イザヤ 48章

「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(17節)

 聖書の神は、私たちに益になることを教え、私たちを導いてくださる主です。具体的に、聖書には、私たちの益になることが記されています。ですから使徒パウロもこう言っています。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3:16新共同訳)

さらに聖書は私たちに有益なだけでなく、私たちの歩みを導いてくれるものでもあります。ですから、詩人はこう歌っています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105新共同訳)

 
「神様、あなたが私たちに聖書を与えてくださったことを感謝します。」
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Yes, everything else is worthless when compared with the priceless gain of knowing Christ Jesus my Lord. (Phil.3:8NLT)
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イザヤ 47章

 「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(13節)

この箇所は、バビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、

「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)

ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。助言を求めることがすべて悪いことではありませんが、まず、まことの神様に、祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。

イザヤ 46章

「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(13節)

神様の時があります。今日の箇所の前半部分をLBではこう訳しています。

「わたしはおまえたちを救う。遠い将来ではなく、今すぐだ。すでにお前たちを救う準備は整った。」

神様の御業は遅すぎることはなく、最高のタイミングでそれは成し遂げられます。ですから、詩人もこう言っています。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩46:1)

口語訳では、

「悩める時のいと近き助けである。」

と訳していますが、神様は遠くありません。私たちの祈りに答えてくださる主は、今も生きておられ、今答えてくださいます。それでも祈りの答えが遅れているとするならば、そこに神様のご計画を認める必要があります。

イザヤ 45章

 「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(2節)

 険しい地を歩んでいるように感じる時も、神様は、私たちの前に進んで、その道を整えてくださっていると聖書は言います。つまり、私たちが進む道を、神様は準備してくださっていると言うのです。ですから、たとえ今、険しい地を歩んでいるように感じても、このみことばをしっかり握りしめていこうではないでしょうか。私たちのこれからの人生のために、神様が前もって私たちの道を準備されているというのですから。さらにこの次の3節には、こんな約束があります。

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

「主よ、あなたに信頼し、期待します。」

イザヤ 44章

 「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」(3節)

 神様は、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に、豊かな流れを与えると言われます。つまり、この預言を聞いた人たちの目の前には、かわいた地しか見えていなかったということです。現実的に考えるならば、ありえないことを、神様がなされるということです。どんなに行き詰まっていても、希望があります。かわいた地をうるおす水を注ぐことができるお方は生きています。後半部分を、LBではこう訳しています。

「おまえの子供たちには、わたしの霊と祝福とを注ごう。」

目の前の苦労は、次世代への祝福につながります。私たちは目の前の現実に縛られるのではなく、神の視点に生きる必要があります。

今日は主の日。天に目を上げ、神様に期待し、礼拝を捧げていきましょう!

イザヤ 43章

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(4節)

 誰がなんと言おうとも、神の目には、私たち一人一人は、高価で尊い存在だと私たちを造られた神は言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を尊重するよりも、否定することの方が多い傾向があります。悪魔が私たちの存在、人格を否定することによって攻撃するのです。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しているのです。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない、神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。神は言われます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」

イザヤ 42章

「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」(8節)

ここで「主」と訳された言葉は、「YHWH」です。イスラエルの人々は、この神の名を呼ぶのを恐れて、この単語が出るたびに「主」と呼び直していました。イエス様の時代には、すでに旧約聖書はギリシア語に翻訳されていましたが、ギリシア語でも、「主」という意味の言葉に訳されました。興味深いことは、このギリシア語訳の聖書を読んでいた使徒パウロは、こう言います。

「すべての口が、『イエス・キリストは主(YHWH)である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:11)

つまり、イエス・キリストは「YHWH」であるが、父なる神とは別の位格(person)であると言うのです。ここに、聖書の神、「YHWH」は父、子、聖霊の三位一体の神であることが分かります。

イザヤ 41章

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10節)

 今日、この箇所の約束を自分のものとして掴んでいただきたいと思います。どんな問題や困難があっても、神様が共にいてくださるという約束を自分のものとしていただきたいのです。LBでは、こんな風に訳しています。

「恐れるな。わたしがついている。取り乱すな。わたしはおまえの神だ。わたしはおまえを力づけ、おまえを助け、勝利の右の手でしっかり支える。」

この約束を携えて、今日一日も歩んで生きたいと思います。使徒パウロも、そのように生きていました。パウロはこのように表現しています。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神様は言われます。
「恐れるな!」(Fear not!)

イザヤ 40章

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」(28,29節)

イザヤ書は40章から雰囲気が変わります。ですから、学者によっては別の人が書いたのではないかと推測もされています。ちょうど、旧約聖書は39巻あり、40巻から新約聖書がはじまるように、この章から希望を感じるような預言が増えます。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「全世界を造った永遠の神様は、絶対に疲れたり、ふらついたりしません。神様の理解の深さを推測できる者は、一人もいません。神様は疲れた者に力を、弱い者に活力を与えます。」

私たちに力を与えてくださる神様を待ち望もうではありませんか。

「主よ、あなたを待ち望みます。」