pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 22章

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:31,32)

失敗は終わりではありません。

イエス様はペテロをはじめ弟子たちが皆、自分のことを裏切ることを知っていました。

「あなたがたを」とあるようにここではペテロだけでなく、全員イエス様から引き離されることが聞き届けられたと言います。

イエス様は

「そんな弱い信仰ではダメだ」

と責めたのではなく、

「信仰がなくならないように祈りました。」

と言います。

そして、

「立ち直ったら、他の兄弟たちを励ますように」

と言われました。

私たちが信仰を失わないように祈られるイエス様は、私たちが励まし合うことを願っています。

今日は主の日。

共に主に礼拝を捧げ、励まし合いましょう。

ルカ 21章

「イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(21:1-4)

イエス様が献金箱に献金を捧げている姿を見ておられるということを心に留める必要があると思います。

そして、この箇所が教えているように、イエス様は金額ではなく、その捧げる姿勢に心を留めていることに意識する必要があると思います。

余りものではなく、最高のものを捧げようとする姿勢を神は祝福されます。

神に持てるものを捧げていく人には、天の窓が開かれます。

人間的な考えで、貧しい人からその機会を奪うならば、祝福の機会を失わせてしまいます。

ルカ 20章

「イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。」(20:17)

9節以下の「悪しき農夫のたとえ」は、歴史的に反ユダヤ主義の根拠として曲解されてきました。

ぶどう園をイスラエルと理解し、イスラエルにとって代わって教会の時代となったという「置換神学」と呼ばれる神学が生み出されました。

しかし、このような解釈は飛躍しすぎであり注意すべきです。

神はユダヤ人を拒絶したわけではありません。

ここでイエス様が問題にしているのは当時の特権階級の宗教指導者たちです。

彼らが神の働きに反していることを伝えたのです。

彼らは形骸化した神殿宗教にこだわり、「要の石」であるイエス様を捨てたと言われたのです。

神の国の「要の石」はイエス・キリストです。

ルカ 19章

「主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。」(19:22)

このしもべの問題は、主人を誤解していたということです。

1ミナという高額(一ミナは当時の約百日分の労賃。)なお金を預けていた真意を考えなかったのです。

つまり、私たちの神観(神学)は、とても重要であるということです。

私たちが神をどのような方であると認識しているかで、私たちの人生は変わります。

聖書が教える神は、私たちを愛し、私たちに関心を持っておられる、創造主なる義なるお方です。

私たちが与えられている賜物は神の栄光のために用いるためにあります。

ルカ 18章

「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」(18:1)

聖書は明確に、絶えず祈り、祈ることをやめてはいけないことを教えています。

神は私たちの祈りを聞き、私たちの祈りを用いられるお方だからです。

裁判官とやもめのたとえ話は、たとえ話のゆえに大袈裟に描かれています。

裁判官の道徳的な問題に引っかかってはいけません。

たとえはたとえでしかないからです。

大事なポイントはやもめのようにあきらめないことです。

イエス様は言われました。

「ただ問題は、メシヤのわたしが帰って来る時、いったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているかです。」(8節LB)

私たちはこの世の常識に打ち負かされて、神への期待を失い、祈ることをあきらめていないでしょうか。

今は恐れの時ではありません。

信仰の時です。

いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しましょう!

ルカ 17章

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」」(17:20,21)

「神の国」とは、神の支配、統治を意味します。

パリサイ人たちは、もうすぐ神が自分の民を異教徒の支配から救い出し、神が治める独立国を立て直してくださるという希望を持って、国家的刷新運動を繰り広げていました。

イエス様はそんなパリサイ人たちが考える「神の国」理解を一蹴しました。

「あなたがたのただ中にある」と、

今この時、

互いの間に神の支配、統治を認めることが大切だと諭しました。

神の国は、神の支配を認める人たちのただ中にあります。

私たちは生ける神が統べ治めておられることを宣言し、人々が神の統治を受け入れることができるように祈り求めましょう。

ルカ 16章

「するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。」(16:25)

金持ちとラザロの話はたとえ話であり、金持ちは地獄に行き、貧しい者は天国に行くという話ではありません。

人はイエス・キリストを信じることなしに天国に行くことはありません。

このたとえ話のポイントは、生前の社会的立場が、死後反転しまうというパラダイム転換によって現状を考えさせることです。

そもそも、人は生まれた場所や状況によって立場が違います。

ですから、今、自分が与えられた立場や富を全て自分の努力の結果とし、当然受けるべきものとするべきではありません。

死後の世界で全く別の環境に置かれたならばどうでしょうかとイエス様は問うのです。

ですから、私たちの社会にいるラザロを無視することなく愛の行動が求められます。

ルカ 15章

「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(15:32)

放蕩し帰ってきた弟のために祝宴を設けた父に対して兄は言いました。

「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」

兄は弟とは呼びませんでした。

それに対して父は「おまえの弟は」と正されます。

「何を言っている。わたしの息子であると同時に、おまえの兄弟ではないか!」

長男は次男を除外しようとしましたが、父はもう一度、次男を長男に受け入れるように和解を勧めます。

ある学者(フィー)はこう言います。

「父および失われた息子と喜びを共有しないなら、自分を正しいと考えている人は自分が正しくないことを明らかにしているのです。」

父なる神が受け入れた人を、神の民は喜んで受け入れるものだと言うことです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 14章

「宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。」(14:17)

毎週の主日礼拝は、ある意味で、キリストの宴会に招かれているようなものです。

私たちは、招待客との交わりも楽しみますが、何よりも招待者の臨在を楽しみます。

しかし、この箇所にもありますように、招待に応じるかどうかは一人一人に委ねられています。

自分の都合を優先すれば、他の人が体験しても、自分はその機会を失ってしまいます。

神は恵みに溢れていますが、神の招きに応じずに祝福だけを求めても体験することはできません。

神は招きに応じなかった人を無理強いするのではなく、

「急いで町の大通りや路地に出て行って、」(21節)

へりくだらされ、必要を感じている人たちを招くように主のしもべに命じています。

私たちは、主日礼拝に人々を招く使命があります。

主はすべての人を招待しています。

ルカ 13章

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」」(13:18-19)

イエス様は、自分がしている神の国の働きは、小さなからし種に似ていると言いました。

それはたとえ小さく見えたとしてもやがて生長し、木になるような働きだと。

また、パン種のように、一見、効果がないように見えるけども、全体をふくらませるような働きだと。

一人の人が癒やされること、

一人の人が解放されること、

一人の人が救われること、

それは決して小さなことではありません。

神の国はそのように広がっていきます。

私たちは神様が導かれているその人が癒され、解放され、救われるように、心を注ぎ、祈っていきたいと思います。