レビ記 15章

「・・・自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。」(5節)

洗濯をすることも、水浴することも、衛生上大切なことであることは現代に生きる私たちには何も問題がない内容だと思います。宗教的にも、水を浴びて身を清めるという概念は、理解できないことではないと思います。しかし、聖書には

「みことばにより、水の洗いをもって、」(エペソ5:26)

という箇所があります。私たちは聖書のみことばによっても洗われる必要があると言います。イエス様は言われました。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(ヨハネ15:3)

キリストの十字架の血潮によって、キリストを信じる者は、水のバプテスマに象徴されますように、すでにきよくされています。そして、日々の生活の中で、聖書のみことばに耳を傾け、黙想し続けることによって、私たちはきよめられていくことを覚えたいと思います。

レビ記 14章

「祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。」(4節)

この章はらい病(ツァラアト)がきよめられるときの教えです。感染者がきよめられるということはありえないことでした。しかしキリストは多くの感染者をいやされました。ある時は、10人の感染者に言いました。

「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」(ルカ17:14)

彼らは行く途中でいやされたと聖書は言います。祭司たちは書いてあることを知っていても、使う時がくるとは想像したでしょうか。この手続きはキリストが来られていやしが行われることの預言でもあったと言えるかもしれません。ある先生はこの箇所の杉の木は十字架、緋色の撚り糸はキリストが流された血を象徴していると言います。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

レビ記 13章

「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。」(2節)

第三版ではこの箇所をこう訳しています。

「・・・からだの皮膚にツァラアトの患部が現れたときには・・・」

第三版のあとがきにはこうあります。

「『らい病(人)』と訳されていたヘブル語『ツァラアト』とその派生語、及びギリシヤ語『レプラ』『レプロス』は、本改訂版では、従来の訳語や新たな造語を含む複数の選択肢を検討した結果、『ツァラアト』・・・と訳出すこととした。・・・それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではないからである。」

ツァラアトが何であったかははっきり分かっていませんが、罪の象徴として聖書には取り扱われています。そしてキリストは彼らを汚れていると宣言するためではなく、彼らに触れ、彼らを癒すために来られました。

レビ記 12章

「しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」(8節)

子供を産んだ女性が一ヶ月以上こもらなければならないというのは、彼女に様々な義務を負わせないためのように感じられます。ここでは、生まれた子供のために、いけにえをもっていくことが義務付けられていたことがわかります。買う余裕がない人にもいけにえが免除されることはなく、子羊ではなく「二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひな」を捧げるように命じられています。イエス様の両親も買う余裕がなかったのか、ルカの2章を見ると「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」を捧げたことが分かります。神を認め、捧げることが、私たちにとって大切なことであることが分かります。

レビ記 11章

「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。」(2節)

食物規定は、イスラエルの民が、他の民とは区別されていることを示すものでした。もちろん、学者たちが指摘してきたように、バクテリア、寄生虫、ウィルス、毒素などの問題から彼らを守る役割もあったと思います。もっともイエス・キリストは、旧約聖書を成就されました。ですから、聖書は言います。

「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(マルコ7:19)

イエス・キリストが成し遂げられたことを無視して食物規定に縛られないように、聖書はさらにこう記しています。

「食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」(Ⅰテモテ4:3-:5)

レビ記 10章

「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(1,2節)

聖なることに携わる時は、畏れをもってする必要があります。どんなに教会の敷居を低くしたとしても、聖なることに対する畏れを忘れてサークルのようになってしまうならば、神はそのような教会を祝福されることはありません。そのように異なった火を捧げるような働き人を、神は裁かれずにおられることはありません。神は恵み深いお方ですが、同時に聖なるお方です。私たちはそのことをしっかりと受け止めて、聖なる畏れをもって神に仕える必要があります。
「聖なる主よ、聖なる畏れをもってあなたに仕えていくことができますように。」

レビ記 9章

「モーセは言った。『これは、あなたがたが行なうように主が命じられたことである。こうして主の栄光があなたがたに現われるためである。』」(6節)

主の栄光が現されるのを見たければ、私たちは「行うように主が命じられた」ことを行うことが大事です。マリアが天使に

「おことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

と告白したように自分の思いよりも神のみことばを優先する姿勢が大事です。いつの時代も、理解できなくても、神のみことばを優先する人を用いて神は栄光を現されてきました。ペテロもこの原則を体験しました。夜通し漁をしても、魚を獲れなかった彼に、イエス様は網をおろすように言いました。ペテロは言います。

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:1)

そのようにして主の栄光が現されるのを見ました。

今日は主の日。みことばどおり共に集まり主を礼拝しましょう!

レビ記 8章

「モーセはその血を取り、それをアロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗った。」(23節)

神様に仕えるために、モーセはアロンとその子らの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に血を塗りました。右の耳たぶは、神様の御声を聞くことを象徴しました。

「主よ、あなたの御声を聞くことができますように。あなたの御言葉にいつも耳を傾けることができますように。」

右手の親指は、神様に仕えることを象徴しました。

「主よ、私が触れるすべてのものを通してあなたに栄光が帰せられますように。私の働きがあなたへの捧げ物となりますように。」

右足の親指は、神様の道を歩むことを象徴しました。

「主よ、いつもあなたについていくことができますように。私の歩みが油注がれ、あなたに導かれますように。」

神様に仕えていくためには、耳と手と歩みがきよめられることは大切なことです。イエス・キリストはまさにそのために、私たちのために血潮を流されました。

レビ記 7章

「和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ、そのうちの少しでも朝まで残しておいてはならない。」(15節)

感謝を表す和解のいけにえとしてささげた動物の肉は、その日のうちに食べるように規定されています。いけにえとして神様に捧げるのですが、その一部は神殿で働く祭司たちのものになりましたが、その他は捧げた人とその家族と友人がいただきました。捧げるのですが、そのことを通して自分だけでなく自分の家族や友人までもが祝福をいただくことができると言う霊的な原則をここに見ることができます。私たちは主の日(日曜日)ごとに礼拝を神に捧げるのですが、そのことを通して、自分だけでなく、家族や友人までもがその霊的な祝福に預かることができるのです。

「主よ、あなたに礼拝を捧げます。私の家族や友人が、あなたの恵みの食卓から祝福を受け取ることができますように。」

レビ記 6章

「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。かえって、祭司は朝ごとに、その上にたきぎをくべ、その上に全焼のいけにえを整え、和解のいけにえの脂肪をその上で焼いて煙にしなさい。」(14節)

榎本師は、

「祭壇の火を燃え続けさせるために、祭司は朝ごとにたきぎが積み重ねられなければならなかったように、私たちの信仰の火が常に燃え続けるためには、私たちも朝ごとに霊のたきぎなる聖書をわが内なる祭壇にうずたかく積み上げねばならない。」

と言います。救いは神の一方的な恵みの世界ですが、私たちは日々、神との関係を築くために聖書を読み、祈る習慣を身につける必要があります。聖書も読まず、祈ることもせず、信仰の火が消えかかってしまっていることを、神のせいにするわけにはいきません。もちろん、日々の生活の中で神を優先させるためには、様々な戦いがあります。

神の恵みを軽んじることがありませんように。