pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

民数記 7:66-9:14

「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(8:2)

神がモーセにともしび皿の位置まで指定されたということは興味深いことです。

「燭台の七つのともしび皿に火をつけるときは、前を明るくするように、アロンに言いなさい。」(LB)

燭台は「メノーラー」と呼ばれ、現イスラエルの国章にもなっています。燭台はまた、黙示録では「教会」を象徴します。(黙示録1:20参照)ヨハネがイエス様の声を聞いた時、このように記されています。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。」(1:12)

教会の中心にイエス様がおられ、語られます。教会は前を明るくするようにと命じられていることは興味深く感じます。教会の位置、姿勢は前向きであるべきということではないでしょうか。教会が前向き、信仰的、肯定的でありますように。

民数記 7:1-65

「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(7:5)

幕屋に携わるレビ族は三つのグループに分かれていました。神は「それぞれの奉仕に応じて渡せ」と命じ、ゲルション族は車二両と雄牛四頭が与えられました。メラリ族には車四両と雄牛八頭が与えられました。ケハテ族にはなんと、何も与えられなかったとあります。一見、不公平な分配に見えます。しかしその理由をこう記しています。「彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」(9節)つまり、それぞれに割り当てられた仕事を見るならば、「その奉仕に応じて与えた」ということが分かります。神が私たちに与えられる賜物も、それぞれ違います。それを不公平と思うのではなく、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)ということ心に留める必要があります。

おわった!

毎年、年が明けるとだんだん気が重くなっていく原因は確定申告です。
やらなきゃとは思うのですが、領収書の計算や勘定科目、パソコン入力などかなり大変で3月15日の提出期限とにらめっこしながらなんとか数日がかりで間に合わせてきました。ところが今年、そんな私に異変が。なんと作業を始めてからたった4時間で書き終えてしまったのです。もちろんもう20年以上提出しているので慣れはあるとは思うのですが、それでも毎年かなりの時間と労力をかけていたことを考えると驚異的なスピード。どうしてだろう?と考えると一つだけ心当たりがありました。ストラテラというADHDの薬を昨年4月から飲んでいるのですがそれがごちゃごちゃになっている脳内をスッキリ整頓してくれるような役割があるのです。それにしても、確定申告をするたびにこの一年歩みが守られてきたことを、数字を通して実感させられます。提出した後のすがすがしさと、守られてきたことへの感謝と安ど感は神様の愛を感じる時でもあります。来年度もがんばります!   (小山晶子牧師婦人)

民数記 5:11-6:27

「『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(6:24-27)

「祈るなら」は新改訳二〇一七では、

「イスラエルの子らの上に置くなら」

と訳しています。つまり、これは三位一体の神の御名によって宣言された私たちに対する祝福の約束なのです。

 

父なる神は、今日、あなたを祝福してくださいます。

私達の物質的な必要は満たされます。

子なる神イエス様は、今日、あなたに現してくださいます。

すべての答えは、イエス・キリストにあります。

聖霊なる神様は、今日、あなたのもっとも深い霊的な必要を満たしてくださいます。

私達の心は平安を体験します。

 

祝祷には、神の祝福が約束されています。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

民数記 4:1-5:10

「それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」(4:3)

世代交代はいつの時代でも難しい課題の一つだと思います。イスラエルの祭司職は、三十歳(八章では二五歳)になるまで待つ必要がありました。イエス様が公生涯の働きを三十歳から始められたのは、このような理由があるのかもしれません。つまり、務めにつく前に訓練を受ける必要があると言うことだと思います。祭司は五〇歳で引退して新しい世代を訓練する側に回ることが命じられています。年齢制限をどう設けるか、様々な適用ができると思いますが、少なくとも五〇歳になったら、自分のことばかり考えずに、次世代を育てる姿勢を持つようにということだと思われます。次世代の責任は前の世代にあると言っても言い過ぎではないかもしれません。

民数記 2:10-3:51

「次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならない。」(2:17)

会見の天幕を中央に宿営し、進むようにと命じられています。つまり、神の存在(臨在)をイスラエルの民の中央に歓迎し、臨在の民として前進することが命じられています。教会のイメージも同じです。

「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」(ローマ8:9)

神の御霊は会見の天幕がほのめかしていた神の臨在そのものです。ですから、教会はイスラエルの民がそうであったように、常に神の臨在を意識し、臨在の民として前進することが求められています。

民数記 1:1-2:9

「それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(1:45,46)

神はモーセにイスラエル男子の数を数えるように命じました。(それで、この書は「民数記」と呼ばれます。)六十万三千五百五十人いました。そのうちの二人、カレブとヨシュアだけが約束の地に入ることができました。残りの六十万三千五百四十八人は不信仰のゆえに荒野で死んでしまいました。民主主義が必ずしも正しいとは限りません。多数決が必ずしも機能するとは限りません。ヘブル書3章で、彼らが入れなかった理由は神に「従おうとしなかった」からだと言います。「文句を言い続けた」(LB)、「何度も何度も私の忍耐を試した」(MSG)。話し合うことよりも神のみこころを求めて祈り、神のみ言葉に従順することを優先すべきです。

レビ記 26:14-27:34

「しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」(26:41)

イスラエルの民が神との契約を破るのであるならば、外国に捕囚されると規定されています。この規定通り、神に背を向け、神との契約を破ったイスラエルの民は、捕囚されていきます。バビロンから帰還したイスラエルの民は、自分たちがペルシアの支配下にあることを認識し、自分たちの捕囚が終わっていないことを認識していました。イエス様の時代のイスラエルの民も、ローマ帝国の支配下にあり、捕囚状態にあることを認識していました。使徒パウロは、今日の箇所の約束を知っていたので、心からへりくだること、聖霊による心の割礼を訴えました。

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」(ローマ2:29)

レビ記 25:1-26:13

「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」(25:10)

昨今、資本主義の行き詰まりが声高に言われています。日本の国の借金(債務)も一千兆円を超えていて、国民一人当たり八百万円ほどの借金を背負っていると言われます。このような借金の問題は日本だけの話ではなく、世界中で問題になっています。イスラエルの民に神が命じた対策はヨベルの年でした。五〇年ごとに借金帳消しの年を命じたのです。ヨベルの年が実際に実行されたかどうかに関しては議論があります。しかし、私たちは貧困の問題に関して無関心にならずに、祈りつつ、何かしら行動を起こす時が来ているのではないでしょうか。なぜなら、イエス・キリストがヨベルの年を宣言されたからです。(ルカ4:18,19参照)

レビ記 23:1-24:23

「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(23:42,43)

毎年イスラエルの民は、居心地の良い自分の家を離れ、なつめやしの葉で作られた小さな仮小屋で八日間過ごすことが求められました。仮小屋で過ごす不便な八日間、神がいかに自分のことを気にかけておられるか、神の愛を彼らは感じることができました。先祖たちが荒野で喉が渇いて死にそうになった時、神が岩から水をだしてくださったことを思い出しました。この祭りの終わりの日にキリストは立ち上がり言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

私たちは、祭りが指し示すキリストを祝います。

※今日は東日本大震災発生から8年。主のあわれみを祈ります。