彼は、天が地に介入している光景を見たのです。彼は自分の未来を描くことができない状態でした。彼は兄のエサウを騙し、命を狙われていました。後ろを振り返るわけにはいきません。先が見えなくても、前に進まなければいけません。そのような不安の中、神はヤコブにご自身を現されました。彼のかたわらに立ち、彼に語られたのです。彼は思わず言いました。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

見捨てられたような地、荒野にいても、天は開いていて、天使たちは上り下りしています。神はかたわらに立って、私たちを導いて下さいます。

今日は主の日。神の家である教会で主に礼拝を捧げましょう!

創世記 25:1-26:35

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」」(26:22)

イサクは父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り直しました。しかし、掘るたびにその所有権をめぐって争いが起こりました。それで、別の場所に移っては掘りました。そして、ついに争いがない井戸を掘り当てました。そして、彼は言います。

「とうとう主は、広々とした場所を与えてくださった。もう大丈夫だ。これからはここで繁栄していこう。」(LB)

イサクは、争いのない井戸を見つけるまで、あきらめずに井戸を掘り続けました。私たちも、あきらめずに神が備えられた井戸を掘り当てるまで、井戸を掘り続けていこうではないでしょうか。

創世記 24:1-67

「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。」(24:12)

アブラハムは息子のイサクの妻を見つけるために、一人のしもべを遣わします。彼がまずしたことは祈ることでした。彼は神様が取り計らってくださるお方、恵みを施してくださるお方だと知っていました。彼は「聖なる出会い」(Divine Appointment)を体験しました。神様は、私たちの人生にも「聖なる出会い」を用意されています。今日、神様が出会わせたい人がいます。私たちは、自分のことでいっぱいになってしまって気づかないなんてことがないように気を付けたいと思います。このアブラハムのしもべのように祈り、心を整えていこうではないでしょうか。

創世記 21:1-23:20

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」(22:14)

神ご自身が、いけにえのための羊を用意されました。神は備え主、私たちの必要を備えてくださるお方です。興味深いことにこの「山」は「モリヤ」(2節)の山です。歴代誌第二にこういう記述があります。

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(3:1)

ある学者は、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山とは、イエスが十字架にかかられたゴルゴダのことだと言います。神はそのひとり子、イエスを十字架にかけられました。それは、イエスを信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。神は必要を備えられる備え主です。

創世記 19:1-20:18

「急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」(19:22)

聖書を書いてある通りに理解するならば、この世界の終わりに突然クリスチャンが引き挙げられ(『携挙』と言います)、それから大患難時代と呼ばれる神の裁きがもたらされます。どうして、大患難時代の前にクリスチャンが『携挙』されなければいけないか、その理由が今日の箇所にあります。ロトたちがソドムとゴモラから出るまで、「わたしは何もできないから。」と御使いは言いました。この世界にキリストの教会がある限り、ソドムとゴモラのような神の裁きが下ることはありません。しかし、クリスチャンが取り去られる時、神の裁きがこの地に下ります。その日は必ず来ます。私たちはその日が近いことを意識して、一人でも多くの人に、イエス・キリストを伝えていく必要があります。