オバデヤ書 1-21

「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(15)

オバデヤ書は、ヤコブの兄エサウの子孫エドムに対する預言です。エドムはイスラエルの国と親戚関係があったのにも関わらず、イスラエルの危機の時に、助けるどころかそれに乗じて略奪に加わりました。この書はそのことに対する裁きの預言が記されています。神は言われます。

「人にしたとおりのことが自分に返ってくる。」(LB)

「因果応報」ですべてを片付けることはできませんが、聖書はこの霊的法則を記しています。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラ6:7共)

イエス様もこう教えられました。

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)

ヤコブも言います。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13共)

哀歌 3:40-5:22

「助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。」(4:17)

イスラエルの国は、問題が起こるとエジプトの国を頼る傾向がありました。しかし、

「私たちは、同盟国の助けを待っていましたが、来ませんでした。最もあてにしていた国さえ、少しも動こうとしませんでした。」(LB)

残念ながら、そのような事態が、この地上ではよく起こります。一番助けて欲しいときに、助けてもらえないことがあります。(逆も事実で、助けることができないということもあると思います。)それは、他人だけでなく、自分自身にも言えることだと思います。私たちの肉の力も、「救いをもたらさない国」の一つでしかありません。私たちを救うことができるのは、救いの神、イエス・キリストだけです。神は、

「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)

とおっしゃられます。主に助けを求めましょう。

哀歌 2:7-3:39

「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(19節)

バングラデシュの村の幼子たちが、栄養失調のような体型で微笑みかけたその姿を忘れることができません。今こそ教会は、大声で叫び、心を水のように主の前に注ぎだし、祈る時だと思います。今、祈らなければ、いつ、祈るのでしょうか。私たちは特に子どもたちのため、次世代のために祈る必要があります。物質的な飢えも問題ですが、これほどの情報化社会にあってなお、霊的飢餓状態に陥っている現状が日本にあります。神の御言葉を食すことが出来なければ、霊的飢えのために弱り果ててしまいます。ジャンクフードのような言葉ではなく、健全な神のみことばを食することができますように。

哀歌 1:1-2:6

「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。」(1:1)

哀歌の作者はエレミヤだと考えられています。この書は嘆き、悲しみで満ちています。それはエレミヤが、40年間神の御言葉や警告を語り続けたにもかかわらず、イスラエルの人々がその行いを変えず、結果として、かつては多くの人々で賑わっていたエルサレムの神殿が破壊され、バビロニアに人々が捕囚されていく様子を目の当たりにしなければならなかった彼の心の叫びが記されているからです。御言葉に真剣に耳を傾ける大切さを、エレミヤのこの嘆きから今一度考えるべきであると思います。イスラエルの人々の問題は、神のことばを軽視したことにありました。私たちは神のみことばを軽視しないように気を付ける必要があります。

ハバクク書 1:1-3:19

「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。」(1:2)
神の沈黙ほど辛いことはありません。祈ってても、聞かれていない、何も変わらないと感じる時ほどしんどいことはありません。ハバククも同じことを体験しました。イスラエルの民は神に背を向け、国は混乱していました。ハバククは神にどうして何もしてくださらないのですかと訴えます。すると神は答えられます。
「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」(1:5)
神は働かれていると言いました。神が自分を気にも留められていないと感じる時は、感情ではなく、みことばに立ち、神が気にかけておられることを思いだしてください。神は確かに働かれています。今日は、主の日。共に、礼拝を捧げましょう。

デンタルショック(2)

身体がどんどん冷たくなっていく感覚は、熱中症になった時ととてもよく似ていました。幸い数分で症状が落ち着いてきて少しづつ話ができるようになった時、先生がこう言い始めたのです。『今日は治療やめておこっか。』いやいやいやいや。ぜひやってください。だってチョコを食べるとしみるんです。結構痛いんです。こんな思いでいっぱいだったので「大丈夫です。治療してください。!」「いやーでもねえ、心配だから」「いやいや、大丈夫です。こういうの初めてじゃないです。もう大丈夫です。」数回こういった押し問答をした末、治療してもらえることになりました。これ、デンタルショックっと言うらしい。【患者が恐怖心を抱いたり不安な状態で精神的に緊張していると起こしやすい】そうです。大切なのは医師との信頼関係だそうです。これほどまではないにしても教会に初めてくる人ってきっと緊張と不安を抱えているでしょうから、安心していていただけるようにどんな配慮ができるかな?と考えさせられる出来事ともなりました。
(小山晶子牧師人)

※ 本日、TVKテレビ朝8時半からの「ライフライン」に、小山晶子牧師婦人のインタビューが放映されます。

 

エレミヤ書 52:1‐34

「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」(52:31-32)

何度にもわたる預言者エレミヤの警告に耳を傾けることがなかったユダの国は滅ぼされ、エルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚されました。まさに、当然の結果が訪れました。しかし、エレミヤ書はここで終わりません。手遅れと思う状況の中で、エホヤキン王にあわれみの手が差しのべられたことを伝えます。つまり、ダビデ王朝が途切れたわけではなく、神のダビデに対する契約が終わったわけではなかったことを伺わせます。ダビデの家系はこの後、イエス・キリストへと続きます。神の信実は絶えることはありません。

エレミヤ書 51:15-64

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(51:15)

厳しい預言の合間に、預言者が神の偉大さについて語っていることは、注目に値すると思います。エレミヤは神の偉大さを語った後に、こう付け加えます。

「神に比べたら、人間は愚かな獣で、一かけらの知恵もありません。」(17節LB)

人間の根本的な問題の一つは、神よりも自分の方がすぐれていると思い込んでいるところです。アダムとエバの問題もここにありました。彼らへの誘惑の言葉は、

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)

でした。しかし、人間は神のようになることはありません。神は神であり、人は人です。私たちは偉大なる神の御前にへりくだる必要があります。

エレミヤ書 50:11-51:14

「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが、」(51:5)

バビロン帝国に対する裁きの宣告の途中で、突然、イスラエルの民に言及がなされます。

「わたしは、イスラエルとユダを見捨てたわけではなく、依然として彼らの神である。」(LB)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、神様に見捨てられたと感じていたと思います。彼らは自分たちの罪が原因であることを認識していたと思います。しかし、聖書の神は、それでも見捨てない神です。聖書は言います。

「主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。」(ヘブル13:5新改訳二〇一七)たとえ自分の愚かさのゆえに見捨てられたように感じる状況に立たされていても、主は見捨ててはいません。主に立ち返りましょう。

エレミヤ書 49:7-50:10

「わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。」(50:6)

イスラエルの人々が迷子になった理由は、7節にあるように、

「彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したため」

です。しかし、同時に、彼らが牧者として信頼していた指導者たちが迷わせたと聖書は言います。

つまり、私たちの人生の牧者が誰であるかはとても重要ということです。

「わたしは良い牧者です。」(ヨハネ10:11)

と言われるイエス・キリストが牧者であるならば心配する必要はありません。主イエス・キリストが牧者であるならば、乏しいことはありません。

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23:2,3)