箴言 11章

「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(25節)

現代訳では今日の箇所をこう訳しています。

「物惜しみしない人は繁栄し、人を潤す人は、自分も潤される。」

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。聖書に、こういう箇所もあります。

「気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「主よ、あなたのように、寛大に、人を潤す者となることができますように。」

 

箴言 10章

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(12節)

 私たちの人生を破壊するのは憎しみの力です。誰かがこのようなことを言いました。「サタンは私たちに憎しみと怒りを植えることによってこの世を地獄にしようとし、神様は私たちの心に愛と赦しを植えてこの世を天国にしようとしている。」神の御子、イエス・キリストは、不当にも訴えられ、嘲られ、十字架につけられました。憎しみを抱いたとしても、決して不思議な状況ではありませんでした。しかし、キリストは言われました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖はこの世を地獄にするだけです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、この憎しみの連鎖を打ち破るためでした。神様の愛は、この世を天国へと変えます。そのために、イエス・キリストは十字架で死なれたのですから。

箴言 9篇

「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(8節)

  LBで7節と8節をこう訳しています。

「人をばかにするような者にそれを注意すると、しっぺ返しをくらいます。せいぜいかみつかれるのが落ちです。好意でしても憎まれるばかりだから、かかわり合いにならないことです。しかし、知恵のある人は違います。注意すると、前以上にあなたを愛します。」

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。自分以外は皆師であると、学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

箴言 8章

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(11節)

箴言における「知恵」は人格化されて語られます。これは、「知恵」というのが単なる思考の問題ではなく、「生き方」そのものに関わることを示しています。ですから、箴言は一貫して、一時の快楽ではなく、「知恵」を求めることを勧めます。どんな宝よりも、「知恵」を求めることを勧めます。それでは、どこでまことの「知恵」を見いだすことができるのでしょうか?新約聖書にその究極的な答えを見ることができます。

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント1:24)

もし、本物の知恵を求めるならば、私たちはイエス・キリストとの関係からはじめなければなりません。イエス・キリストとの関係は、どんな宝にもまさり、何も比べることはできません。

「主よ、あなたは、銀よりも貴い。

主よ、あなたは、金よりも価値がある。

主よ、あなたはダイヤモンドより美しい。

あなたに比べうるものは何もない」

箴言 7章

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」(2節)

 わたしたちは瞳を大切に扱います。目は、私たちが生きていくうえで大事な器官である、ということ以上にとてもデリケートな部分だからです。目に虫や小さな砂が入ってしまうだけでも体全体、時には精神的にも影響を与えます。目に対してこれほどの神経を使っているように、神様の御言葉に対して私たちは神経を使って耳を傾けているでしょうか?御言葉が悪魔に持ち去られないようにとしっかりと守っているでしょうか。どのようにして私たちは神様の教えをまもることができるのでしょうか。それは、『それほど大切なものである』ということを日々意識するということではないかと思います。御言葉をぞんざいに扱うのではなく大切にしましょう。

箴言 6章

「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。」(16節)

この箇所には、神様の憎む行いが具体的に記されています。それをLBではこのように訳しています。

「神様のきらいなものが六つ、いいえ七つあります。なまいきな態度、うそをつくこと、人殺し、悪だくみ、悪事に熱中すること、偽証、仲たがいの種をまくことです。」

意識してこれらのことを行っているならば明らかに問題です。しかし、残念ながら私たち人間は無意識のうちにもこれらのことを行っていることに、心を留める必要があります。自分は正しいことを行っている、自分の義は絶対だと思っているならば、そういう人はもしかするともっとも神様が『忌み嫌っている』ことを行ってしまっているかもしれません。自分は正しいと思っている時こそ、もっとも気をつける必要がある時だと思います。なぜなら、そんな時、自分の不完全さや足りなさを忘れてしまうからです。

箴言 5章

「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかしその終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。」(3‐4節)

「他国の女」と記されていますが、誘惑はまさに、サタンが人間を滅びへといざなう常とう手段であると思います。まるで良いものであるかのように私たちを誘惑しながら、最後は永遠の滅びへと落とすのです。どのようにして、わたしたちはこのサタンの罠を見分けることができるのでしょうか。エペソ人への手紙の中に素晴らしいガイドラインが記されています。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は・・・主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・神のすべての武具をとりなさい。(6章)』

箴言 4章

「父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」(4節)

  子供は、親が命令するのは、自分の楽しみを奪うためだと思いやすい傾向があると思います。しかし、実際は、親は子の人生を思うがゆえに、いろいろとしつけるのです。神様の命令も同じです。「私の命令を守って、生きよ」とあるように、私たちが生き生きと生きることが出来るように、神様は私たちに命令を与えられます。神の命令は、私たちを縛るのではなく、私たちを自由にしてくれるのです。スポーツは、ルールを守ってしなければ、楽しむことはできません。サッカーをしているのに、急にラグビーのようにボールをもって走り出す子がいたら、全然楽しくなくなってしまいます。同じように、神の命令は、私たちが人生をより楽しむためにあるのです。

「主よ、あなたのみことばを感謝します。あなたのみことばを守ることができますように。」

箴言 3章

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(5、6節)

  私たち人間の一番の問題は、自分の悟りに頼ってしまうことです。人生を生きていく中で積み上げてきた悟りを、何世紀にも渡って神のみことばとして様々な文化圏の人にも語り続けている神の御言葉よりも優先してしまうのです。私たちは謙遜になって、主を認める必要があります。自分の歩む道すべてに、主を認める必要があります。主を歓迎し、主の導きを日々求めること、これは、私たちの人生の生命線となります。

 「主よ、あなたを認めます。主よ、私の人生を導いてください。私は自分の経験してきた悟りに固執しません。それよりも、あなたの御言葉を優先させます。主よ、導いてください。」

箴言 2篇

「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(21節)

 リビングバイブルではこの箇所をこのように訳しています。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。」 

神様との関係が正しくない時、わたしたちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされていても、心のどこかに隙間を感じていると思います。イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使いますが、この言葉には『神様とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?』という意味があるそうです。あなたと、かみさまとの「シャローム」はいかがですか?もし、告白していない罪があるならば、いま神様に告白し、赦していただいてもう一度神様との正しい関係に入れていただきましょう。もし、赦せない思いを抱えているなら、その人を赦す決心を祈りをもって告白し、神様との正しい関係に戻りましょう。