エレミヤ書 29:24-31:14

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。」(31:13‐14)

今日の箇所には捕囚後のイスラエルに対する、神からの素晴らしい回復の約束が記されています。神の愛は永遠に変わることがありません。試練も、痛みも、その愛ゆえであるということを思う時、誰よりも神ご自身が、この回復の時をどれほど待ち望み、喜んでおられるかを感じることができるのではないでしょうか。いま試練の中にある方がおられるでしょうか?神はあなたを決してあきらめないお方であることを忘れないでください。神はあなたを建て直されます。たとえ今笑顔から遠く感じても、喜び笑う踊りの輪に出て行く時が来ます。

はやく過ぎ去って

これを書いているのは土曜日。ちょうど正午にさしかかったところです。横浜にはまだ何も被害が出ていませんが、確実に近づきつつある台風の映像を見ながら恐怖を感じつつ過ごしているところです。これからどうなるんだろう?できる対策は取ったものの、それこそできることはわずかで正直身構えてしまいます。ところがうちの猫たちと言ったら、朝からのんきにぐーすかねています。それはもう気持ちよさそうに。リラの『猫も見てた』という曲を思い出してしまいました。

『猫も見てた』
猫は静かに見ていた
不安げな私の顔
だけど近寄りもしなくて
気持ちよさそうに寝そべってた
『いつまで疑ってるの
ご覧この空を
このすべてをつくられた主に
ぼくはすべてをゆだねてるんだぜ』
あきれた目で私を見てたのかな
5月の風に吹かれて
猫は目を細めてた
あきれた目でうちの二匹の猫も私を見ていました。

(小山晶子牧師人)

エレミヤ書 27:1-29:23

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」(29:11,12)

直前にこう記されています。

「バビロンに七〇年の満ちるころ、私はあなたがたを顧み」

つまり七〇年と言う期間は訓練の時としてユダの人々が受けなければならない試練の時でした。今日の箇所はその後に与えられた主のご計画の約束です。偽預言者はすぐにでも解放されると言って人々を騙していました。しかし、神の約束を手にするために必要な『忍耐』をバビロンの地で彼らは学ばなければなりませんでした。大事なことは、神は良い神であり、私たちに対する計画は将来と希望を与えるためのものであると信頼することを選ぶことです。

今日は、主の日。共に、礼拝を捧げましょう。

エレミヤ書 25:15-26:24

「そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」(26:19)

エレミヤの預言に対して当時の指導者だった祭司と偽預言者たちは悔い改めるどころかエレミヤを殺そうとしました。しかし、知恵のある何人かが立って人々を諭します。

「神のことばを伝えたと言う理由でエレミヤを殺すなら、神がどんな仕返しをなさるかわかりません。」(19節LB)

神のみことばにどう応答するかが、私たちの人生に大きな影響を与えます。ですから、聖書にはこう警告されています。

「ですから、聖霊はこう警告します。キリストの声に注意深く耳を傾けなさい。今日その声を聞いたら、昔のイスラエル人のように心を閉ざしてはいけません。」(ヘブル3:7,8LB)

エレミヤ書 23:9-25:14

「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。」(24:7)

カルデヤ人の地(5節)とは、バビロン(今のイラク)のことです。ユダの人々は、バビロンへ捕囚されていきました。ユダの人々は、神から離れ、自分たちの目に良いと見えることを優先して生きることを続けていった結果、「捕囚」という結果を招きました。しかし、神は絶望の中にいた彼らに約束の言葉を与えます。

「わたしに対して正しく応答する心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは大喜びで、わたしのもとに帰って来るからだ。」(7節LB)

「わたしが主であることを知る心」、「わたしに対して正しく応答する心」、それは、ペンテコステの日、聖霊が臨まれることを通して実現しました。今、イエス・キリストを信じる者の内に与えられています。

エレミヤ書 21:1-23:8

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(21:8)

神は私たちに選択の自由を与えています。この自由意志が両刃の剣で、この世に良いことも悪いことも起こる原因になります。しかし、自由意志がなければロボットと同じになってしまい、そこに愛の関係というものは生じません。いのちの道であるイエス・キリストを信じることを選ぶことに意味があります。キリストのからだであり、キリストの花嫁である教会につながることを選ぶことに意味があります。神のみことばである聖書を、自分の信仰と生活の規範とすることを選ぶことに意味があります。誰一人、イエス・キリストを自分の救い主として信じることを選ぶことなしに、クリスチャンになることはありません。神はすべての人に選択の自由を与えています。

エレミヤ書 18:1-20:18

「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(18:6)

「この陶器師のように」とありますが、前半部分にこう記されています。
「『さあ、陶器を作っている者の家に行きなさい。そこで、あなたに話そう。』言われたとおりにすると、陶器師はろくろを回している最中でした。ところが、彼は手がけていたつぼが気に入らなかったので、それをつぶして粘土のかたまりに戻し、初めからやり直しました。」(2-4節LB)

この時、神がエレミヤに語られました。神は陶器師のような方であり、私たちはまさに神の手の中にある粘土のような存在です。これは、絶対的な神の主権を現しています。神は神であり、人は人であるというこの絶対的な神の主権を認めることからすべては始まります。

エレミヤ書 16:1-17:27

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(17:10)

LBではこう訳しています。

「ただわたしだけが人の心を知っていて、隅々まで探り、一番奥に隠された動機まで読み取る。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」

神は私たちの心、私たちの動機の部分まで見ておられると聖書は言います。このことをよく現しているのがヨブ記です。ヨブ記は、どうして私たちがこの地で正しく生きようとするのか、その動機は何か?と私たちの心がテーマになっています。ご利益があるから正しく生きようとするのか?もし、そうならば、ご利益を失ったら、正しく生きることをやめてしまうのか?神は私たちの心、動機の部分を見ておられると聖書は言います。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(17:9)

と言いますが、神は聖霊によって内側から主の似姿へと変えられます。

エレミヤ書 14:1-15:21

「それゆえ、主はこう仰せられた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」(15:19)

エレミヤは神の預言者として仕えていましたが、迫害の中にありました。それで彼は言います。

「神は、いざというときに私を助けてくれませんでした。」(18節LB)

そんなエレミヤに神は言われます。

「そのような愚かなことを言ってはならない。…あなたが彼らに影響を与えるべきであって、彼らの影響を受けてはならない。」

私たちはこの世に神の御国をもたらすために生きています。この世に染まってしまうならば本末転倒です。私たちこそ、聖霊によって神の御国をこの世にもたらす者であるということを忘れることがありませんように。

ぜったいテカってる、、、

一昨日ライフラインというキリスト教テレビ番組のインタビュー収録がありました。リラが数か月前に福島でライフラインの主催するコンサートを行ったのですが、その模様が今月放送されることとなり、曲の合間に私のインタビューが流れるという恐ろしい企画です。事前に質問が用意されていたわけではなく、突然振られるものばかりだったので正直何をどう答えたのかほとんど覚えていません。どうしましょう、、、。夫には「編集されるから心配しなくても大丈夫だよ」と慰められましたが、今一番の心配は「顔のテカリ」です。いつもより念入りにメイクしたものの、暑かったので収録するころには汗をかき、しかも蛍光灯ではなくLED照明を3つもつけて撮影したのでテカリMaxのような気がしてなりません。さすがに顔は編集のしようもないでしょうし、これが全国で流されるときっと母からもつっこみメールが来そうな予感がします。「恥は我がもの、栄光は主のもの」という言葉を胸に、おとなしく放送日を待ちたいと思います。
(小山晶子牧師人)