血管の長さ

数週間前の教会学校の時間に、ひょんなことから人間の血管の長さはどれくらいかという話になりました。

改めて調べてみると1人の人間の血管(毛細血管も含めて)を繋ぎ合わせると実に10万キロメートル、つまり地球を二周半する長さだそうで、その距離をたった30秒で血液が一周しているのだということがわかりました。

まさに神業、これぞ神業。

わたしたちは頑張って自分で心臓のポンプを動かしているわけでもありません。

本当は生かされているのに、まるで自分たちで命をコントロールしているかのような表現に最近特に違和感を覚えます。

安楽死の合法化や、中絶を女性の当然の権利だと認めることなど、人権という心地よい言葉を使って本来は人が触るべきでない領域に踏み込んでゆく時代となり恐ろしさを感じています。

神は神であり人は人であるという大切な原則を見失う時、秩序が否定される風潮の現代において人はますます混乱していくことになるのだと思います。

聖書を信仰と生活の唯一の規範とするキリスト者にとって更に厳しい時代となることを覚悟しなければと感じる今日この頃です。

(小山晶子牧師婦人)

ルカ 24:1-12

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」(24:5)

主は確かによみがえられました。

イエス・キリストは完全な人となられ、歴史上の人物として存在しました。

それで、「信仰のキリスト」を削ぎ落とした「史的イエス」を探求する学者たちがいます。

しかし、イエス・キリストは完全な人間であったと同時に完全な神です。

そのように「信仰のキリスト」を削ぎ落としたら、「史的イエス」が明らかになるという発想自体が稚拙です。

「史的なイエス」は「信仰のキリスト」でもあったからです。

「ここにはおられません。よみがえられたのです。」

「主がお話になったことを思い出しなさい。」

と天使たちは諭します。

十字架につけられ、三日目によみがえられたイエス・キリストを捜すならば、今も生きて働いておられるイエス・キリストを見出すことができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ローマ 5:6-11

「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(5:6)

パウロの論理展開は、決して難しいものではありません。

6節でまず、土台的前提が語られます。

イエス・キリストは、不敬虔な者のため、死んでくださいました。

7節では、この前提に立って、論じられます。

たとえ、「値する」と思っていても、普通は、代わりに死ぬことはしません。

そして、8節で、結論が導き出されます。

ですから、イエス・キリストの死というのは、神の普通ではない愛の現れだったということです。

今から約二千年前、イエス・キリストが十字架にかけられ死んだということは歴史的事実です。

それが、「私たちのため」というところに重要なポイントがあります。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。」(LB)

ルカ 23:44-56

「すると神殿の幕が真ん中から裂けた。」(23:45)

神殿には、聖所と至聖所の間を遮る分厚い幕がありました。

至聖所には大祭司だけが年に一度だけ入ることが許されていました。

そこには、契約の箱がありました。

その蓋は「恵みの座」と呼ばれます。

聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

神のひとり子、イエス様が人となって、私たちの間に住まわれ、私たちの罪のために十字架にかかり、死なれました。

その時、神殿の幕が裂けたということは、誰でもイエス様によって恵みの座に近づくことができるということです。

今日はそのことを覚えるGood Fridayです。

ルカ 23:33-43

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」」(23:34)

ライト教授はこんなことを言っています。

「イエスは、自分の本当の戦いの相手はローマではないと考えていた。(中略)神の力や愛と真っ向から対峙する真の敵とは、神の創造に敵対する力、死と破壊の力、告発する力、そして、全人類も全世界もすべてが腐敗し、朽ちつつあると叫ぶあの『告発者』であった。(中略)イエスの公生涯を通じて私たちが目にするのは、イエス自身が告発されている、ということだ。」

「告発者」をヘブル語で「サタン」と言います。

私たちはここに、イエス様が、人類全体に向けられた告発を一手に引き受け、その身に負ったことに気づく必要があります。

悪のすべての力と告発とをその身に受け止め、自分に対して悪の限りを尽くさせ、それによってその力を使い果たさせ、「告発者」を打ち負かしました。

ルカ 23:13-25

「けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。」(23:33,34)

群衆がいつも正しいとは限りません。

裁きの座につくピラトも、公正に裁く責任を感じていません。

彼の中心的な目的は、暴動を避けることだったからです。

この過ぎ越しの祭りという時を、大きな問題なくやり過ごすことができれば、それで、良かったのです。

ですから、マルコの福音書の15:15節にはこう記されています。

「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

しかし、私たちは正しい審判者である神がおられることを知っています。

やがて、神はすべてを正されます。

ですから、群衆に流されるのではなく、神の真理に立つことができますように。

ルカ 22:39-53

「するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。」(22:51)

ペテロはイエス様の真意を見誤り、剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかりました。

イエス様はそんなペテロを止めて、しもべを癒されました。

ペテロはここで5つの間違いを犯しています。

第一番目に、敵を間違えました。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)

第二番目に、武器を間違えました。

「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」(エペソ6:17)

第三番目に、態度も間違えました。

第四番目に、時も間違えました。

裁くのは私たちではなく神の役割です。神が神の時に、必ず裁きを下されます。

第5番目、理由も間違えました。

神のためだと言って、誰かのことを傷つけるのならば、私たちは間違っています。

ルカ 22:1-13

「彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、」(22:9)

イエス様は過越の食事の準備をするようにペテロとヨハネを遣わしました。

彼らは自分たちで話し合ったのではなく、イエス様に「どこに用意しましょうか」と尋ねました。

イエス様は私たちを遣わされるだけでなく、どこに行けばいいのかも示してくださるお方です。

イエス様は言われました。

いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」(10-12節)

ペテロとヨハネは、イエス様が言われた通りに行ってみました。すると、

イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。」(13節)

御言葉を求め、御言葉に生きられますように。

ああ、花粉症

皆さんは花粉症に苦しんでいませんか。

わたしは今年が人生で一番花粉症の症状が酷いです。

アレルギーの薬は一年中飲んでいるのですが太刀打ちできません。

夜中は咳と口の中の痒みで目が覚め、朝はくしゃみと耳の中の痒みに苦しみ、鼻も目もむずむず、顔も絶えず痒い。

どうも一緒に風邪もひいたらしく深い咳にも悩まされ、咳のしすぎで声がかすれ今日の賛美リードができないという有様。

一応試しにかすれ声で少し歌ってみたのですが全くダメでした。

先週1週間は様々な方面から抱えきれないことが次々と襲ってきて、まるで嵐に翻弄される錨の無い船のようでした。

あまりにも色んなことが起こるのでもう、笑っちゃうくらい。

生きてる!という感じがします。

しんどいですが神様の御心を求めて絶えず祈れることは恵みだと思っています。

この世では私たちは旅人であり寄留者。ほんの束の間の日々です。

挫けそうになる時はイエス様の歩んでくださった十字架の道を深く思い、聖霊様の助けを求めながら与えられた信仰のレースを今週も走る(歩く)ことができますように。

祝福を祈ります。
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 61:1-8

「私はあなたの幕屋にいつまでも住み御翼の陰に身を避けます。」(4節)

詩人は神を呼び求める中で、遠く離れていると思っていた神が、身近な「避け所」であることを思い出します。

メッセージ訳ではこんな風に訳しています。

あなたはいつも私に息をする場所、すべてから逃れられる場所を与えてくれました。

息苦しさを感じる人生の中で、誰もが、「息をつく場所」を必要としていると思います。

詩人は息をつくことができる場所を神の臨在の中に見出しました。

「幕屋」も、「御翼の陰」も、神の臨在を象徴する表現です。

人は神の臨在の中で、息をすることができます。

コーリー・テン・ブームは、こんなことを言っています。

「もしあなたが、この世界を見回しているなら、悩むことでしょう。もしあなたが、自分の内側を見ているなら、落ち込むことでしょう。もしあなたが、キリストを見上げるなら、安らぎをえるでしょう。」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!