コロサイ 3章

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(3:15)

「支配するようにしなさい」と訳された単語は、スポーツ競技の審判人が、判定を下す行為を指す言葉です。

それで、岩波訳ではこう訳しています。

キリストの平和があなたがたの心の中で審判人の役割を果たすようにしなさい。」(岩波訳)

審判人は、勝利者が誰であるかを決定する人です。

私たちの心の審判人をキリストにするというメッセージは、とても重要です。

私たちの心の中で審判人の役割を果たしているのは誰でしょうか。

あの人でもなく、この人でもなく、自分でもなく、イエス・キリストに、判定していただこうではないでしょうか。

また、感謝の心を持つ人になりなさい。

とあるように、感謝の心は自然に身につくものではありません。

日々、パスワードは「ありがとう」と感謝しましょう。

コロサイ 2章

「私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(2:2,3)

キリスト教はキリストです。

聖書は、単なる人生のハンド・ブックではなく、神の啓示です。

私たちは、「神がすべてにまさるお方である」ということを、この聖書を通じて知る必要があります。

パウロがこの箇所で言いたいことは、神の奥義、隠された計画は、イエス・キリストであるということです。

つまり、宝はイエス・キリストであるということです。

キリストを見出すことが、宝を見出す事だと言うのです。

ライト教授がこんなことを言っています。

「クリスチャンになることは、自転車に乗るようなものである。前に進まなければ、倒れてしまう。」

それは、いつも、キリストを必要として生きると言うことです。

コロサイ 1章

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(1:28)

長い間隠され今明かされた奥義、それは、

あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(27節)。

イエス・キリストを信じるすべての人のうちに、栄光の主キリストが、聖霊によって住んでくださいます。

これは伝えられなければ分からない世界です。

ですから、キリストを宣べ伝えなければなりません。

しかし、聖書は信じたらそれでいいとは言いません。

キリストにあって成熟した者として立たせるため」に、諭し、教える必要にも言及しています。

パウロはテモテに命じました。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(2テモテ4:2)

自分が聞きたいことだけに耳を傾けないように、聖書全体を学ぶように聖書は教えます。

印象深いうた

私たちにはこれまでの人生の中で、「忘れられない歌」というものが一曲はあるのではないかと思います。

最近聴いた曲はどんどん忘れていくのに、幼いころ覚えた歌はいくつになっても忘れない、という場面はしばしば目にします。

わたしにとって印象深い歌というのはたくさんあるのですが、特に中学一年生のころ英語の授業で聴いたジョージ・ハリスンの「バングラデシュ」という歌はずっと心に残っていました。

それまでは日本の歌謡曲しかほとんど聞いたことがなかったのですが、あの何とも言えないけだるい声とマイナーコードで歌う雰囲気は今まで聴いてきたものとは全く違う衝撃がありました。

いま、図らずもそんなバングラデシュに関わる機会が与えられていることに、あの衝撃にも私の人生における神様の指紋を見ている気がします。

今年いっぱいでHOP現理事が入れ替えとなりますので、新理事選定にあたり神様の導きと助けがありますようにお祈りいただければと思います。

(小山晶子牧師夫人)

ピリピ 4章

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(4:13)

よって」と訳された前置詞は、手段を意味する「通して」とも理解できますが、「中に」とも理解できます。

「力で私を満たす方」の「中に」あるならば、どんなことでもできるというのは当然のことだと思います。

「強くしてくださる」と言う単語は進行形であり、強くし続けてくださると言う意味があります。

力の供給は一時の話ではなく、「力で私を満たす方」の中にいる限り、継続し続ける世界です。

「力で私を満たす方」は、文脈でも明らかなようにイエス・キリストです。

イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストの中にいます。

イエス・キリストの中にいる人は、生ける神の力に満たされ続けます。

そして、人にはできないことも、神にできないことはないと言う世界を生きるのです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ピリピ 3章

「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」(3:18)

「キリストの十字架の敵として歩んでいる」という表現は穏やかではありませんが次節にその意味するところを述べています。

その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

十字架の道は、

「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マルコ8:34)

という道です。

「十字架の敵」とは明らかに、自分の欲望を満たすことを第一にする生き方です。

21節で

みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。

とパウロが吐露したように、問題は十字架の敵として歩んでいる人が多いということです。

自分の思いを優先させるか、神のみこころを優先させるか問われています。

ピリピ 2章

「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」(2:14)

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(13節)

神は私たちが神のみこころをこの地に行うために思いとそれを行う力を与えられます。

キリスト者にとって重要なのは、それをどのような姿勢で行うかです。

感謝の心をもって神のみこころを行っているでしょうか。

パッション訳ではこう訳しています。

不満や分裂のない、明るい生活をしてください。」

どんなに素晴らしい神の働きに従事していても、不平不満ばかりでは神の栄光は現されません。

神のみこころは分裂を引き起こすような働きには現されません。

彼らの間で世の光として輝くためです。」(16節)

とあるように、大事なことはこの地に主の栄光を輝かせることです。

ですから聖書は言います。

人々に良い生き方と生ける神を垣間見せてください。」(15節MSG)

ピリピ 1章

「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。」(1:27,28)

ふさわしく生活しなさい

と訳された単語は、

市民としての責任を果たしなさい

という意味があります。

キリスト者が神の国の民としての意識をしっかりと持つことが出来れば、教会は何も恐れる必要はありません。

メッセージ訳では28節の後半部分をこう訳しています。

あなたがたの勇気と一致は、彼ら(反対者たち)が反対していることが何かを示すでしょう ー 彼らには敗北、あなたがたには勝利、そしてその両方は神のおかげです。

キリスト者が神の御国の民であることを自覚できますように。

エペソ 6章

「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」(6:16)

信仰生活で気をつけなければならないことの一つは「悪い者が放つ火矢」です。

サタンは責める者という意味があるように、あらゆる方法で責めてきます。

時には他者を通して、時には自分の思いを通して。

もちろん、責めるだけではなく、エバを誘惑したように神の信実を疑わせ、神から引き離そうとする誘惑の火矢の可能性もあります。

不信感を与え、否定的にし、教会を破壊しようとする火矢かもしれません。

いずれにせよ、私たちは信仰の盾が必要です。

それはキリストに対する信頼感です。

私たちのためにその命まで捧げてくださったキリストに対する信頼感です。

私たちは信仰の盾を取るために、キリストの十字架を見上げる必要があります。

どんな火矢が飛んできても、「私のために」死んでくださったキリストの信実を信頼することです。

エペソ 5章

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(5:20)

パッション訳では今日の箇所をこう訳しています。

私たちの主イエス・キリストの名のゆえに、父なる神があなたの人生に連れてきてくださるすべての人に、常に感謝を捧げます。

一期一会と言われますが、神が私たちに出会わせてくださる一人一人を大切にし、その出会いを神に感謝することは聖書的です。

人生は出会いで決まると言われますが、何よりも神との出会いは一番重要です。

それだけでなく、神が出会わせてくださったと考えるならば、すべての出会いを感謝する必要があります。

励ましてくれた人、慰めてくれた人、支えてくれた人との出会いを感謝することは容易です。

しかし、自分をいろいろな意味で鍛えた人を感謝するのは難しいと思います。

心に傷を与えた人も、イエス様の十字架の苦しみを覚えるためと、全ての出会いを感謝できますように。