詩篇 121篇

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(4節)

私たちが必要なとき、神はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神は答えられます。神はまどろむことも、眠ることもありません。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることです。詩人は山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、

「私の助けはどこからくるのだろうか」

とつぶやかずにいられないような心境だったのでしょうか。そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神には、その問題をも解決することができます。

詩篇 120篇

「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」(1節)

詩篇120篇から134篇は、「都上りの歌」と呼ばれ、祭りの時などにエルサレムに向かう中で歌われました。120篇は、神の都から一番離れたところからはじまります。私たちが生きている日常の中で、主の臨在を渇望する姿が記されています。

「私は平和を愛しますが、彼らは戦いを好みます。彼らのどなり声に、私の声もかき消されてしまいます。」(7節LB)

そんな詩人の気持ちが分かるのではないでしょうか。私たちも毎週日曜日、日常から離れて、都上りのようにして神の臨在を求めて教会に集います。そして、神の臨在は確かに教会の中にあります。

「教会は、キリスト様の体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリスト様の霊が満ちあふれる場所です。」(エペソ1:23LB)

詩篇 119篇

「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」(68節)

詩篇119篇は、いろは歌になっています。ヘブル語のアルファベットにそって、神のみことばの大切さを歌います。サタンは「神のみことば」の力を知っているので、私たちが「神のみことば」に対する信頼を揺るがそうとします。「神のみことば」が私たちに信仰を与え、私たちにいのちを与えます。「神のみことば」に力がある理由は、語られる神が今生きておられ、力があるからです。時の権力者の言葉にさえ力があるのです。なおさら、生ける神のことばに力があるのは当然のことと言えます。このお方は、いつくしみ深く、いつくしみを施されるとあります。口語訳では

「あなたは善にして善を行われます。」

新共同訳では

「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」

このお方のみことばを求めようではないでしょうか!

詩篇 118篇

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」(24節)

「設けられた」と訳された言葉は、「作る、行なう」という意味があります。ですから、英語の聖書では、

「主が作られた日」

と訳し、新共同訳聖書では、

「今日こそ主の御業の日。」

と訳しています。どちらも素晴らしい訳だと思います。今日と言う日を、神様は私たちが楽しみ喜ぶために作られたと意識するならば、今日と言う日をどのように過ごすでしょうか?今日という日に、神が何か素晴らしいことを用意されていると、今日と言う日を喜ぶことができるならば、今日と言う一日を最高に生きることができるのではないでしょうか。また、今日は神の御業の日というのはどうでしょうか?今日、神様が素晴らしいことを行なってくださると、信じ、期待し、始めることは聖書的です。

「この日は、主がつくられた!」

「この日は、主の御業の日だ!」

と信仰の宣言をもって一日を始めていこうではないでしょうか!

詩篇 117篇

「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。その恵みは、私たちに大きく、そのまことはとこしえに至る。ハレルヤ。」(1,2節)

2節をLBでこう訳しています。

「主は私たちを、この上もなくいとおしく思ってくださり、永遠に真実であられます。主をほめたたえなさい。」

神がどれほど私たちを思っておられるかは、ご自身の御子、イエス・キリストを与えるほどだと聖書は言います。それは、私たちの理解をすでに超えています。神は真実を尽くしてくださるお方です。使徒パウロは、このように表現しています。

「しかしたとえ、信仰をなくしたかと思えるほど私たちが弱くなっても、キリストは真実を貫き、私たちを助けてくださいます。私たちは主の一部分になっているので、切り捨てられることはないのです。そして、主はいつも約束を果たしてくださいます。」(Ⅱテモテ2:13LB)

詩篇 116篇

「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」(12節)

この詩人は順風満帆に人生を送ってきたわけではありません。この個所の前後には彼の体験してきた試練や悩み、時には死を意識しなければならなかった出来事に言及されています。

「私は失意に沈んでいたころ、「人々は私に『良くなる』と言ってくれるがそれはうそだ」と思い悩んでいました。」(10,11節LB)

詩人はそんな中で、神様が注いでくださった恵みの数々を数え、何をお返しすることができるだろうかと考えます。そして、詩人は人々が集まる神の宮に集い、神を礼拝することによって、主にお返しします。神が求めているのは「礼拝者」だとイエス様は言われました。(ヨハネ4章参照)今日は主の日、主が注いでくださった恵みを思い出し、共に賛美と礼拝を神様にお返ししましょう!

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

東京基督教大学にドイツから大きなパイプオルガンが運ばれてきました。ドイツで一度組み立てた後、解体して二カ月かけてまたチャペルで組み立てるという気の遠くなるような作業の果てに素晴らしいパイプオルガンが完成しました。その後、そのパイプオルガンによる初めての演奏会がおこなわれました。次々に迫力のある演奏が披露され、最後に外国人演奏家が音を奏で始めました。決して派手な演奏ではありませんでしたが、胸を打つ、心に迫る演奏にチャペルは割れんばかりの拍手がわきおこりました。その時、彼は人差し指を口に当てました。そしてその手でチャペル前方に掲げられた十字架を指し示したのです。「すべての栄光を主に」という彼の姿はそこにいた人たちの心に深く刻まれました。

詩篇 114篇

「海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。」(3節)

ここだけ読むと、「?」という印象を持つかもしれません。LBでは

「紅海は、神の民の近づく足音に慌てて二つに分かれ、ヨルダン川は、歩いて渡れる道を作りました。」

とあります。まさに、これは旧約聖書に出てくる、イスラエル民族における、二つの大きな出来事の記録です。どちらも「あり得ない状況」から神が超自然的方法を用いて救い出してくださった出来事です。神に不可能なことはありません。しかし、何度も神の奇跡を体験していたイスラエルの民は、事あるごとにそのことを思い起こし、神がどのようなお方であり、どこから自分たちを導き救い出してくださったかを繰り返し思い起こす必要がありました。このことによって彼らは神の視点にいつも自分の視点を修正していたのです。私たちにとっても、この習慣は大切だと思います。神がなされた御業を思い起こそうではないでしょうか。

詩篇 113篇

「日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。」(3節)

『日の昇るところから沈む所まで』

という表現は詩篇の中に頻繁に登場します。この言葉は、すべての場所、世界中でという意味を持っている言葉です。別に、太陽が昇って落ちるという科学的な説明をしているわけではありません。比喩です。現代訳では

『世界中どこででも、主をほめたたえよう。』

と訳しています。どんな場所でも、どのような状況でも主をほめたたえよう、とこの詩人は呼びかけているのです。私たちはいつの日か、世界中のキリストを信じる人々とともに神を賛美する時が来ることを信じています。一人で賛美することも大切ですが、多くの兄弟姉妹と一緒にひと所に集まり、声をあわせて賛美するときに、わたしたちは天国の前味を体験することができます。共に集まり、主の御名をほめたたえることは、聖書が命じていることです。

詩篇 112篇

「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。」(7節)

私たちの心は、置かれている状況によって簡単に揺らぎます。九回嬉しいことがあっても、たった一度良くない出来事が起こると、九回の嬉しいことはあっという間に記憶から消滅してしまいます。残るのは不安や恐れだけ。そんな経験をしたことがあると思います。しかし、詩人は告白します。

「彼は悪い知らせを受けても恐れず、今度は何が起こるかと、不安になることもありません。主に見放されるわけがないと、信じきっているからです。」(LB)

私たちはさらに確実な聖書のみことばの約束があります。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

みことばに信頼して歩んでいく時、プラスに見えることもマイナスに見えることも神は用いて最善に導かれます。