pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エゼキエル 33:21-35:15

「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。―神である主の御告げ。―」(34:31)

「あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である」(協会共同訳)と主は言われます。神は神であり、人間は人間であることを認識することはとても重要です。神が羊飼いなら、私たちに欠けることは何もありません。しかし、羊飼いが人間であるならば、話は別です。この章ではイスラエルの指導者たちに対する裁きが語られています。指導者を裁くのは、人間ではなく、神であることが分かります。もっとも、神は全能ですが人間は違います。神は遍在されますが人間は違います。人間は神のように対応することはできません。神に期待すべきことを、人間に期待するなら、がっかりしてしまうことは明らかです。私たちが期待すべき、まことの羊飼いはイエス・キリストであることを心に留めたいと思います。

かぼちゃの行方

うっかり2つ入りの立派なカボチャを購入してしまいました。我が家の男子3人は実はカボチャがあまり好きではありません。後先考えずにシーズンだからと買ってはみたものの、どう調理するかで困っています。一つはとりあえず丸ごとチンして切り分け、冷凍して次男のお弁当にサラダとして登場させてみたのですが、どうだった?と聞いたところ「ああ、一口で食べるのやめた」と言われてへこんでいます。ほくほくしてて、おいしいんですけどね。調理の仕方って難しい。素材の味を生かすのか、素材らしくない味付けにして他のものにまぎれさせてみるのか。煮つけとサラダ以外に何か良い調理方法はありませんか。
さて、聖書の御言葉もときどき調理が難しいものがあります。どう伝えたらわかりやすいのか、本質から外れないで語るのはどうしたらいいだろうか。教会学校では特にこのことに注意が必要です。初めの一口となる言葉ばかりだからです。嫌いにならないように、もう一口食べてみたいと思えるように、試行錯誤しながら準備しています。お祈りください (小山晶子牧師人)

エゼキエル書 32:1-33:20

「あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(33:9)

伝えられたことにどう反応するかは、その人次第ですが、伝える責任は、伝える側にあります。使徒パウロは「返さなければならない負債を負っています。」と言います。私たちは自分たちの力で人を救うことはできません。しかし、伝えることはできます。「ただ伝えればいい」という姿勢は正しくありません。相手に伝わるように、工夫して伝える努力はすべきです。教会は、あらゆる努力をして何とか福音を一人でも多くの人に伝えようと努めます。直接伝える方法もあれば、橋渡しをするような前伝道もあります。いずれにせよ、「人々にイエス・キリストを指し示すことによって、神に栄光を帰す」ことが私たちの教会の目的です。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 30:1-31:18

「その日は近い。主の日は近い。」(30:3)

この箇所の「その日」とは、エジプトが裁かれる日を指しています。メッセージ訳ではこう訳しています。

「時間切れ。神の審判の大いなる日は近い。」

神がすべてを正される「裁きの日」は来ます。「主の日が近い」という意識をもって生きることは、聖書が私たちに語っている生き方です。聖書は、この世界の終わりにイエス・キリストが再び帰って来られることを約束しています。その日がいつ訪れるか誰も知りません。しかし、いつキリストが帰って来られてもいいように、良い緊張の中で生きるためにも、いつの時代も「主の日が近い」ことを意識する必要があります。「主の日が近い」というのは、希望をもって生きることでもあります。この世界に神が介入される「主の日が近い」と意識するならば、希望があります。「その日は近い。主の日は近い。」と、信仰的に、前向き、肯定的に生きていくことができますように。

エゼキエル 28:1-29:21

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(28:2)

イエス様は

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

と言いましたが、ツロの問題は富でした。莫大な財産のゆえに自分を神のようにしてしまったのです。しかし、人は神になることはできません。アダムとエバの罪は神になろうと思い上がったことでした。サタンも神になろうと思い上がり落とされました。ここではツロの王に対する預言が、サタンに対する預言に変わります。

「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)

人が高ぶり自分を神のようにみなすことは、サタンに騙されている状態です。

エゼキエル 26:1-27:36

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(26:2,3)

ツロは地中海沿岸にある商業都市でした。エルサレムの崩壊を喜ぶツロに対して、神は裁きを宣告します。彼らも紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても喜ぶべきではありません。箴言にもこうあります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。敵が失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら主が心を痛め、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17、18LB)

エゼキエル 24:1-25:17

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(25:8)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、紀元前から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、天地万物を造られた創造主なる神、ヤハウェに対して失礼なことでもあるということです。聖書が教える神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

エゼキエル 22:23-23:49

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(22:30)

神は、ご自身とその国の間、破れ口に立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。私たちはこの世の現実に対して無力に感じてしまいます。自分なんかに何ができるのだろうと思ってしまいます。しかし、神はこの国のために破れ口に立ち、祈る人を捜し求められています。
「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえにリバイバルを与えてください。」

エゼキエル 20:45-22:22

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(20:49)

20章のはじめに、エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきたとあります。その彼らに対し、神はイスラエルの人々がどれほど神をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。これは、御言葉を聴く私たちの姿勢に対する警告と受け取ることができます。真剣に語られている神の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められています。そうでなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

滞在は七時間

オープンチャーチでのご協力、本当にありがとうございました。良い天候に恵まれ、沢山の方々が来てくださり本当に楽しく素晴らしい時間となったことを感謝します!
オープンチャーチの二日前、わたしはリラのコンサートのため名古屋一麦教会に行ってきました。礼拝やオープンチャーチのことを考えると、日帰りを選択せざるを得なかったのですが、短いながらも中身の濃い名古屋での七時間を過ごすことができたと思います。皆さんお祈りを心から感謝します。今年もいよいよ終わりに近づいてきましたが、皆さんのこの一年はいかがだったでしょうか?今月末には感謝礼拝も予定していますので、そろそろ振り返りの時間を持つのも良いかもしれません。私たちの気付いたこと、だけでなく気付かないときにも神様は支え、助け、恵みの内に私たちを歩ませてくださったのだと思います。せめて気付いたことだけでも覚えて感謝をささげる時を持てたら、、、穏やかな青空を見上げながら、そんなことを考えている、晩秋の午後です。
(小山晶子牧師人)