ネヘミヤ 11章

「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。」(2節)

10パーセントの人は、強制的にエルサレムに住んだのですが、それ以外の人は、自分から進んで住んだとあります。教会も、教職者と呼ばれる牧師や伝道者など、いわゆる献身者が奉仕することはあたりまえのことですが、さらに自発的に奉仕する人たちがいて成り立ちます。そして、人々は自発的にした人たちを祝福したとあります。使徒パウロは言いました。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)

この箇所は献金に関する箇所ですが、この原則はいろいろなことにも適用することが出来ると思います。強制されてではなく自発的に奉仕する人を人々が祝福するだけでなく、神ご自身が祝福してくださいます。

ネヘミヤ 10章

「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」(39節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「このように、私たちは神殿をなおざりにしないことで一致したのです。」

私たちは信仰を個人的なものとしすぎる傾向があると思います。もちろん、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れることから信仰生活は始まります。しかし、それはまた信仰の共同体である「キリストのからだ」である教会の一員になるという意味があります。教会をなおざりにした信仰生活というのは、聖書的にはありえません。イスラエルの人々は、自分と神との関係が大事だから、神殿はどうでもいいとはしませんでした。詩篇にもこういう箇所があります。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1新共同訳)

何ができなくても、教会で共に座って礼拝を神様に捧げるだけでも、大切なことです。

ネヘミヤ 9章

「彼らはその所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。」(3節)

多くのクリスチャンたちが祈り、待ち望んでいるリバイバル現象が今日の箇所に描かれています。

「二、三時間の聖書のメッセージ。その後、数時間にわたって、罪の告白と悔い改めの祈りの時間。そして、何時間も続く神様への賛美と礼拝。」

リバイバルが起こると人々は聖書のみことばをもっと、読み、味わい、そして学びたいと、何時間でもみことばに耳を傾ける人々で教会が溢れます。そして、人々は神の前に砕かれ、悔い改めの祈りが何時間も続きます。神は砕かれた悔いた心に目を留められます。そして、神を礼拝したい人たちで教会が溢れます。霊とまことをもって賛美と礼拝を捧げる人たちで満ちあふれるその場所に、誰でも分かるほどのキリストの栄光と臨在が満ちあふれます。

ネヘミヤ 8章

「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(10節)

今日の箇所を他の訳では以下のように訳しています。

「神様を喜ぶことこそ、あなた方の力なのだ。」(LB)

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(新共同訳)

「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(口語訳)

「主の喜びはあなたがたの力である。」(直訳)

「神様の喜びは、あなたの力です。」(メッセージ)

私たちが神を喜ぶことも私たちの力になりますし、私たちに与えられる神の喜びも私たちの力になります。日曜日の礼拝を、セレブレーション(祝典)とも呼びます。日曜日、キリストは復活されました。今、生きておられる主を喜び祝うことが礼拝です。私たちがキリストを喜び祝う時、私たちは力づけられます。主に賛美を捧げることによって私たちは力を受けます。
「主の喜びが心にあれば・悲しみは笑いに・苦しみは喜びに・嘆きは踊りに・すぐに変わる ♪」

ネヘミヤ 7章

「私は、兄弟ハナニと、この城のつかさハナヌヤとに、エルサレムを治めるように命じた。これは、ハナヌヤが誠実な人であり、多くの人にまさって神を恐れていたからである。」(2節)

ネヘミヤがエルサレムを治めるために任命した人は、誠実で、神を恐れる人でした。イエス様も言われました。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」(マタイ25:21)

小さなことにも誠実に生きているなら、やがて信頼を得て、より大きなものが任されるようになると言われました。誠実は英語でFAITH(信仰)-FUL(充満)と言います。信仰に満ちている人は誠実な人です。確かに、神を人一倍畏れているならば、誠実な生き方になるのは明らかです。神はすべてをご存知であり、神をだますことは出来ないからです。どんな小さいことでも、神を畏れ、忠実に行うことができますように。

※ イースターおめでとうございます。本日はイースター、イエス・キリストの復活を覚え、礼拝を捧げます。
本日のSSCの第三礼拝(18時から)は、午後からもたれるチャレンジキャンプ(学生キャンプ)のためお休みです。

ネヘミヤ 6章

「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう。」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」(9節)

悪魔は脅したり、騙したりして、神の民の気力を失わせようとします。福音伝道をする気力を失わせようとしているのは悪魔です。教会を建てあげようとする思いを挫こうとするのは悪魔です。ですから、ネヘミヤのように主の前に膝をかがめ、主の助けをいつも求める必要があります。

「私を力づけてください」

と、祈り求める必要があります。私たちは、祈り続けるならばその結果を見ることができます。

「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16節)

祈りましょう。主は成し遂げられます!

ネヘミヤ 5章

「私は彼らの不平と、これらのことばを聞いて、非常に怒った。私は十分考えたうえで、」(6,7節)

ネヘミヤは怒りました。人助けという名目で、抵当をとって金を貸す裕福な官僚たちに腹を立てたのです。ネヘミヤたちは奴隷生活から引きあげてきた人々を援助しようとできるだけのことをしてきました。しかし彼らは、そんなネヘミヤたちの働きを無にするがごとく、借金をさせて奴隷に戻そうとしていたのです。ネヘミヤの怒りは、9節にあるように、そんな神を恐れない裕福な官僚たちの姿に対する義憤からでした。しかし、ネヘミヤは感情に任せて事を行なうことはしませんでした。彼は十分考えたうえで行動しました。たとえそれが義憤であっても、感情に任せてすることは聖書的な方法ではありません。

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1:19,20)

※ 今日はグッド・フライデー。イエス・キリストが十字架にかかられたことを覚えます。
※ 本日のSSCの祈祷会は、国家晩餐祈祷会のため、お休みです。

ネヘミヤ 4章

「しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」(9節)

いつの時代でも、神のために働こうする人たちに対する悪魔の攻撃の方法をここに見ます。それは、

「嘲り」

「脅し」

「落胆」。

まず悪魔は、神のために働くことをばからしいことのように「嘲り」ます。

それでも神のために働いていると「脅し」ます。悪魔の「脅し」に耳を傾けてはいけません。警戒しつつ神に祈り求めることが大事です。どうやって警戒し、どうやって身を守ったらいいか?それは、エペソ6章にあるように「神の武具」を身に着けることです。特に「信仰の大盾」をしっかりと持ち、こころないことばや否定的な思いの矢から自分の心を守ることが大事です。

その次の攻撃は「落胆」。「無理だ…」と思わせます。(10節参照)しかし、聖書は言います。

「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」(8節)

ネヘミヤ 3章

「その次に、テコア人たちが修理したが、そのすぐれた人たちは彼らの主人たちの工事に協力しなかった。」(5節)

今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「しかし、その貴族たちは彼らの指導者たちの作業に服そうとしなかった。」

みんなで協力して城壁を建てるはずでしたが、ある人々はネヘミヤの指導に協力しなかったことが記録されています。詳細は分かりませんが、彼らは地位の高い人たちであったようです。ですからプライドが邪魔をしたのかもしれません。ネヘミヤは協力してくれる事を期待していたと思います。神のためであっても、全員の協力が得られるとは限りません。しかし、協力する人たちがいたからこそ、城壁は建て直されました。もっとも、どんな指導者にも協力するには謙遜になる必要があります。協力者たちは、指導者よりも、その人を立てた神を見ていたから協力できたのだと思います。教会が建てあげられる所には謙遜な協力者たちがいます。